姫百合協定つまはじき 5章


〇ひとりごと 象とネズミとのろま

 寿命の長い動物と短い動物では鼓動の早さが違っていて、実際その動物が体感する一生の時間はそんなに変わらないのだと、何かの本で読んだことがある。そんなのはただの例え話だとか、鼓動と体感時間には関係がないのだとか、そういう話も聞いたことがある。私はといえば、もし自分が寿命の長い動物だったとしても、なにもうれしくないなと考えていた。
 だって、寿命の短い動物ったら、せかせかと素早く動き回り、自分よりいろんなことをこなし、すぐに一人前になるのだ。そうなってしまうともう一生の長さなんて関係ない。そのうちには自分だって、ゆっくりだけど大人になることが分かってはいる。けれどもその差はどんどん大きくなっていくのではないだろうか?立って歩けるようになるまでの時間、自転車に乗れるようになるまでの時間、九九ができるようになるまでの時間、逆上がりができるようになるまでの時間、大人になるまでの時間。最初は少しの差でも、大きくなるほど『私だけができない』時間が長くなっていく。
 もしそうなら、私の一生は、たとえどれだけ長くても、ずっとのろまの一生だ。

◯合わせるのが上手いから

 三原満は、首からかけた入館証の傾きを無意識にいじって調整した。名刺大のカードには、『STAFF PASS』と文字が書き込まれているはずだ。すれ違う職員がちらりとその辺りを見たように思ったが、視線はすぐに愛想の良いお辞儀に取って代わった。満も同じようにお辞儀を返す。満が歩いているのは、立花公民館の名前で括られる施設の、東館と呼ばれる棟の三階の廊下だ。
 すでに夏休みがはじまっていて、朗読会に参加するメンバーの出入りも多い。『会議室C』と掲示のある部屋の前に立つと、扉の中頃をくりぬいて取り付けられたすりガラス越しに人影が見える。満はノックをしてから扉を開き、湊千鶴と顔を合わせた。
「来たよ」
 千鶴は「おはようございます」と声を出して頷いた。ナップザックを置きながら、満はちらりと千鶴の様子を観察した。ノートパソコンで作業をしていたらしく、近くにはプリントアウトされた張り紙が散らばっている。
「道案内の矢印ね」
 朗読会場になっている小さめのホールに参加者を誘導するための張り紙をあちこちに貼り付けるのも、千鶴達に割り振られた仕事のひとつだ。
「そうですよ。今日この仕事をするのは以前から予定していた通りだと思いますが」
「うん、そうよね」
 満は千鶴をなだめるように片手を開いてふった。背後でノブの回る音がした。
「来たよ」
 扉を開けて入って来たのは鴨川由香だった。満のモノマネのように、リュックサックを机に置く。
「今日、何するん」
「予定通りです」
 ふーん、と諦めを含んだ声を出してから、由香は満に向き直った。
「なあ、満。どうなっとったけ、予定」
「これ?」
 満が曖昧にプリントアウトを指さすと、由香は千鶴を指さした。
「それはこの人の予定やろ」
他人の予定は覚えているくせに、どうして自分の予定だけぽっかり忘れているのか。突っ込む言葉を心にしまい込み、満は記憶を探った。千鶴の予定は案内の張り紙を作ること、満の予定は照明の調整。由香の予定はどうなっていたっけ。
由香は勝ち気な微笑みのまま小首をかしげている。あなたの予定なんてこっちが把握しているわけない。簡単な言葉を口に出しあぐねているうちに、千鶴の声が割り込んだ。
「あ、ごめん。予定通りじゃなかった」
 由香はあっさり満を解放し、千鶴を見た。
「朗読会への小山さんの参加を申請したので、鴨川さんには書類の修正をまとめて欲しいです」
「うっし」
 由香は大げさに手を打ち合わせて気合いを入れた。千鶴はにこりともしない。満は荷物を整理する手を動かしながら空いた頭でぼんやり考えた。『あ、ごめん』とは、千鶴にしては無防備な言葉遣いである。信頼している美咲に対してさえ、普段はもうすこし改まった喋り方をする。
「というわけで、満もよろしくな」
 顔を上げると、由香が右手を出していた。握り返すと、顔を覗き込むように首をかしげる。
「別に、満って呼んでもええよな?」
「いいわよ」
 妙なことを訊くものだ。初対面でもあるまいし。由香は一度納得顔になったものの、そのまま手をつなぎ続けて、言った。
「満、あたしの名前ちゃんと知っとる?」
 意図をはかりかねながら、満は答えた。
「鴨川由香さんでしょ」

