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『佐野登の能からのインスピレーション』  第1回「軸を定める」

能楽師・佐野登は、能楽師として第一線で活躍する一方で、能を使った教育や地域活性化の取り組みを精力的に展開している。伝統芸能として縁遠く思われている能が、なぜ子供の教育に効果があるのか。また、社会人が能から学べることはなんだろうか。今回、特別にインタビューする機会をいただいた。(聞き手・構成・撮影:小山龍介)

体の軸も心の軸も、同じ

ーうちの子が勉強になかなか集中できなくて姿勢をだらりと崩しているときに、「集中しなさい」ではなくて、勉強する姿勢を正すよう注意するようにしています。身体と精神が強く相関しているように思います。能の所作を学び、体の軸を整えることは、どんな効果があるのでしょうか? 

本人もわかっていると思いますが、肘をつくとかひっくり返るとか、誰が見てもそれはおかしいな、真剣にやっていないんじゃないかという姿勢があります。まず、このような「してはいけないこと」から教えていくというのが大事じゃないかと思います。

子供が舞台に出るときの稽古でもそうです。ずっと座っている役であっても背中を伸ばしておけとか、目をキョロキョロさせるなとか、あごを出すなとか教えるんです。しちゃいけないことをわかることが、正解につながっていく。

大人の指導者は、ちゃんとするということがどういうことか分かっているので、「こうしなさい」「ああしなさい」と言ってしまうんですが、子供は知りません。実は、なにをしちゃいけないかがわかるということが大切なんです。

私もよく注意されたのが、「本気になっているのかどうかは、外から見ればわかる」というものです。「俺がどれだけ本気になっているのかなんてわかりっこない」なんて屁理屈を言っていた時代もあります。でも、自分でもわかるんですよね。素直な言い方じゃないな、本当は一生懸命やっていないな、と。そうした反抗期に入る前になにをしちゃいけないか教えられていると、自分で修正もできる。

体の軸も心の軸も同じじゃないかなと思います。

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ー社会人でも、上司や同僚からの信頼を得て大きな仕事を任される人とそうでない人がいます。それは、単に能力の問題というよりも、佐野先生のおっしゃる「本気」と同じで、やはり姿勢が見られているように思います。

たとえば、挙動不審だとか、怪しいということも同じですよね。知識がなくて不安に思うような場面でも、ものごとをきちっと教わって「こうしなきゃいけない」とか「これはやってはいけない」とか分かっていると、おのずとその人なりの一生懸命さとか誠実さがでると思うんです。

責任を持ってものごとをやり抜く、すなわち「途中で諦めるな」とか「逃げるな」といったことについて、私たちの稽古の場面ではもう少し辛辣な言い方で「ずるをするな」とか「卑怯な真似をするな」と言われてきました。

そういう中で、「きちっとするということはなにかな」「かっこいいってどういうことかな」と考えるわけです。それは責任感があるとか、男性で言うなら男らしいとか、そういうものだろう、と。そしてそれが身について、そうした態度が見えてくると、上司から「こいつは大丈夫だな」と思われる人間になるんじゃないかと思います。

姿勢を正すと心が変わる

ー物事にしっかり向き合えるようになると姿勢がよくなるのか、いやむしろ姿勢を整えることが先にあって、その後、物事に向き合えるようになるのか。どうも後者のように思うんですが、いかがでしょうか?

私もそう思います。たとえば、楽器を演奏するとか、スポーツでもそうですよね。最初に基本の型を習って、そこから崩していきます。まず、姿勢を正さずにうまくできるはずがありません。形だけを整えるのではなくて、そこからおのずと分かってくることがあるし、またそういう奴だからもっと伝えなきゃと思う周りの人たちがいたり。だから、「最初は姿勢から」だと思います。

ーしっかりとした姿勢を取れるようになると、内面的な変化が起こってくるんでしょうね。子供なんかは顕著にあるんでしょうか? 幼稚園などで子供たちにきちんとした姿勢をさせたときに、子供たちにどのような変化があるものでしょうか?

