姫百合協定つまはじき 4章

○ひとりごと 主のない書斎

 どこか遠くで豆腐屋の吹く笛が聞こえた。私は、軽く咳き込みながら無人の書斎に一歩踏み出した。古い一軒家にあるこの書斎に、主はいない。正確には主は私にとって曽祖父だか高祖父だかにあたる人物で、とうの昔に雲の上だ。
この書斎に忍び込むのは今日が初めてではない。私は目に止まった本を手にとった。建築物の写真集のようなものらしい。表紙には洋館の写真が大きくあしらわれている。この本の持ち主はこういう建物を眺めるのが好きなのだろうか?それとも旅行好き?仕事に必要だからこの本を買ったのかもしれないし、たまたま人にもらっただけなのかもしれない。
 一年前、私は書斎の主にプレゼントを送った。彼の好きそうな、時代小説だ。

〇交換しましょう

 橋本くるみは、期待に満ちた手つきでカプセルを開けた。しかし、顔を出したウサギを見た途端、はっきりと落胆の表情が浮かんだ。橋本凜は心の中でかける言葉を練る。
『人生思い通りにいかないことも一つの経験だ』
 それとも、
『姉ちゃんが一回分だけ小銭だしてやるから』
 さてどうしたものかと凛が考えていたとき、誰かがくるみの横に座った。
「よっ、くるみ。久しぶり」
 それは鴨川由香だった。このショッピングモールで凜たち姉妹と由香がたまたま遭遇するのは珍しいことではない。由香と凛の挨拶は「よっ」だか「うす」だか曖昧な唸り声で済まされた。
 由香はカプセルトイの機械に小銭を投入すると、拳法のような気合いと共にレバーを回した。遠慮なくカプセルを開けてタヌキのゴム人形を確認すると、大げさに頭に手を当てる。
「あかんわ、ハズレ」
 うーん、と思案顔になる由香の手元を、くるみが覗き込んでいる。由香はくるみの方を見もせずに、その肩に手を回した。
「なあ、くるみ。折り入って相談があんねんけど、あんたのブツとあたしのブツ、交換せんか」
 由香とくるみの視線がかち合い、ついでくるみの顔が凛の方を向いた。
「くるみの好きなようにしな」
 凛の言葉で、交渉は成立した。くるみに礼を言わせてから、凛はこっそり由香に声をかけた。
「知ってたの?」
「何を?」
「タヌキさんがお目あてだって」
 由香は気取った様子で首をかしげた。
「あたしね、くじ運とかもいい方でさ、そういうときはこうアタマにビビっとくんねんな」
「なにそれ」
 凛は苦笑を返した。

++++++

「で、知ってたんですか?」
 凜を見送ると、取り残された由香に千鶴が声をかけた。
「嘘はついてへんで。今日もちゃんとビビっときたもん」
 由香が千鶴の表情を見ると、以外というか、その顔には見直したような表情が浮かんでいた。
「まあ、いくらビビっと来ても外れるときは外れんねんけど」
 由香は肩をすくめた。
「じゃ、行こうか」
 由香と千鶴は、『協定の証』を購入するためにショッピングモールに来ていた。
 雑貨屋や文房具屋が入ってる一角をぶらついていた由香は、ふと目に入った駄菓子屋に足を踏み入れた。
「食べ物を証にする気ですか?それとも、おもちゃの指輪でもくれます?」
「そらええわ」
 千鶴の言葉をあしらいながら、店内を物色する。結局由香は、ラムネ菓子を取った。途中から文句も言わなくなっていた千鶴は、会計を済ませた由香に不思議そうな顔を向けた。
「ラムネって、食べたくなるときあります?」
「そらあるやろ」
 うすうす感じてはいたが、こいつもしかして火星からやってきたんじゃないだろうか、なんて気分をもてあそびながら、由香はプラスチックのケースを開けた。千鶴は何かを指折り数えるような仕草をしている。
「食事は三食とらなければいけないので、できればおいしいものを選ぶのは分かります。でもお菓子ってそうじゃないでしょう」
 由香は無視して二、三粒を口に放り込んだ。
「いいでしょう、食べました。食べたとして、ああいま食べてよかったなって気分になりますか?」
「どういう話?あんた味わからんの?」
「味はわかります」
「やることなすこと、全部すごい良かったことかそれ以外しかないんか?」
 思い詰めた顔をしていた千鶴はそこで一度言葉を詰まらせ、眉を寄せた。由香はその手首をつかんで、ラムネを分けてやった。千鶴は童話の魔女でも見るような目で由香を見て、一粒をつまんで口に入れた。当然ラムネは魔法がかけられているわけでもなく、千鶴は子供のようにしかめ面で顎だけを動かした。