++++++

 うたた寝から覚めた美咲は、自分が自動車の後部座席にいることを思い出した。運転席には父、助手席には母、後部座席の左には歩夢、右側が美咲。長年慣れ親しんだ定位置だ。通奏低音じみた振動を感じながら美咲はぼんやりと外を見た。どこかの高架の下を走っている。
「お母さん」
「なに?」
 助手席から母が返事をするのが聞こえる。背中の下で制服のブラウスがしわになり、妙に心地悪い。
「今どの辺?」
「どの辺というか……。式場まではあと二十分くらいかな」
 『式場』というのは結婚式場のことである。母方の従兄弟である大原良太の結婚式が、そこで行われるのだ。美咲はまだ気だるい感覚に身を任せながら、少しだけ窓に顔を寄せた。高架下には駐車場があり、その向こうをパチンコ店と石材店が流れた。
「ねえお母さん、私、車でここに来たことある?」
「んー?」相槌を打ってから、母は父に水を向けた。「お父さんどうだったっけ」
「一回来たと思うけど。震災があった年だから、美咲は五歳くらいじゃない?でも、見た目はかなり変わってるはずだよ。これ、新しい国道だから」
 だって、というように振り返った母が視線を向けた。美咲も特に追求はしなかった。美咲の体ごしに景色を見ていた歩夢が、やはり興味もなさそうにつぶやいた。
「こういう道ってどこにでもあるから、多分記憶が混ざってるんじゃない?」
 歩夢は前髪をつついて妙な表情になった。整髪料やらなにやらを駆使した涙ぐましい努力によって、その前髪はいまはしっかり額にかかっている。

 親戚の家を朝早く出たが、慌ただしく挨拶やら式のスケジュールやらをこなすうち、昼になり、昼過ぎになった。もっとも美咲のやったことといえば、黙々と出される料理を口に運ぶことくらいだったが。主役の片割れである大原良太は名目上美咲達にとっての従兄弟ではあるのだが、東京に住む美咲たち家族とも大分に住む祖父母とも離れた場所に住んでいるため、滅多に会うことはない。
 やがて写真撮影の時間が始まり、立ち上がった列席者達が談笑をはじめた。式が始まる前にもそれぞれが挨拶を交わしていたが、式の間新郎新婦と話す機会は案外貴重であるので、それなりに盛り上がっている。叔母と母が自分のことを話題にしていることに気付いた美咲は、慌ててそちらに意識を戻した。
「みさちゃん、良太と話が合ったものね。新婦さんに嫉妬されないようにね」
 何の話か完全に把握できないまま曖昧に相槌を打つと、二人はまた話を続けた。
「じゃあ、まだ電車が好きなんですか?」
「部屋のなか走らせたりはしなくなったけど、本当のとこはどうかわかんないわよ」
 座ったままくすぐったそうに成り行きを見ていた良太は、お義理のように小さくした声で美咲にしゃべりかけた。
「いかにもって感じだろ?」
「え、なに?」
「いかにも、親戚のおばちゃんって感じだろ?小さい頃ちょっと興味を持ったからって、美咲ちゃんもずっと、鉄道模型とかそういうののこと好きなんだと思い込んでるんだよ」
「そうなんだ」
 そこまで話が進むと、美咲にも少しずつ記憶が戻ってきた。小さい頃に訳も分からず連れて行かれた家の記憶。和室を一つ占領するおもちゃの電車のレール。借りたおもちゃで危なっかしく遊ぶ自分と歩夢をむっつりと見る少年。他のいろいろな断片の記憶と一緒に整理されずに転がっていたが、あれは良太の家での記憶だったのだ。
「美咲ちゃん、話を合わせるのがうまいからさ。気をつけろよ。あの手の人間の前でそんなことばっかやってると、本当に好きなんだってすぐ勘違いされるぜ?」
 良太にとって自分がどういう人間に見えているのかいまいちピンとこないまま、美咲は「そう?」とだけ答えた。