まず、話をよく聞くようになる。私はよく、「聞いて、見て、真似をしろ」という話をします。まずきちっとするところから相手の話を聞いたり、見ることができるようになります。特に小さい子たちは、何かしながらものを聞くとか、よそを見ながらときどき見る、なんてことはできませんから、まずは、これをちゃんと聞くとか、これをちゃんと見るということを教えていく。そのあとにようやく、何かをしながら別のこともできるようになってくるんです。

自信がなさそうとか、ちょっとこの子大丈夫かな、とこちらが心配してしまうような子たちというのは、なんとなくわかります。きちっとものを見るとか、人の目を見て話をすることができない子が多いと思います。だからまず、それを教えてあげることによって、その子自身の学び方とか、向かっていく方向も本人の中で定められるんじゃないのかなと思います。

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「自由に」では方向がブレてしまう

ー今の教育では、「自由にしていいよ」という風潮の中で、きちっとするという場面がだんだん少なくなってきているように思います。能がそうした体験をする貴重な機会になっているんですね。

三間四方という能舞台の小さな中で、たとえば柱に向かっていくといったときにも、「好きなようにやりなさい」というと、柱の真ん中に向かうのか、右に向かうのか、左に向かうのか、おおまかに3つの方法があります。私たちは、柱のどこに向かっていくのかということを、きちんと教わります。言葉でいうと、ただ「柱のほう」となるんですが、それを好きなように向かっていっていいとか、あなたの思うように、とは教わらないんです。

その中で学ぶのは、大失敗しないこと。よそから見てこいつおかしなやつだと思われないようにすることを教わります。自由にとか、好きなようにというようなひとことだと、その方向がまったくブレてしまうんではないかと思うんですけどね。

ー時代によって、よいと思われていたものが悪いとされたり、逆に悪いとされていたものがよいとされたり、価値観がガラリと変わることがあります。軸をもっていないと流されっぱなしになってしまいそうです。

物事には根拠となることが必ずあるわけですよね。稽古の中で指導者は、自信を持って「ああしろ」「こうしろ」と伝えてくれます。ずっと伝えられてくるものの中で、特に能は、何百年と続いている芸能ですから、とても大事なもの、絶対にしちゃいけないことが定まってきている。自信の根拠となる軸というのは、そういうものです。

そうして、ずっと同じことをやっていると、あるとき「もっと考えろ、工夫しろ」と初めて言われます。それは、好きなようにやりなさいということとはまったく違うことですし、またまったく同じことをしろということでもないんです。

長く続けてきたこと、きちっと伝わってきたことは、実はまったく同じものではありません。ゆっくりとしたテンポで試行錯誤しているので、大きくは変わってないように感じますけれども、時代の中で変化しながら対応しているんですよね。

ただ、急に何かを変えてしまうと、やはり軸はブレてしまうんじゃないかと思うんです。

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軸があるからこそ、枝葉を広げられる

ー世の中ではイノベーションだ、新しいことをやれと言われています。10年前の常識が覆る時代において、軸をもつことと変わることのバランスが難しいと思うんです。軸とは改めて、どういうものなのでしょうか。

私が思うには、伝統というのは常にその時代の中で変化しているものだと思います。そして、軸があるからこそ、変化していける。軸が定まっているからこそ、そこに枝葉を付けられたり、幅をもたせることができるんです。

ですから、今を生きている人たちは、必ず考えなければならないんですよね。果たしてこれでいいのかな、これではいけないのかな、じゃあ何ができるのかな、何をしちゃいけないのかな、ということを常に考えていかなければならないと思います。

能の話にも出てくることなんですが、これはおかしいということは誰もがなんとなく分かっていることだと思うんです。「いや、俺はこれでいいんだ」という人もなかにはいると思うんです。ただ、誰が見ても「それでいいのかな」と思うようなことは、本人もわかっていると思います。

ーつきつめていくと、そこに自己の成長があるのか、という点にたどり着くような気がします。軸が定まっていると自分の成長の方向も見えるし、そこに集中して取り組める気がします。

