北条政子について(2)

幕府と朝廷の関係は、融和策のリーダーであった実朝の死後悪化します。子供のいなかった実朝の後継の将軍に朝廷は皇族から将軍を出すことを望みますが、幕府側の代表である政子の弟の北条義時はこれを拒否しました。この件は義時の要求が通ったのですが、朝廷と幕府にしこりが残り、特に朝廷側のリーダーである後鳥羽上皇は北条義時に大きな憎しみを持つことになりました。

将軍後継問題の二年後、1221年義時追討の命令が有力な関東の武士に対して出されました。また、後鳥羽上皇自身も兵を率い挙兵しました。義時は幕府の執権ですが、事実上の代表者ですので義時追討は鎌倉幕府を倒すことを意味します。

鎌倉側の武士はこの命令に大きく動揺しました。この命令に背いたら自身が謀反人として討伐されることが見えているからです。この動揺を沈め、むしろ力に変えたのが政子の「最後の詞」とする演説でした。北条政子は主だった家臣団を集めてこう呼びかけたと吾妻鏡にあります。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。

訳)みなさん、心を一つに聞きなさい。これが最後の言葉です。頼朝様が朝敵を征伐し関東に幕府を作ってから、官位といい俸禄といい、その恩は山よりも高く海よりも深いものでしょう。感謝の気持ちが浅くはないはずですよね。いま、逆臣の讒言により義時追討の命令が出されているます。名誉心があるのであれば、はやく秀康や胤義(朝廷側の家臣)を討ち滅ぼし源氏三代将軍が残したこの鎌倉を守りなさい。ただし、朝廷につくものがあればこの場で申し出なさい。

承久記ではこのあとにこのような文言も追加してます。

先づ尼を殺して鎌倉中を焼き払ひて後、京へ参り給へ

訳)(院に味方するのであれば)まず、私を殺して鎌倉を焼き払った後に、京にまいられるがよい。

政子の人生をかけた演説、それは政子のそれまでの人生を背景にしているからこそ人の心にせまったのでしょう。

吾妻鏡にはこの演説を聞いた、家臣たちは涙が流れ、言葉にならない者もいたと書いてあります。鎌倉幕府がなかった頃はみな裸足で朝廷に上り下りしていた、朝廷は決して自分たちのことをよく取り扱わなかった。そんな惨めな生活がまた戻ってくる。武士たちはそんなことを思ったのかもしれません。

政子のこの演説後、鎌倉勢は少数の手勢で鎌倉を出発したものの、次々に援軍がかけつけ京都が到着する頃には18万もの軍隊となっていたそうです。そして、朝廷側を打ち破ることになりました。政子は最愛の夫が作った鎌倉幕府を守ったのです。また、日本の歴史的にもいいか悪いかは置いておいて、このあとしばらく続く武家社会の大きなターニングポイントになったのではないかと思います。一人の女性が源氏の御曹司に恋をした結果、日本の歴史を変えてしまったのです。

北条政子はこの4年後69歳でなくなります。政子は強い女性であったと思いますが、現実は過酷な運命を彼女に与えたと思います。大姫の死もそうですが、夫の急死以降ふたりの子供たちを守りきれなかったことは彼女にとって大きな傷になったのではないしょうか。けれども彼女は社会と関わることを最後まで避けなかった。その結果、彼女が最も大切にしてきたものを守りぬくことに運命が味方したのだと思います。

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