〇赤いリボンの生徒手帳

サイコロが転がり、テーブルの周りでそれぞれの一喜一憂を含んだ声が上がる。
「夏帆、あんた開拓地を増やす気なんか?」
「いけませんよ小山さん。こういう誘導尋問に答えるのは」
「ローカルルールがあるんなら先に言っといてくれる?あたしのいたとこじゃ、手の内さらしたうえで交渉するんがおもろいと思っててんけど」
 由香と千鶴の言葉を聞きながら、満は『開拓地』や『街道』を眺めた。空き時間が出来たため、満達は公民館に置きっぱなしのボードゲームを使って遊んでいるのだ。手番である由香が、資源と呼ばれる手札の交換を夏帆に持ちかけている。満は手持ち無沙汰に説明書きを眺めた。
「ゲームの仕組みとしてはそうなんじゃないかしら?自分の持ってる資源もずっと表に出てる訳だし、本人が黙って何かやろうとしても、賢い誰かが気付くわよ」
「満みたいにか?」
「そうそう」
 やや皮肉めいた由香の言葉を正面から受けて、満は答えた。プレイヤーとして盤面に向かっているのは由香、千鶴、りんご、夏帆の四人であり、言ってしまえば満が口を挟むのは岡目八目だ。
「ねえ、りんごちゃん」
 他の顔ぶれから逃れるように、夏帆が左隣のりんごに身を乗り出す。どこか上の空のりんごは、見た目には自分の手持ちの資源とにらめっこしながら夏帆に返事をした。
「いいんじゃない?夏帆は開拓地を作りたいんでしょ?夏帆自身の損得としては悪くないと思うけど」
 千鶴がりんごをちらりと見たが、結局は静観することに決めたようだった。夏帆は由香と資源を交換し、次の自分の番で開拓地を建てた。時計回りに順番が回り、りんごがサイコロを回した結果、鉱石カードが各プレイヤーに行き渡り、りんごと千鶴がそれぞれに何かを察した。
「じゃあ次は私の番ですね。木材四つを煉瓦と交換します」
「良いんですか?木材なら二つあれば私は煉瓦を出しても良いですよ」
 千鶴の言葉に、りんごは視線を向けた。千鶴は続ける。
「次に麦が出たらこの人が上がりですよ」
「えっそうなの」
 この人、と千鶴が指さした由香を見て、夏帆が驚きの声を上げる。りんごは続きを引き取った。
「私が木材渡したら湊先輩は最長交易路になる気ですよね」
「そうですけど、私の損得より、自分の損得を考えてみては?」
 夏帆は目を白黒させながら千鶴とりんごを見比べていた。りんごはすねた子供のようにむっつりと自分の手元にある資材を並べ替えている。満から見て、それは時間稼ぎのようにしか見えなかった。そうしていれば騎兵隊は来るのかしら。心の中でつぶやいた満は、次の瞬間には口を開いていた。
「結局湊は、自分の戦略を隠すのはやめたわけ?」
「私ですか?」
 千鶴はちらりと由香を見た。指摘されているように『あがり』が見えている由香はにやにやと面白そうに他のプレイヤーのやりとりを眺めている。千鶴は後生大事に掲げていた煉瓦の札をおいた。
「分かりました。この回ではこれ以上口出ししません。酒匂さんにおまかせします」
 結局、りんごは千鶴の申し出を断り、由香はゲームに勝利した。

「なんや、お節介な奴が多くてかき回されたな」
 全員で片付けをする間、由香はにやにやと夏帆に声をかけた。
「そうですよ。そうやって振り回すの、やめてください」
「ごめん。でも、足を引っ張ろうと思ってやったわけじゃないよ?」
「全部指示通りにやって勝っても嬉しないやろ」
 夏帆はいらいらと、満と由香の二人の顔を見比べた。
「そもそも、なんで勝ちたい前提なんですか?」
「じゃあ負けたいんか?」
 それじゃまるで『酸っぱいぶどう』だ。夏帆は首を横にふった。
「負けるのは嫌に決まってるじゃないですか。だからって勝っても嬉しくないんです。いや、勝てないんですけど」
「恥をかかずに乗り切りたい」
 千鶴がポツリと口にした言葉に、夏帆は首を縦にふった。
「そうです。普段から恥かいてばかりなのに、わざわざこんなゲームでまで追加で恥かく意味がわからないです」
 夏帆はカードを納めた容器の蓋を、ぱちんと閉めた。