◯遅すぎた英雄

 朗読会の飾りを作るため、歩夢とりんごはリストにある本を読んでいた。せっかくなのでそのなかからモチーフを選んで飾りを作っていくという訳だ。
「夏帆は?」
「あれ、知らなかったっけ?あいつは今日、真奈美ちゃんとデート」
 知らない。デートのことも、真奈美ちゃんという人のことも。しかしなんだか質問する気にもなれず、歩夢は曖昧に会話を流した。りんごもりんごで、さほど気にした様子もない。りんごはあぐらを組んだ足に絵本を乗せて、開いた頁をじっと見つめている。
「なあ、歩夢。この本って、怖くないか?教訓話みたいにしてるけど、旅人がたまたま干し柿を持ってなかったらアウトじゃん」
 それは昔話の本で、孝行息子がある事情で鬼に因縁をつけられる話だった。孝行息子は結局、縁あって手に入れた干し柿が鬼の弱点であることを知り、難を逃れることに成功する。
「もともとは教訓とか関係なかったんじゃない?昔話ってそういうもんじゃん」
「最近のお話だってさ、そういうのあるよ」
 歩夢はりんごの髪がいつもより低い角度で結ばれているのを眺めた。しかし、妙な空気の原因はそんなことではないはずだ。
「りんご、なんか祭りの日から変じゃない?」
 夏帆の落とし物を捜しに行っていたりんごが歩夢と再会したのは、美咲たちが帰った後だった。輪投げをする夏帆を遠巻きに見ながら、りんごは大まかな事情を確認した。りんごとのやりとりを、歩夢はまだ覚えている。
「そっか。先輩が代わりにくれたんだ。それじゃ、もういいのかな」
「りんご?」
 シャツの袖から飛び出した前腕を、提灯の光が照らしていた。
「夏帆もりんごも、変だよ。小さい頃から宝物にしてたんでしょ?約束の証にしてたんでしょ?代わりがもらえたからはいそうですかで済むわけないじゃん」
 歩夢はりんごの手に例のマスコットがあるのを見た。
「それ、りんごの?」
 りんごは考え事でもしていたのか、少し呆けた表情をしてから、口を動かした。
「違うよ。これは私のじゃない。これは夏帆のだ」
「なんだ、あるんじゃない。バカなりんご。あんなアホ姉に遠慮することなんかないからさ、ちゃんと夏帆に渡してきなよ」
 結局りんごは夏帆にマスコットを渡し、歩夢は美咲のマスコットを姉に返した。それでよかったのだと、歩夢は自分を納得させる。だって、歩夢に他の選択肢なんてなかったはずだ。

++++++

 真奈美の細い指がナイフとフォークを動かす。夏帆がそれをずっと見つめていると、視線に気付いた真奈美が、不器用に微笑んだ。その優しさが、夏帆は好きだった。真奈美が夏帆の前に現れたのは、夏帆が中学一年生の夏のことである。しばらくして、真奈美は夏帆の母親になったが、夏帆は彼女を姉か何かのように感じていた。
「真奈美ちゃんはさ、昔から、こうなるって思ってた?」
「達之さんと一緒になって夏帆ちゃんのお母さんになるって?全然これっぽっちも想像してないよ」
 達之は夏帆の血のつながった父親で、真奈美の今の夫だ。
「なんか、わかるよ。私もお母さんいなくなっちゃったけど、だから真奈美ちゃんと会えた」
 真奈美は先を促すような表情をした。一発で伝わらなかったことにわずかな失望とつまずきを覚えながら、夏帆は説明した。
「私ね、全部遅いの。自転車乗るのも、九九のテスト受かるのも、逆上がりできるようになるのも。でも、どれだけ遅れても、どこかで間に合うの」
 真奈美はハンバーグを切り分ける手を止めて、何かを考える顔になった。やはりこれでも伝わらないのかもしれない。考えをまとめるのが下手な夏帆のことを多少なりと理解できるのは、父の達之と友人のりんごだけだ。それでも、真奈美や歩夢はまだ優しい部類の人間だと、夏帆は信じていた。
「そうかもね。どこかでつり合いが取れてるのかも」
 ほら、優しい。夏帆が口元にたれたグレービーソースを拭おうと紙ナプキンに手を伸ばすと、一足早く真奈美の手が届いた。夏帆は行き場をなくした紙ナプキンを、適当に放り出した。

