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母の話 - 戦争と太宰な兄

母が生まれて数ヶ月後、太平洋戦争が始まった
終戦時5歳だったためあまり覚えていないが、長兄の自転車の後ろに乗って空襲から逃げたことや、疎開したときのこと、疎開先の生活のことなど多少の記憶はあるという

母の家は都内にあった
本屋を営んでいたのだが医学書専門なので、お客はもっぱら医師か医学生だった
医学生にはお金がない者も多く、したがって高価な医学書にはなかなか手が出ない
そこで本屋の主人は座敷を1部屋解放し、お金がない学生のために本を書き写すことをゆるした
そんなことをしていたので本屋は潰れた

真珠湾攻撃から始まった戦争も長引き、やがて東京の空襲も激しくなってきた頃、一家は千葉大病院の近くに疎開することにした
千葉のどこぞで電車を降りると、家財一式をリヤカーで積んでのんびり歩いたという
途中お昼ご飯を食べるのだが、祖母はお嬢さん育ちなのでそのようなときでも敷物を敷いて、ちゃんとテーブルを出して、そうやってご飯を食べた

千葉大病院の屋上には大きく赤十字が書かれていた
戦争法では病院に対して攻撃をするのは違法なので、それを戦闘機にしらせるためだ
その近所なのだから空襲の心配もなさそうなものだが、B29は隣接した施設にはしっかり爆弾を落とし、病院棟だけ器用に残したという
焼け跡は子どもたちの遊び場で、母たちは熱で溶けたガラス片なんかを拾って遊んだ

ある日母が焼け跡に行ってみると、当時10歳の姉が兵隊さんとなにやら罵りあいながら壮絶な蹴り合いをしていたという
理由は聞いていない
母の姉はいまだにプロペラ機の音を聞くと「胃が寒くなるのよ」と言う

太平洋戦争は玉音放送とともに終わった
母にそのときのことを聞いてみると「本当に自分が聞いたラジオなのか、それともテレビの特番やドラマで聞いたのか、どっちの記憶なのかわからない」と言った
母にとっては繰り返し聞かされて記憶が何重にも上書きされた玉音放送より、居間の電灯のスカートがとれた日の方がずっと印象的なのだそうだ
明かりが漏れると空襲の際の標的になるということで、当時の民家の電灯には布がぐるりとかぶせられスカートをはいたようになっていた(灯火管制)

祖母は開戦当初「もんぺ」がみっともなくて嫌だと、町内では最後まで抵抗していた
洒落者なのである
憲兵にうるさく言われてついにもんぺを履いたものの、今度はその手軽さと動きやすさを気に入って、戦争が終わってからも長いこともんぺを履いていたという

母は6人兄弟の末娘だったので、空襲のとき自転車の荷台に母を乗せて避難した長兄とはずいぶん年が離れている
長兄は兄弟間ではヨッちゃんと呼ばれていた
ヨッちゃんはインテリで、三味線がうまくて、ちょっと斜に構えためんどうなタイプの男子高校生だった
自分のことを「ぼく」と呼ぶ彼は、教師に理詰めで反抗してみたり、「アカ」の友達から何やら書類を預かってそのせいで家に特高が来てみたり、家のものを勝手に質にいれて放蕩してみたり、結核にかかってサナトリウムに入ると今度は人妻とあやしくなってみたりと、太宰とかのあのへんの、厨二的デカダンスな空気を纏っていた

大学には着流しに三味線を担いで通っていたというが、大学は別に音楽系でもなんでもなく國學院なので全然意味がわからない

ちなみに結核にかかったとき、サナトリウムに入り恋人と疎遠になるのが嫌だという理由で出奔し、工事現場で働きながら各地を転々としていた
そのせいで病状は余計に悪くなったのだが、しかしいざサナトリウムに入ったら人妻によろめくのだからとんだわがまま坊ちゃんである

そんなヨッちゃんだが祖母と一緒に闇米の買い出しに行って、その帰り、おてんばなわりに生まれつき心臓が悪い祖母が買い出し列車の座席に座っていると「女のくせに座って」というような陰口が聞こえてきた
ヨッちゃんは陰口の主の前に立ちはだかると「母は心臓が悪いんです!」と毅然とした態度で言ってのけたという

幼い頃、彼は自分のことを「アライさんの坊ちゃん」と呼んでいた
「アライさん」というのは、養子に出た祖父の、生家のことである
周りの大人が彼をそう呼んでいたのだ
あるとき彼は、缶詰の巻き紙を持って近所の商店を訪れた
昔の缶詰は缶に直に絵柄がプリントされているのではなく、プリントされた紙が巻いてあったのだ
「アライさんの坊ちゃん」は商品と巻紙を剥がしたのをレジ台に置いた
店主は気を利かせアライの坊に缶詰の巻き紙で買い物をさせてくれたという
あとから家に請求がきた
ツケ払いが当たり前の時代だった

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