++++++

 湊千鶴は、吹き抜けに面したベンチに座り込んでいた。頭痛の巣くった右目の上を軽く小突くと、気休めにはなる。そのまま千鶴はつぶやいた。
「別に、平気ですよ」
 ぶらぶらと歩いていた由香は、気にしたふうもなくそのまま千鶴との距離を縮めた。
「そう。べつにどっちでもええわ」
 強がる子供をなだめてすかすような言葉だった。千鶴は自分がますますむきになるのを感じた。ゲームの後具合の悪くなった千鶴は、広い場所で休むことを皆に告げて、返ってくる質問にろくに答えることもなく、逃げるようにここにやってきたのだ。はっきりとは言わないが、由香は様子を見に来たのだろう。
「分かっていると思いますけど、私自身のことを訊くのは協定違反ですよ」
「協定もどきな」
 由香と千鶴は視線を交わしたが、自分がどんな顔をしているのか、千鶴には分からなかった。
「それ思うねんけど、破ったらどうなるん?」
「私からの信頼を失います」
「ウケる。そんな安くてええんか」
「それからこれも、互いに返す必要があります」
 千鶴は手首の腕時計を触った。由香の手首にも同じものが留められている。
「もどきでも?」
「もどきでもです」
 真顔で言ってから、千鶴は息をついた。
「ただの貧血です。ゲームをやってる間、普段より多くしゃべったからこうなってるだけですよ」
「普段どんだけ人と話してへんねん」
 由香は一転してげんなりした顔をした。
「ですから、私自身のことを訊くのは協定違反です」
「今のは質問やなくて感想」
 由香は人差し指で千鶴の頭をつつき、立ち上がって背を向けた。そういうフルコンタクトなコミュニケーションも苦手なのだと、宣言してやれば良かっただろうか。

 由香と入れ替わるようにして、満がやってきた。
「よく分からないわね。あんな協定を結んでおいて、こんなに親しく話すなんて」
「何か自己分析じみたことを言った方がいいですか?」
「どちらでもお好きなように」
 満がなぜ件の協定もどきのことを知っているのか気にはなったが、なんとなくそれは放っておいてもいいような気がした。満は片脚にかけた体重を反対の足にかけ直して、上着のポケットから生徒手帳を取り出した。
「湊はさ、本当に協定を結ぶつもりがある?」
「もしあったら、何をしてくれるんですか」
「私が仲人になってあげる」
 満は手帳を開いてみせた。栞紐の先に赤いリボン型のバッヂのようなものが留められている。
「そうすれば本当の協定になるんだけど、どう?」
「せっかくですが、間に合ってます」
「そう」
 満は小首をかしげて、おもしろくもなさそうに栞紐をしまった。隠すには結構かさばる代物らしい。
「一応協定の意思はあると見なしてるから、気が変わったら教えてね」
 手帳をしまった満は、そのまま少しとどまっていた。千鶴は考えをめぐらして、かける言葉を選んだ。
「満、髪切りました?」
「切ってないわよ」
 満は奇妙なものを見る顔になり、首をひねったまま何処かへ引き返した。