「私ね、これまでずっとりんごちゃんによくしてもらってばっかりで、これじゃよくないと思ったの。だから今度は、私からりんごちゃんになにかあげたいと思って」
「いいじゃない」
「だから先輩をあげたの」
 サラダにコショウを挽いていた真奈美の手が止まった。以前一度真似してみたことがあるが、コショウをかけ過ぎて咳き込んでしまった。
「りんごちゃん、先輩のこと好きだから、きっと喜ぶよ?そしたらね、私がお荷物じゃないってきっとりんごちゃんも分かって、また前みたいによくしてもらえるようになるの」
「りんごって子は、知ってるの?その先輩って人は?納得してるの?」
 夏帆は手を出した。真奈美はまだ納得いかないような顔で、それでも夏帆の意図に気付いてペッパーミルを渡してくれた。
「りんごちゃんね、先輩のこと好きだってはっきり言ってたよ」
 真奈美は複雑な表情で夏帆の手元を見た。夏帆はゴリゴリという感触を感じながらミルを挽いた。前は結局食べきれなかったコショウサラダを真奈美に処理してもらった。真奈美はそれが好きな食べ方なのだから、利害は一致しているはずだ。

〇これまでのいつよりも

 ぼんやりと雑貨やらを眺めていると、いつの間にか普通に店をひやかしている気分になってくる。うっかり目的を忘れそうになっていた由香は、素知らぬ顔でスマホケースを棚に戻した。
「なんで赤いリボンなんやろ。ダサない?」
「ダサいからいいんじゃないですか?かっこつけて数を誇るような人が出てきたら面倒ですし」
 千鶴は何に使うのかよく分からないアイデアグッズを眺めていて、こいつはこいつで真面目に協定の証を選んでいないように見える。
「あ、これどう?」
 由香は耳にイヤリングを当ててた。
「あのですね。あなたが選んだ証は私が着けるんですよ?」
「大丈夫やって。これ、穴開けなくてもいいやつやし」
「それは分かっています。そういう問題ではないんですよ」
 千鶴の髪は肩の辺りまで伸ばされていて、その両耳をほとんど隠してしまっていた。
「まあ、確かにダサいのはどうにかせなあかんな。これなんかどう?ロケットの中に証を入れとくん」
「お願いですから学校で着けられるものにしてください」
「なんで、似合うよ」
 由香は千鶴の胸元にネックレスを当ててみた。千鶴は眉間にシワを寄せた。
「こんな目立つの急につけ始めたら怪しいですよ」
 ポーズだけで悩むそぶりを見せて、由香は直感で次をあさる。赤というよりはえんじ色のリボンがベルトのワンポイントにあしらわれている腕時計を見つけた由香は、それを箱のままで腕に当ててみた。
「ダメですよ。高いんじゃないですかこんなの?」
「おごってもいいけど」
 軽い気持ちで口に出した言葉は、『ハズレ』だった。千鶴は憎々しげに顔を歪めて、「そんな不公平な協定があるもんですか」とはっきり口にした。
「そういう親切の押し売り、私以外には勝手にやればいいですけど、お金を絡めるのはルール違反ですよ」
 今となっては、由香もそれ以上踏み込もうとは思わなかった。それが引き際であることを、彼女は分かっていた。

