彼女のような原体験なき我々は最後に何処へ帰るのか? 緻密で深いまなざしに見守られる読書
話はスターリン時代のソビエト、1930年代からはじまる。
7歳から27歳までの20年間を、狂気に近い熱中で読書に耽った(本を読むことの天才ともいえる)女性ソーネチカ。彼女の読書は『軽い狂気の要素を帯びてきて、眠っている間もそっとしておいてくれなくなった。夢まで、「見る」というより「読む」といった方が良いような塩梅』であり、『猜疑心の強いドストエフスキーの不気味な奈落の底にしずんだかと思うと、木立が影を投げかけているツルネゲーネフの並木道に浮かび上がったり……』と「偉大なロシア文学」という自由な空間に心をときはなって過ごしてきた時間だった。
やがて図書館専門学校を卒業して古い図書館の地下の書庫で働きはじめたことで出会う圧倒的な宿業。 地味な容姿と叡智の漂いから運命の相手に「ラクダみたいだ」と譬喩された、その「ラクダ」に象徴されるソーネチカの、いわば受難の生涯。
そしてこの奇跡的な「幸福」の人の胸に押し抱かれた 幾人かの“家族”(!)の物語。
本の帯にあしらわれているような「幸福感」という語彙を字義通り受け取ると言葉づらに滑りあまりにも軽い綺麗ごとの読みになってしまう。
実際に読んでいると世界線の果てまで突き抜けきった筋書きになっていくことはひたひたと予感されてくる。そのための伏線は冒頭から幾重にも張りめぐらされている。
しかし全体が痛々しい悲劇やどろどろとした愛憎劇ではなく、淡々と澄んだ基調に浮かぶ人間の叡智の深さに満ちていることは何だろう?
読みながらも不思議な奥行きを感じ、読後にも妙な痺れにつつまれながら、ぼんやりと思っていた。
頁数がすくないのに長い旅をしているような物語、 書き出しにはちっともそう感じられないのにやがて露わになる濃厚で気品のある文体、 透徹した視線で容赦なく突き放す著者の感傷を抑えた”mature(成熟)”な距離感と慈しみにあふれたバランス……。
なんていうか、牡蛎のような作品だ。
硬くて無愛想な殻にはりついた 濃厚で海めいた不条理なほどのやわらかさ。
たっぷりとした滋養が子どもにはわからない味覚の奥にしみ込んでいて、そして大人が知るその甘やかさには味わうためにくぐらされる天然の汐の気高さが立ちふさがる……。
個の人生の時間を決定的に左右する「運命の出会い」の以前に、たとえばこのソーネチカには「読書」という内面の時間が滔々と流れており、やがて結婚、出産と実人生の現場を生きるにつれて読書が遠ざかっていく。
愛情深く編み上げてきた家族がじつはバラバラで、おのおのの本能にしたがって巣立っていこうとしているまさにそのとき、あたかも自分ひとりが「真ん中に位置する通り抜けのできる部屋」にぽつんと取りのこされたかのソーネチカにおいて、そのほかの家族たちの「巣立ち」に匹敵する本能の選択としてあの「読書の時間」がふたたびソーネチカの人生をくるみこむ。
生活のことに熱中し読書から離れていくソーネチカの人生のある地点では読者はこの人の家族生活的な幸福を祈りながらも何か不安を抱いてしまう(彼女はこの夫と連れ合って読書から離れて生きることになった、それは果たして幸福なのことなのか? ……といった奇妙な問いかけ)
その逆に、打ちのめされてしかるべき境遇に追いやられたソーネチカに、しかし福音のように読書がまた降りてきて寄り添っているという後半生は、むしろ読者にとって妙に温かい。ソーネチカの人生に寒風だけが吹き込んでいるのではなく、彼女にも(誰にも)ひとりの手をかざして温もる暖炉があり、それがパチパチと音を立てて火を熾している、そんなささやかな支えの実在に気づかされるからだ。
さまざまに変遷し、流離、転位する人生において、「(人が)帰るべき幸福な世界」とはいったい何なのだろう?
ソーネチカのような、極端な“本の虫”という原体験を普通には持ち得ない誰彼にとって、絶望とも衰退ともいえる窮地のとき他者の巣立ちをつぎつぎ見送り、去らせ、自らは内面のひときわ確かな豊かさの起点へと巣ごもりしていく彼女のような経路を(我々は)備えているのだろうか。
「幸福」というもの、「祝福」という精神の在処のなんという神秘的な奥深さ、けわしさ、かなしさ。
この小説が不思議に馥郁とした芳香をうしなわず幕を閉じるのは、ソーネチカの鈍さとすら感じさせる仄暗く深い胸の内奥に真実が流れているからで、小説というよりもあたかも1つの事実のように「こんな豊かさもある」と悟りに近い後味が残されるから。
『ソーネチカ』の一冊は私の手許にある。心にのこるさまざまな箇所をあとからちょっとずつ読み返すたび、リュドミラ・ウリツカヤの、緻密で静謐まなざしが一語一語に埋め込まれていることにまだまだ新しく気づかされていくだろう。それこそが読書という福音。