〇勲章みたいに

 千鶴に飲み物でもおごってやろうかと考えた由香は、自分でそれを打ち消した。そういう気遣いを千鶴が嫌うことは、だんだん分かってきた。通路から奥まった場所にある自動販売機に無為な視線を送った由香は、そこに見知った人影を見つけた。気遣いの嫌いな奴がもう一人。由香に気付いたりんごは、軽く手を上げて挨拶すると、買ったばかりらしいコーラと由香を見比べて、微笑んだ。
「ちょうど良かった。これ余ってたんですよ。先輩、もらってくれませんか?」
 どういうことになったらそんな余りかたをするのか、訊くのが本当なのかもしれなかったが、由香はただそれを受け取った。
「なんや気前良いやん」
「お返しですよ。この間の」
 由香は多少あきれて、ペットボトルを慎重にゆらした。
「湊先輩のこと、心配ですか」
「心配?あたしが?」
「違うんですか?……だったらもしかして、協定のため、とか」
 ペットボトルの蓋を開ける由香の手が止まり、空気の抜ける間抜けな音が響いた。
「わかりますよ。二人そろって赤いリボンの腕時計を付けてるんですから」
 指さされた腕時計を眺めてみてから、由香はコーラをあおった。どう考えても一気に飲むには多い量を喉に流し込む由香を見て、りんごは慌てた。由香は無視して、適当なところで口を離した。
「あたしな、炭酸苦手やねん」
「なんで飲んでから言うんですか……」
 それで一発景気付いた気分になり、勢いに任せて、しかしぽつりと由香は言った。
「りんご、あんた下手やな」
「普通に渡しても受け取ってくれないじゃないですか」
「そういうやつとちがくて」
 哀れにも逆さまにされたペットボトルの中で、残り少ないコーラが蓋の方にたまる。
「あんた、夏帆をビリにしたくないんやろ」
 蓋が閉まっているので、当然中のコーラはこぼれない。由香はそれを不思議な気持ちで眺めた。りんごが眉をひそめて、やや真面目な顔になる。
「そうですよ。夏帆、かわいそうで見てらんないから」
「りんご。あんた、夏帆のナイトになるつもりなんか?」
「だったらいけませんか?」
「あの子がお姫様やったらそれでもええかもしれんけどな」少し言葉を選ぶように間を取ってから。「お宝かなにかと思ってるんちゃうかと思ってな」
 りんごは由香からペットボトルを奪い、残りを飲み干した。
「嫌いなんですよね、炭酸?」
 ゆっくりと首を縦に振った由香の仕草をりんごがどう受け取ったのかはわからない。りんごはペットボトルを備え付けのゴミ箱に捨てた。
「なんで、そんなに言葉に素直なんですか?」
「当たり前やろ。いつ嘘をつかれるか分からない、なんて考えながら生きてないよ。そういうのが社会の約束やんか」
 とりあえず返事をしてから内容を消化して、由香は改めて身を乗り出した。
「あのな、コレが一番不思議やねんけど、誤解されたくないんなら、本当のことを言ったらええやん。こっちが訊いてるうちに、答えたらええやん」
 本当のこと、とりんごは口の中でつぶやいた。
「友情って、協定みたいだと思いませんか?軽い気持ちで結んでしまうと、自分だけの都合で取り消すことはできない」
「ケンカでもしたんか」
「喧嘩なら良いですよ。お互いに喧嘩をしたことは知ってるじゃないですか」
 由香は自動販売機の前に立ち、小銭を投入した。並んだ商品を選びながら、とんとんと指でリズムを取ってみる。
「贅沢やんな。こっちが気い使っても、勝手に嫌ってると思い込まれることもあんのに」
「千鶴先輩のことですか」
「大ハズレ」
 ボタンが押され、ゴトリという音と共にウーロン茶のペットボトルが吐き出された。
「それ、自分で飲むんですか?」
「千鶴に断られたらそうする」
 りんごに分かるわけがない。由香のことで、りんごが知ってることなど本当に少ない。ついさっきのりんごとの問答を皮肉な気持ちで思い出しながら、由香は背を向けて歩いた。

++++++

「というわけで、私はこの『そよの金魚鉢』を推薦します」
 通販番組よろしく千鶴が表紙を見せる絵本に、一同の注目が集まった。
「日本の昔話のようにも思えますが、そう考えると奇妙な描写も多く、無国籍な話にも思えます。寒村に嫁いできた『そよ』が持ってきた嫁入り道具は、金魚鉢だけでした。海藻の一本もなく、ただ砂利と水が入っているだけの鉢に、そよは毎日己の髪を一本差し込みます」
 りんごに夏帆に満に由香、相変わらずの顔ぶれのなか、誰かがつばを飲んだ。
「そもそも、髪が水面に浮かばないのがおかしいのです。それは毎日砂利の間に沈みました。そして、そこに溜まる様子もなく、いつの間にか消えているのです」
 千鶴は閉じたままの絵本の表紙を撫でた。それがなんだか呪術めいていて、りんごには一層不気味に感じられた。
「しばらくすると、村で不思議な事件が起こり始めました。犬やニワトリが姿を消し始めたのです。詳細は省きますが、ある日ついにそよの義母が姿を消します。夫はそよを問い詰めたあげく、首を絞めて殺してしまいます。残った鉢はたたき割られ、そよと一緒に埋められました」
 りんごの隣の満は、心なしか瞬きの回数が多い。
「ところが三日後、そよの義母、つまり夫の母がひょっこり返ってきます。ただし、金魚鉢を持って」
 由香は強がるように苦笑いを浮かべている。
「夫の母親は毎日自分の髪の毛を金魚鉢に差し込みます」
 千鶴が口を閉じると、しばらく絵本を撫でる手だけが動く時間が過ぎた。由香が沈黙を破った。
「それで、続きは?」
「これで終わりです」
 ずっと黙っていた夏帆がおずおずと手を挙げた。
「あの、これってもしかして、怖い話ですか」
「なんやと思っとったん?」
 その突っ込みをきっかけに、おのおの座っていた椅子を立ったり、体をひねったり、緊張をほぐしはじめた。夏帆は納得いかない様子だ。
「そんなのやったら駄目でしょう」
「そうでもありません。第四十六回には怪談が二つありましたし、第四十二回にも二つ、四十七回は四つもありました」
 夏帆は渋い顔になった。
「とにかく、やりたくありません」
 朗読会への夏帆の参加を申請したのは数日前のことだ。そして、つい二時間程前、参加が許可された旨の連絡があった。ただし、条件が一つ。夏帆が申請したエリオットの絵本は、他のグループがやるものと被っているということで、やめるように提案されたのだ。
「ごめん、りんごちゃん」
あやまることじゃないだろう、と考えながら、りんごは絵本の山からひとつを手に取った。何から手を付ければ良いのか分からず、五人でかき集めた候補の本だ。五人、と言っても、夏帆はほとんど本を集めていなかった。
「でもさ、最初からそういうことになってるんだよ。拍手をもらえるのは、あっちの人たち」
 突っかかるように投げつけられる夏帆の言葉は、謝っているのにもかかわらず、自分を責めているように、りんごには聞こえた。