++++++

 バレッタの模様がなんなのか、ずっと気になっていた。だから、天啓のようにその言葉が浮かんだとき、牧村美咲は思わず口を開いていた。
「これ、カマキリ?」
「えっ、何が?」
 返事をする三原満の声が想像以上に低かったので、思わず美咲の腰は低くなった。
「いや、バレッタの模様」
「うそ、私知らないわよ」
 満は見えるはずのない後頭部を探ろうとしてもがいていたが、やがて諦めて柱の陰に隠れる姿勢に戻った。
「いけないいけない。騒いでいたら見つかっちゃう」
 美咲は呆れながらも、一応同じような姿勢を取った。美咲達の視線の先には由香と千鶴の姿がある。二人で金柄祭りへ遊びに行く約束をした二人が、後日こうしてデートをしているのだ。気になる気持ちは美咲にもある。
「いけませんわ、このような高価なもの。いただけません」
 なんて、千鶴の声が届くわけはない。満が勝手に声を当てているのだ。美咲が止めないのをいいことに、満は由香の声までアフレコし始めた。
「いいんだ。君は自分の美貌にふさわしいものを身につけるべきだ」
 満の一人芝居の内容にお構いなく、由香は千鶴を置いてどこかへ行ってしまった。
「そういう妄想ってどこからわいてくるの?」
「人間はみんな妄想をして生きているものなのよ。自覚がある分、私みたいなのはマシな方だと思うわ」
 満の声色を聞いた美咲は、それを冗談と判断した。美咲と満がこのショッピングモールで由香と千鶴を見つけたのは、全くの偶然からだった。美咲は満にそそのかされて、こうして二人を尾行している。
 千鶴は由香に押しつけられたイヤリングを耳元に当ててみているらしい。鏡に映った表情は、美咲の位置からは見えなかった。
「……なんか、飽きたわね」
 満はあっさり出歯亀の姿勢を解いて腰を伸ばした。こいつ一回はたいてやろうかと思ったが、美咲としてもこの奇妙な探偵ごっこを続けたいわけでは無かったので、とりあえず彼女の後に続いてその場を離れた。
 先を歩く満の表情は見えない。彼女は片手で軽くバレッタに触れた。
「たぶん、猫か何かだと思うよ」
「そうね」
 満は振り向かなかった。

++++++

無事『協定の証』の会計を済ませると、由香と千鶴はフードコートで遅めの昼食をとった。二人は別々に店を選び、由香はハンバーガー、千鶴は天ぷらそばを注文した。いっそテーブルも別々でもいいかとも思ったが、タイミングが合ってしまったので、二人は空いていた席に向き合って座った。少しの間沈黙があったが、それを先に破ったのは由香だった。
「焼きそば」
 期待していなかったが、千鶴は由香の言葉を聞き返すこともなく、すぐに意味を理解した。
「そうですね。確かに、お祭りなんかでは自分から間食することもあります。あの日は焼きそばを食べ損ねました」
 千鶴は天ぷらを持ち上げ、汁を吸ってもろくなった衣を見て少しがっかりしたような顔になった。
「まあ、あれは夕食のはずだったのですが」
 奇妙なことに、絶縁を意味する協定を結ぶための証を選ぶあいだ、由香と千鶴はこれまでのどの瞬間よりも『仲良し』だった。
 多分、千鶴も気づいていたのだと思う。それでも、二人とも何も言わなかった。由香が何も言わなかったのは、千鶴自身のことを話題にすることを禁止されていたからだ。千鶴の方が何を考えていたのかは、由香にはわからなかった。

++++++

「私、鴨川由香は、今後一切、湊千鶴自身のことを話題にしないことを誓います」
「私、湊千鶴は、今後鴨川由香に対して、『友達』や『友人』という表現を使わないことを誓います」
 由香に押しつけられた値札シール付きの手帳から顔を上げながら、橋本凜はあきれた声を出した。
「で?これはなんなわけ?」
「姫百合協定」
 そういう伝統の都市伝説のようなものがあることは知っている。問題はだれが当事者であるかということと、交わされた約束の内容だ。
「私、仲人なんかじゃないんですけど」
「知っとるわい」
 近くのベンチに座っていたくるみが、興味深そうに首を伸ばした。
「由香ちゃんたちは仲悪……」
 くるみの軽い口を、凜は塞いだ。狐につままれたような表情の由香の横で、千鶴が中腰になった。その微笑みが以外と可憐であることは、由香には見えていないだろうか。千鶴は口を開いた。
「私と由香ちゃんはね、とっても仲が悪いんですよ」

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