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『人生論ノート』 ー運命についてー

人事異動で望まない、あるいは自分には向いていないと思うような職場に異動になったことはありますか。私が今の職場への内示があったとき、自分には向いていない職場になったなと思い、金曜日に内示があったのですがその直後の土日はずっとふて寝をしていたことを思い出します。

もちろん人事異動だけでなく、自分の思いと現実の動きが180°近く異なることがあると思います。そんなとき、何でこんなことが起こるんだ、何でこんなところでこんなことをしているのだと自分の運命に絶望してしまいがちです。

三木清は人生論ノートにおいて、こんなことを書いています。

自分の希望はFという女と結婚することである。自分の希望はVという町に住むことである。自分の希望はPという地位を得ることである。等々。ひとはこのように語っている。しかし何故にそれが希望であるのか。それは欲望というものでないのか。目的というものでないのか。或(ある)いは期待というものでないのか。希望は欲望とも、目的とも、期待とも同じではないであろう。自分が彼女に会ったのは運命であった。自分がこの土地に来たのは運命であった。自分が今の地位にいるのは運命であった。個々の出来事が私にとって運命であるのは、私の存在が全体として本来運命であるためである。希望についても同じように考えることができるであろう。個々の内容のものが希望と考えられるのは、人生が全体として本来希望であるためである。

三木清の師匠にあたる、西田幾多郎の言葉に「純粋経験」というものがあります。固有の思いや考えをもっている主体としての「私」がいます。同時に、環境中にあるものとしての客体としての私を含めた「世界」があります。客体としての「世界」と主体としての「私」がふれあう瞬間に本当の自己というものが理解ができるというものです。このときの体験が「純粋経験」。

「私」が「世界」を常に正しく認識できるのであれば、話は早いのですがそうは問屋がおろしませんよね。「私」はどうしても好き嫌いとか、今までの経験とかにたよっている私はあるがままの「世界」をゆがんでみてしまいがちです。あるがままの「世界」である主体を認識するためには「私」をできるだけ小さくする必要があるようです。

三木清の話に戻ると、引用記事において、運命とは「世界」の意思。希望とは「私」の願いということができるのではないのでしょうか。そういう風にとらえると、このとき「純粋経験」とは運命と希望とがふれあう瞬間であり、その瞬間に与えられたものが本当の「私」の希望といえます。

それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。

運命の意味なんてあまりに遠大でわかりようのないものだと思います。けれど、人生論ノートを全体を通して読むと、自分の身に起こった運命の意味を問い続けることこそ、自己を絶望から救う道だと言っているように思えます。

もちろん、問い続けるというのは、ただ考えているだけ、ただ思っているだけということではなく、積極的に世界へ働きかけることを意味しています。希望は「私」の中で生み出すものではなく、いつか、「世界」から与えられるものだと信じて行動し続ければ、新たな希望が生まれるのかもしれません。

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