++++++

ばい菌の入った傷口の、ひどく化膿した症例の写真を、りんごは見ていた。
「やめなよ。りんごちゃん、怖い写真ダメなんでしょ?」
 夏帆はこちらを見ようともしないで言った。いつの頃の話だよ、と言う代わりに、りんごは言った。
「中途半端に見るから余計頭に残るんだよ。じっくり見れば、そのうち慣れてなんだこんなもんかって思うようになるんだって」
 今回の朗読会では各グループから最低二人が安全委員という役職になり、怪我などのトラブルを予防したりもしものとき担当の職員との連携をとることになっている。りんごたちのグループからは夏帆が担当として選ばれていたが、彼女が朗読会に参加することになったため、後からりんごと合わせて二人体制をとることになった。
「あのさ、アンコール、するよ」
 夏帆の青い顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。二人は先ほど職員から消毒液や絆創膏の場所を教わったばかりで、夏帆はまだメモ帳とシャーペンを持っている。
「今から二枠にはできないけどさ、内輪だけで、アンコールしようよ。そこで『エリオット』を読めばいい」
 夏帆の後ろに、充血した眼球の巨大な写真が見える。あれは一体何を警告しているのだろう。
「それ、約束?」
「ううん。協定」
 どくどくと不安定な心臓の音を、りんごは一人で聞いた。

〇こどものころの話だよ

 自分の幼い頃の失敗談を聞かされて気分の良い子供などいない。すくなくとも、歩夢はそう信じていた。四歳の頃祖父の家へ遊びに来たときに、歩夢は迷子になった。なった、らしい。その経緯を歩夢は全く覚えていないが、今日偶然通った風景を見て、突然神社を歩いた記憶がよみがえった。式の帰りにそのことを家族に話すと、実際に行ってみようという話になった。
とどまることのない両親の思い出話を聞きながら、歩夢は境内をぶらついた。はじめに話題を振ったのは自分なのだから、文句を言ってばかりもいられない。それなりに好奇心もあった。奥まったところにある納屋の前に立つと、デジャブめいた感覚が胸をついた。確かに自分はここのことを覚えている。
「歩夢がさ、社務所にいたときはずっとぽかんとしてたらしいのに、私の顔見たらもう号泣よ。びっくりしたんだから」
 母の語りを聞きながら、歩夢は心の中で訂正した。自分が泣いたのは寂しさや不安のためではない。抗議したかったが、かといって本当のことを言う気にもなれず、歩夢はむくれた顔を維持した。
 家族が迎えに来たとき、歩夢はおそろしかった。人違いなのではないかと思ったのだ。三人ともどうみても自分の家族だけど、もしそれがただそっくりなだけの別人だったらどうしようかと思ったのだ。そっくり家族にはやはり歩夢そっくりの娘がいて、人違いをしているのだ。そっくり家族は歩夢の家族のものとそっくりの自動車に乗って、そっくりの家に帰る。迷子の不安によって膨らんだ、子供の理不尽な妄想だ。
そっくりの家で眠る前にこっそり姉にその話をしたら、あろうことか「そこまでそっくりなら別にどっちでもいいんじゃない?」などと言うのだった。それで一度は毒気を抜かれてしまい歩夢はおとなしくベッドに入った。
 それから深夜に目を覚まし、急に怖くなった。自分は無事にこのそっくり家族と合流できたから良いけれど、自分のそっくりさんの方は、無事に歩夢の家族と合流できたのだろうか。

