見出し画像

全国の法月さん必見!出自は甲州武田氏!?

「法月」それは静岡県でたまに見かける変わった苗字。ホウゲツ?ホウヅキ?ノリゲツ?
その知名度の低さから、始めて見た人ならまず読めない難読苗字。聞き慣れないから、電話で聞き取ってもらえない苗字。そして名字由来netによれば全国に1700人程度のレア苗字。それがノリヅキ。
レアなのに突出して静岡県に多く、全国の法月さんの76%がここに集っていて、かく言う私の母方も静岡生まれの法月姓。変わった名前だからこそルーツがあるのではないかと、ちょっと調べてみました。




佐久市望月の景色(望月城跡から)

伝え聞いた法月家の由来

法月姓の興りは信濃国の豪族滋野氏の支流で佐久郡望月(現:長野県佐久市望月)を拠点とした望月氏より派生。しかも戦国時代最強とも謳われた甲斐武田家の血筋。なんでも”武田信玄の弟・信繁の子が望月氏の養子に入り、そこに2人の幼子がいて、落ち延びて大井川を越える際に助けてもらったお寺の一字を貰って、姓を望月から法月に変えた”とかそんな内容でした。

つまり法月氏は甲州武田氏の終焉が始まりということになります。そうなるとどこで誰が法月を名乗ったか、そのターニングポイントが気になります。


瓦解した武田家と望月氏

長篠の敗戦、御館の乱で甲相同盟が破綻、織田家の甲州征伐、家臣・家老の謀反まで重なり、1582年に勝頼と嫡子信勝が自害したことで、清和源氏新羅三郎義光より続いた甲斐守護職としての武田家は滅亡します。
武田信繁に3人の男子が居て、長男の信頼は望月信雅に養子として迎えられ望月三郎信頼を称しますが16歳で死去、次男信豊は信繁の嫡男として相続し、三男信永は信頼の代わりに望月家の当主となるも長篠の戦いで死去してしまいます。その後は信豊が望月の名代を務め、彼には雅楽(受領名か)と次郎の2児が居たそうなのですが、戦国武将としての望月氏については戦国人名辞典やウィキペディアではここまでです。
私が母から聞いた幼い兄弟とは、この雅楽と次郎のことなのでしょうか?


書き写したものをさらにワープロ(当時)で起こしたのだろうか

ある日渡された由来書のコピー

20年位前、親戚からもらった1枚のコピー。これはどうも法月家の出自に関するものらしい。まだ10代だった私には、人物名以外読めるところもない。というか普通、家系図とか由来書って古文書の装丁か巻物のはずなのに、鉛筆で書いたような文体と、ワープロで打ったような訳しのプリントだけなのがすごく怪しい。というかウソくさい。
母が言うには、うちは分家だから無いけど本家のお寺さんが系図を管理しているんだとか(寺請制度の名残り?)。
時は令和、天目山での終焉より440年が経ち、20年ぶりにこの用紙が出てきた今、本家や分家だなんて関係は皆無な時代。いや本家がどこの誰なのかさえ分からない。


法月の出自は武田の遺臣

とりあえず読める範囲で読んでみると、遺児は兄弟と聞いていましたが、ここに登場するのは「源満利」という人物ひとりだけ。通称を望月三郎太輔(もちづきさぶろうたいふ)と称したようです。天正2年に生まれ、武田家が滅亡した後、わずか8歳で志太郡田尻村(現:焼津市田尻)まで落ち延び、寛永9年に満58歳でその生涯を閉じます。時代背景的には長篠の戦いの前年1574年生まれ、三代将軍徳川家光の時代の1632年に亡くなっています。


よく見ると筆書きっぽい

由来書の内容

さて、唯一の情報である由来書き。結局尋ねるところも調べ方も分からないので、とりあえず「IMEパッド」と当てずっぽうの勘だけを頼りに、旧字体や改行もそのまま再現しました。

源滿利 本姓滋野
天正二甲戌  望月三郎太輔 寛永九壬甲五月卒去
享年五十九歳 法林玄光居士 妻助六女錦繍妙殊大姉
寛永十五年戌寅十一月

居士厥初甲斐國ノ人出自武田家天正十年壬午三月十一日勝頼公
天目山之變同宗及群臣或討死或離散亦大世之名家當此時瓦裂矣
居士以幼稚之故聊爲某氏所養稍年長世態推移以爲無容身之地不
得己而秘姓名遁本國轉客于當國志太郡田尻邑真言宗法樂寺頻請
剃髪受戒事寺主懇告停焉更歴星霜天正年間也粤豪戸助六者有壹
人女子法師媒紹婚配助六無男児稟其産業終身安全誠奇遇矣可謂
雖非其素意所以由法師之慈愛丈人之附與之以望月稱号憚世法月
氏ト改則當家之基本云云

