キャンドルを灯す
久しぶりの雨。
陽当たりのいい我が家のリビングも、今日は薄暗い。
こんな薄暗い日のささやかな楽しみは、キャンドルを灯すこと。
穏やかに灯るキャンドルの炎を眺めながら書いている。
日々の生活の中で、キャンドルを灯すという習慣などなかった。
キャンドル作りを始めた友人に、プレゼントしてもらった事。
そして同じ頃、キャンドルの炎を眺めることを、勧めてくれた人もいて、それならば、と気が向いた時間にキャンドルを灯し始めた。
確かに、落ち着く。
リラックス効果が相当あるように思う。
これまでのわたしの人生の道筋にはなかった、「キャンドルを灯す」という行為が、これから先のわたしの人生には存在するんだなと思うと、なんだかすこし嬉しくなった。
そういえば、過去に一度だけ、キャンドルにまつわる記憶がある事を思い出した。
子供達がまだ幼かったころの家族旅行。
泊まった旅館の、湖が見えるロビーでは、毎晩小さなコンサートが開催されていた。
40代くらいの男性のギターの弾き語りだった。
演奏する曲は、わたしよりもっと上の世代の人達に好まれそうな、懐かしの歌謡曲が中心だった。
聴いたこともない曲も多かった。
それでもわたしは、一緒に行くと言う、幼い娘を連れて、二夜連続でラウンジに通った。
その頃のわたしは、鬱病を発症して2年ほどが過ぎ、
まだまだ体調に波があったが、のんびりとした旅に出られるくらいには回復していた。
ロビーを照らす明かりは、テーブルに灯されたキャンドルの光だけ。
わたしは、キャンドルが灯されただけの薄明るい空間に身を置くだけで、それまでの人生で疲れ切った心が、少し癒されていくのがわかり、とても心地良かった。
男性がギターの弾き語りを始めると、隣でちょこんと座って、静かにジュースを飲んでいた娘が、「おかあさん、見て」と耳元で囁いた。
「火が踊ってるよ」
娘は、キャンドルの炎を指差して、そう言った。
演奏の音の振動で、キャンドルの炎がゆらゆらと揺れていたのだ。
そんな些細なことに、大人になったわたしは、気づきもしなかった。
各テーブルに灯された、たくさんのキャンドルが曲に合わせて同じリズムで揺れていて、その様は、娘が言うように、本当に炎が楽しげに、歌い躍っているかのように見えた。
その揺れ動くたくさんの炎を眺めているうち、わたしの心は、まるでキャンドルの炎が灯ったように、明るく温かくなっていった。
この娘は、鬱病になったわたしを救うために、わたしの元へやって来てくれたのかな…なんて、思わず感傷に浸ってしまうくらい、なんだか娘のことが愛おしくなった夜だった。
それが、過去に一度だけのキャンドルにまつわる、わたしの思い出。
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