「あはれ」と「浮き世」

我々の感傷的な心は仏教の無常観に影響されているところが少なくないであろう。それだけに両者を厳格に区別することが肝要である。
               三木清 人生論ノート ー感傷についてー

三木清の人生論ノートからの引用です。仏教の無常観に我々の感傷的な心は影響されているとのことです。そこで、「あはれ」と日本人について歴史的に考えるために、日本人と無常観について、阿満利麿さんの『日本人はなぜ無宗教なのか』をテキストに見ていきたいと思います。


仏教が教える「無常」は、あらゆる存在は生じたり、滅んだりするので永久に存在することがない。仏教はこうした世界観を「苦」と考えてその「苦」から脱却を教えたことにあるのだといいます。

日本の中世においてこの「無常」の克服には二つの道が存在しました。一つ目には仏教の教えに積極的に帰依すること。これにも大きく方法が二つあって、一つは出家して自らの力でその苦しみから解放されること。もう一つはあらゆる存在に超越した阿弥陀仏にすがることです。

もうひとつの道は、人生や世界は無常であり、神仏の存在は否定しないが、四季折々の風景は美しく、人を恋し慈しむ情もまた十分な生きがいを与えてくれるではないか。念仏を唱えれば極楽に行けるというのであれば何もくよくよする必要はない。人生を楽しめば良いと考えるこの世を「浮き世」と考える方法です。

どちらが支持されるかといえば、積極的に「苦」からの救済を求めるのであれば前者となるのでしょうが、物質的に豊かな時代になってくれば後者が支持されるでしょう。実際江戸時代に入って「浮き世」の考え方は支持されるようになりました。

「浮き世」の考え方は、なんとなくふわふわした状況を生み出します。宗教の存在を信じるわけではなく、かと言って否定するわけでもなく、そういった不安を棚上げして人生を漂泊するように生きるという生き方につながるからです。松尾芭蕉や種田山頭火などが日本人に支持されるのは彼らが漂泊の人生を送ったことによるからだと考えられます。

「浮き世」の人生観の完成者である井原西鶴はこの「浮き世」の人生観の要点について二つのことを上げています。一つは計画的に人生を楽しむこと。すこしいいかえると、老後の「遊楽」を目指して人生設計をおこなうこと。二つ目は数量化されるもの(財産や交際した人数、読書した本の数など)に重きを置くこと。この二つは、いまでも人生において重要視されているようなことではないでしょうか。

このように見ていくと河合隼雄のいう「あはれ」という感情を日本人は積極的に解消する方法をとらず、この現世を積極的に楽しむことで棚上げする方向へかじをとったように思えます。死後の世界についてはとりあえず供養だけしっかりやっておけばいい。そういったことよりも、最大限この世をどう楽しむかを考えたい。

もちろん普通の人だと経済的にも出来ることも限られているので、最大ののぞみが日常をどのようにつつがなく過ごせるかというなっていきます。これが日本人の「平凡(柳田国男のいう四季朝夕の尋常な幸福)」の追求につながっていくのです。

この「浮き世」の考え方が支持される大きな流れについては現代まで変わらないように思えます。こうして「無常」あるいは「あはれ」は克服するものではなく、日本人の美的感情として共にあるものとなりました。それはある意味で言えば、豊かな社会の表れとも言えますが、人生や自分の生まれてきた意味を、漂泊させてしまっているようにも思います。

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