それをきちっと教わってくることはまず大事ですが、その先に、自分の目標、自分の価値観を持っておかなくてはいけないと思うんですよね。夢とか目標とかがないと、軸が定まってもその先伸びていかないですから。そう考えると、きちっとしたことを教わることで土台ができ、その後に自分自身で成長していかなくてはならないわけです。そのためには、まず目標を定めなくてはいけないですよね。

ーそうした成長を支援するのが師匠だと思うのですが、その師匠も人間ですからいつかはいなくなってしまう。そのときに、成長し続けるための指針になるのもやはり、軸なんでしょうね。

まだ何もわからないときに、師匠からは「黙ってやれ」「いつかわかる」「俺が死ななきゃわからない」という言葉で指導されます。仮に身内であっても他人であっても、師匠と弟子という関係は、絶対的な関係です。でもそれは、下が上に対して絶対服従するということだけじゃなく、実はその逆で、師匠が弟子を一生かかって面倒を見て、一生かかって育てるという思いに対して、こっちが感謝の気持ち、尽くす気持ちを持つという関係なんですよね。

当然、褒められるなんてことよりも、きつい言葉で叱られることが多い。最初はわからないんですが、師匠がいなくなったときに初めて、「この人のおかげで自分は守られていたんだな」「育ててもらったんだな」と気づくわけなんですね。そのときまでに、軸がぶれないようにしてもらっているんです。

けれどそこから先、今度は自分で方向を、きちっと間違えないように定めないといけないんです。基礎をやかましく教わってくると、師匠が亡き後、いざ自分でものを考えるときにも、たぶんこれで間違っていないとか、もしもこういうことを聞いたらこういうことを言われるだろうな、というヒントになるようなことをたくさん受けていることに気づくと思います。

伝統というのは、まったく同じではない。しかし、まったく違うわけではなく、ひとつの軸を定めながらも時代に沿っているわけです。言われてきたことをもとにして、「自分だったらこうかな」と、初めて先を伸ばしていくことができるんですよね。ですから、まったく同じことではないけれど、まったく違うことでもない、ブレない軸によって、伝統はつながっているんです。

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覚悟から生まれる信頼関係

きちっと教わるためには、教わる側もそうですけど、教える側もその覚悟と責任がなくてはいけません。教わる側がただ頭をさげればいいとか、わがままを言われて聞くだけだとか勘違いされがちです。しかし、きちっとした信頼関係こそが、軸を定めるとか成長することにつながると思うんです。これは、親子関係もそうですし、職場の上下関係も本来はそういうものじゃなければいけないんじゃないかと思います。

ー昔は終身雇用制度の中で、会社の中での師弟関係がありましたが、今は転職が当たり前となり、教えてもしょうがないということで、そういう関係も珍しくなってきました。そういう時代に、能を学ぶということは師弟関係を経験する上でも、貴重だと思います。改めて、師弟関係とはどういうものなのでしょうか。

能のセリフの中に「契約」という言葉がよく出てきます。日常の生活の中でも使いますけど、約束ではなく契約です。私はあるとき、このように教わりました。ちょっと手を貸してください。(握手をして)手を握り合う握手のような約束ではなく、契約というのは(お互いに手首を掴むように握り合い)このようにするものなんです。ですから契約というのは、相手が手を離しても自分が握っていれば、やめられません。

要するに、「こいつはやめるかもしれないからこれ以上教えても」となってしまっても、もしくは「嫌だったらやめようかな」と簡単にやめてしまっても、師弟関係は築けないんですね。

私の場合、ある年齢になったときに、能をやるかやらないかを「自分で決めろ」と言われました。その決断をする中で、「嫌だったら、やめればいい」とか「もうちょっとやってみて、嫌だったらやめようかな」という考えは、まったくなかったわけです。

周りの身内たちも「やるのかやらないのか決めろ」と。そのとき、やるからには絶対にやめちゃいけないんだという、ひとつの覚悟みたいなものがありました。今時はやらないと言われてしまうと何も言えなくなってしまうんですが、流行り廃りではなくて、そういう覚悟をもって物事に向かっていくとか、人と接するということで、より信頼関係を生むことになるんじゃないかと思います。