源満利血胤録より


解読を専門家に依頼

旧字体を起こすことぐらいなら素人にもできますが、古文のこの字も知らない私には内容までは分かりません。仮名とか返り点とか付いてないし。
そこで専門家を探し依頼することにしました。

源満利 望月三郎大輔
天正2年(1574)生まれ、寛永9年(1632)5月卒去
享年59歳、戒名は法林玄光居士、妻は助六の娘で戒名は錦繡妙殊大姉
寛永15年(1638)11月
満利は初め甲斐国の人である。武田家の流れを引く。天正10年(1582)3月11日、武田勝頼公が天目山にて一族及び家臣らと討死にし、または離散したことによって、累代の名家がまさにこの時に消滅した。満利は幼少であったため、短い期間ながら某氏によって養育された。
やがて成長し、世の中も移り変わったが、自身の身の置き所がないことを考えて、やむなく姓名を秘密にして、本国を逃れて各地を転々とした。駿河国志太郡田尻村(現:静岡県焼津市)の真言宗法楽寺で出家して受戒したいと何度も求めたが、寺の住職は親切に諭して出家をとどめた。
さらに年月が経過して天正年間(1573-1592)、ここに富農の助六には一人の娘がいた。ある法師が仲人となって(満利は)娘を娶った。助六には男児がいなかったため、仕事を与えてもらい、自身の生涯の安全としたことは誠に奇遇なことと言える。
言うなれば、満利にとっては本来の意志とは異なったとはいえ、(安住できたのは)法師の慈愛と、舅(助六)の与えた仕事があったからである。それまで名乗っていた「望月」の苗字は、世の中を憚って「法月氏」と改めた。以上が当家の由来である。

解読・読み下し:「有限会社歴史の森」より

要約すると、満利は姓を伏して各地を転々とした後、田尻村(現:焼津市田尻)の法楽寺で出家を願い出るも叶わないでいたところ、「助六」という豪戸(富農)と出会い、彼の娘を娶って安住を得たということでした。
兄弟であることと、お寺の一字を貰ったという話は登場しませんでしたが、概ね伝え聞いた通りです。

ただこの文章、気になるのが、満利・助六・助六娘・住職という当事者以外の人物が書いたような文体である所が気になります。或いは時代がだいぶ下ってから、伝え聞いた誰かが記したということでしょうか。なにより助六が”法月姓”ではないようですし、望月がなぜ法月になったかは触れられていません。


法月家の家紋「二引両」

法月の家祖・望月三郎太輔満利

官職名風の通名ですが、望月の当主は三郎を名乗るのが恒例のようです。法月家に伝わる家紋は二引両(丸に二つ引き)で、今川家や吉良上野介の家紋と一緒なのですが、由来書きには丸に三つ引き紋、ウィキペディアの望月氏の項には九曜紋が出てきて定まりません。
あとは武家といえば主従関係を表す偏諱の一字拝領が存在しますが、肝心の望月氏は特に定まっておらず、時代によって「重」「盛」や「昌」が多いです。戦国時代末期、惣領の望月昌貞が武田家に帰順した功績により晴信の「信」の字を拝領し信雅と改名。信玄の弟信繁の長子信頼を養子に迎え、信頼が没すると三男信永を迎え、さらに信永まで没してしまいますが、次男信豊は名代として引き受けます。武田信豊は嫡子の為、養子には入らず望月家の所領を引き継いだということでしょうか。
ただ、信豊の子雅楽と次郎の諱も生没年なども全く不明な上、満利がどこから来た諱なのかまるでわかりません。甲斐や信濃の武将に「満」や「利」の字の人物が居たかな?・・・できるかぎり探しては見たものの、もうお手上げです。


満利夫妻も見たであろう田尻浜海岸からの景色

最後に

静岡県の県立図書館や焼津市の市立図書館などに通えれば、関連人物や歴史を調べられやすいので最善なのですが、東京に住んでいる私にはウェブ上で調べる以外に詳細を知る方法がないため、望月三郎太輔ないし源満利について調べるのは一旦ここまでとします。
そもそも法月姓が甲斐武田氏または信濃望月氏の末裔であるという根本的な確証が無いままなので、またわかり次第追記していきたい気持ちでおりますが、力及ばず申し訳ない限りです。
ルーツ知ってるよ!という方、いらっしゃいましたら是非ご一報ください。

ちなみにかの法楽寺はいつしか廃止され、焼津市田尻にある浜田公園がその跡地らしいです。安住の地を得たのが焼津であったなら、静岡県の中でもとりわけ焼津市に法月さんが多いのも納得ですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?