++++++

四人で階段を降りながら美咲の様子をうかがうと、彼女は難しい顔でつぶやいた。
「母さん、この辺に模型屋があったよね」
 歩夢の気まぐれの次は、美咲の番だった。四人の家族は麓にある模型屋に入った。
「そういえば、神社の人と話してる間、美咲にここで待っててもらったんだっけ」
 母の言葉を聞きながら、歩夢と美咲は店の中を歩いた。
「もらった小銭で発泡スチロールの飛行機を買ってさ、そっこう作って、たぶんこっちにさ、別の階段があるよね」
 美咲はそのまま夢遊病患者のようにふらりと歩を進め、本当に階段を見つけた。あちこち崩れかけて、伸び放題の草に覆い隠された石の階段だ。
「上った先に、また階段があって、ちょっと下る。赤いフェンスがあって、この坂の上から飛行機を飛ばしたらさ、フェンスの向こうのプールに落ちて」
 美咲は伸ばした手をぱたりとおろした。歩夢はとんちんかんに思考をめぐらし、言った。
「もう一回買う?下でさ」
「こどもの、ころの、話だよ」
 フェンスが反動で小さく振動している。
「そのときどんな気持ちだったかなんて、もう覚えてないよ」

〇本当の協定

 朗読会が開かれるホール群と併設された噴水公園との間、獣道のなかに取り残されたように東屋がある。酒匂りんごは緊張した気分で三原満を見た。満はちらりとあたりに目をやってから、手元の生徒手帳に視線を落とした。
隣に立っていた夏帆が、不安そうにりんごを見た。本当にこの人が仲人なの?という目線。それについては、りんごだって千鶴から聞き出しただけで、確たる証拠を持ってはいない。満は証拠として生徒手帳に取り付けられたリボンを見せたが、そういったものに対する情報だって、千鶴に聞いたものしかない。
「それでは、これより姫百合協定、締結の儀式を始めます。お手元の生徒手帳への記入は終わりましたか?」
 満が仲人としての声を出し、りんごの意識は現在に戻った。りんごと夏帆の二人が生徒手帳を差し出し、満は頷いた。
「まって」
 夏帆がぐずるような声を出した。彼女はりんごに目で訴え、右手を差し出した。
「りんごちゃん。手を握ってて」
 りんごは夏帆に従って、右手を差し出した。
「これで、お願いします」
 それでは、と満が促した。夏帆がすっと息を整えた。
「私、小山夏帆は、立花公民館で開催される朗読会に参加し、朗読をやりとげることを誓います」
 夏帆の右手がぎゅっと握り込まれた。次を。早く、早く。
「私、酒匂りんごは、小山夏帆の朗読に拍手し、アンコールを要求することを誓います」
 途中で夏帆の手がもう一度握り込まれ、思わず声が裏返りそうになった。そんなりんごの事情を知る由もなく、満が頷いた。
「この協定は、当人同士の名誉によってのみ成り立ちます。仲人はその内容に対して、強制力や責任を負うものではありません」
 法律を読み上げてるみたいだな、と思った。
「それでは、『協定の証』の交換を行います」
 二組はあらかじめ机の上に置かれた『証』を手にとった。やっと夏帆の右手から解放され、りんごは安堵した。夏帆はカエルのマスコットを差し出した。金柄祭りの日にりんごから手渡した『エリオット』だ。りんごはモミジの模様が刻まれたメダルのキーホルダーを取り出した。金具のあたりに、申し訳程度に赤いリボンが結ばれている。それが『アイシャお城』に登場する小道具だと、夏帆はきっと知らないだろう。二人は『証』を交換した。
「お疲れ様です。これで姫百合協定は結ばれました。」
 りんごは息をついた。
「りんごちゃん」
 夏帆が歩み寄り、りんごに抱きついた。不思議と、手を握ったときほどの嫌悪感はなかった。夏帆が離れると、りんごは乱れた前髪を整えた。
「頑張って、夏帆」
「うん」
 りんごは両手を体の後ろに隠し、右手を左手で包み込んだ。感触が残ったらどうしてくれる。

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