ー覚悟が決まっていない人との仕事は難しいですよね。

お互いに嫌な思いをして終わりますからね(笑)。

ー覚悟が決まっていれば、ぶつかったとしても話し合えばどこかで道は開ける感じがします。

自分の主張というのは大事なんですけれども、その主張をするまでにどうやってものを学んできたのか。それが、さきほどから言っている軸というものだと思うんですよね。決別するためではなく、物事をよくするために意見をぶつけ合うとか、気持ちをぶつけ合うとしたら、物事がよくなるはずなんですよね。

自分勝手になって、自分の思い通りでないとこれ以上やってもしょうがない、というものの学び方で来ると、本当の約束も契約も信頼関係もなくなってしまうんじゃないですかね。

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前に進み続けるための軸

人はやっぱり、進歩するとか成長するという思いは、常に持たないといけないんですよね。今までのことを振り返ってみて反省することも大切なんですが、前は向いていないと先に進めません。

人はいつか死んでしまいますし、いつか成長できなくなってしまうわけですが、そこで「まあいいや」って先を目指すことを忘れちゃうと、その先何もないと思うんですよね。ものに向かっていくときに、やっぱり前を見ないと時代に応じることもできないですし、それこそイノベーションとか進歩していくこともできなくなると思うんですよね。

ーAIやVRなどの流行ばかり追うのでは、実は先端のことはできなくて、他人のモノマネしかできない。一方で、たとえば30年取り組んできて今、日の目を見るような研究が、時代を先に進めていたりします。軸があるからこそ、流行に惑わされずに先に進めるようにも思います。

軸を備えるというのは、本当にそういうことなんだと思うんですよね。

能の世界では、土台作り、方向性を定める時間が長いわけです。普通の世の中であればそれなりの扱いを受ける年齢でもまだまだで、定年も間近という年齢になってようやく、ひとりの人間のような扱いを受けるわけです。

ずっとやってきたことがあるので、その先にできることや自信を持ってやれることがあるわけです。若いころ、急になにかやろうとすると、必ず言われたことがあります。「お前にはまだ早い」とか、もっときつい言葉では「生意気だ」と言われました。

これは、「生意気なことをするな」とか「主張するな」ということをいっているじゃないんですよね。今これをすることが、今のお前には良くないぞ、ということです。きちっとした指導者は、自分よりも上に行ってほしいという思いで伝えています。けれども、「お前にはまだ早い」という、いい意味で出し惜しみする教え方をしています。

どういうことかというと、きちっと段階を踏んでいかないと、物の積み重ねは無理だということなんですよね。急に目立つこととか、変わったこととか、ウケねらいのようなものを考えていこうとすると、必ず途中が抜けちゃってますから、結局うまくいかない。

学生時代とか、普通の友だちの生活が羨ましかったです。みな自由に楽しくやっていましたが、自分はまったく自由がありませんでしたからね。ただその分、今、もっとやりたいことやらなきゃ、やるべきことをやらなきゃと思うんですよね。それが軸を定めるということですかね。もし甘やかされていたら、60近くになってやるべきこともなくなってしまっていたんじゃないかと思います。


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佐野登
宝生流 能楽師 シテ方

東京藝術大学邦楽科卒業。宝生流18代宗家宝生英雄に師事。「翁」「石橋」「道成寺」「乱」「隅田川」「望月」等の大曲を披く。重要無形文化財総合指定(能楽)保持者。(社)日本能楽会および(社)能楽協会会員。全国各地での演能活動や謡曲・仕舞の指導を中心に、日本の伝統・文化理解教育の一環として「生きる力」をテーマとしたエデュケーション・プログラムを日本各地の教育現場で行っている。また、次世代育成、普及における伝統文化伝承のための多様な体験型プログラムを実施し、能楽ワークショップも開催している。海外公演にも多数参加し、他ジャンルのアーティストとの交流も活発に行う。作品の創作活動、舞台演出も手掛けながら独自の舞台活動を展開しつつ、現代に活きる能楽を目指し、積極的に活動をしている。

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