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ペトロと呼ばれたシモンとサン・ピエトロ大聖堂

タイトル画、今回もAI生成してみました。なかなかええやん(^^♪
この二人は、イエスの最初の弟子であるペトロアンデレのつもりです。

ペトロとアンデレは兄弟でした。二人は洗礼者ヨハネの弟子でしたが、ヨハネがガリラヤの統治者ヘロデに捕らえられてしまったため、故郷に戻り漁師をしていました。

マルコの福音書4章によると、イエスがガリラヤ湖畔を歩いているときに、漁をしていたペトロとアンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけると、ペトロとアンデレはすぐに従いました。

唐突なスカウトのように思ってしまいますが、実はイエスと二人はすでに知り合いだったのです。


人間をすなどる漁師の意味

イエスは、ガリラヤ湖で漁をしている二人を見て、すぐにシモン・ペトロとアンデレの兄弟だとわかったので、「わたしについて来なさい」と声をかけ、二人も疑問も持たずにイエスに従ったのです。

「人間をとる漁師」という言葉は誤解を受けやすいのですが、原文の直訳では「人々の(人間の)漁師」になっているそうです。
これは旧約聖書(ユダヤ教聖書)のエレミヤ書16:16に由来しています。

私が持っている聖書にはこのように書かれています。
「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。そののち、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩りだせる。」

「漁師に釣り上げさせる」「狩人に狩り出させる」というのは、どんなに神の目から隠れようとしても無駄である。神はすべてをご覧になっているという意味があるようです。

「エルサレム滅亡を嘆く預言者エレミヤ」レンブラント作(アムステルダム国立美術館蔵)

エレミヤは、古代ユダヤの預言者。イエレミヤとも表記する。
名はヘブライ語で「ヤハウェが高める」という意味。
紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半のバビロン捕囚の時期に活動した。

預言者エレミヤの時代、ユダの国は乱れていました。それは人々が、神と神のことばをないがしろにした結果だったと言われています。

エレミヤは「北からの災い」(バビロニア王国の侵攻)を預言し、人々に悔い改めをよびかけましたが、人々は「エルサレムに神殿があるかぎり、敵は攻めて来ない。」などと思い上がり、油断していました。

エルサレムの民衆の多くは、率直過ぎるエレミヤの預言を疎み、楽観的な預言を行う職業的預言者の言うことを支持していました。
エレミヤは正しいものが苦しみ、不正を行うものが繁栄する社会の現実に苦悩していたそうです。
現代も同じですね。いつの時代も、人間は変わらない(汗)

結局、エレミヤの預言はバビロン捕囚という形で成就し、人々は捕虜となってバビロンに曳かれて行きました。

つまり「人間を漁る」とは、人々の罪を明らかにし、神の裁きが下ることを告げる、大変厳しい役目を担うことなのです。


ペトロが「岩」と呼ばれた理由

ヨハネの福音書1章には、イエスとペトロの出会いが書かれています。

彼らの師の洗礼者ヨハネがイエスのことを「見よ、神の小羊だ」と言ったことに関心を抱き、アンデレはイエスが泊まっている家に行き、一晩共に過ごしたと書かれています。

アンデレはイエスがメシア(油注がれた者)であると確信し、翌日、兄弟のペトロをイエスのもとに連れて行きました。
イエスはペトロに「あなたをケファ(アラム語で岩の意味)と呼ぶことにする」と言ったそうです。

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ペトロの本名はシモン(サイモン)でした。ヘブライ語では、シモンはシメオンとなります。

当時、イエスが「ナザレのイエス」と呼ばれたように、彼も「バルヨナのシモン」と呼ばれていました。「〇〇〇の」は出身や家系を表しています。
バルヨナは、「ヨナ(ヨハネ)の息子」という意味です。
イエスがシモンをペトロ(実際はケファ)と呼んだことから、新約聖書ではシモン・ペトロと書かれています。

ちなみに、ペトロかペテロかということでは、カトリックではペトロと呼ばれ、プロテスタントではペテロと呼ぶことが多いようです。

また、現代の言語では英語はピーター、フランス語はピエール、イタリア語はピエトロ、ドイツ語はペーター、スペイン語・ポルトガル語はペドロ、ロシア語はピョートルと発音されています。

イエスがペトロをケファと呼んだ理由として、マタイの福音書16章には「私は、この岩の上に私の教会を建てる。」と書かれています。

イエスは続いて「わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言っています。

『聖ペテロへの天国の鍵の授与』
ピエトロ・ペルジーノ 1481–1482年ごろ

イエスがペトロに天国の鍵を授与した理由は、弟子の中でもペトロが一番、イエスの言葉と働きを理解していたからだと言われています。

マタイの福音16章で、シモン・ペトロはイエスに向かい「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い、ヨハネの福音6章では「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と述べています。


サン・ピエトロ

この時イエスが予言した岩の上の教会が、のちにコンスタンティヌス1世(大帝)によって建設されたサン・ピエトロ教会(オールド・サン・ピエトロ)です。
現在はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂(1626年着工)になっています。

1450 年頃のものと考えられるサン ピエトロ大聖堂の図面。
現在のサン・ピエトロ大聖堂


サン・ピエトロ大聖堂は、本来は聖ペトロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されました。なので、通常のカトリック教会とは少し変わった作りになっています。(詳しくは別記事で)



ペトロの殉教とカリギュラのサーカス

ペトロは、西暦67年頃にローマで殉教したと言われています。
キリスト教会では、ペトロは第5代皇帝ネロ帝による迫害に遭い、ローマで逆さ十字に架けられたと言い伝えられています。

伝承によれば、ペトロが処刑された場所は、第3代皇帝カリギュラ帝の時代に造られた「カリギュラのサーカス(キクルス)」でした。

古代ローマのキルクス(戦車競技場)は、ローマ劇場やアンフィテアトルム(円形闘技場)と共に、ローマ市民にとって最も人気のある娯楽施設の一つであった。キルクスでは戦車競走や競馬が催されるだけでなく、帝国の重要な記念式典なども開催されていた。

カリギュラのサーカスは、現在バチカンがあるバチカンの丘にありました。

カリギュラのサーカス(キクルス)

カリギュラ帝が建設したのに「ネロのサーカス」という呼び名が一般的になっていますが、この土地にはもともとカリギュラ帝の母で、ネロの祖母でもある大アグリッピナの別荘と庭園がありました。
カリギュラはその土地を相続し、戦車レースのための競技場を作りました。

上の絵には中央にオベリスクが描かれていますが、現在はバチカンのサンピエトロ広場に移設(1586年)にされています。
ピラミッド(メタ・ロムリ)は、1499年に破壊されたそうです。

バチカンとサーカスを重ねて見る

ネロ帝の治世(54年-68年)では、ローマ大火(西暦64年)で被災し住居を失った人の避難場所になりました。

歴史家タキトゥスのおっちゃんによれば、ローマ大火の後しばらく、罪人の処刑はサーカスで行われていたそうです。

大火で市内が壊滅状態になり大掛かりな再開発が進められることになったため、処刑をサーカスで行うことにしたそうですが、大火の罪を着せられたキリスト教徒が見世物を兼ねて処刑されたと言われています。
血を流す競技を禁じていたはずのネロが、サーカスで処刑を行ったというのは腑に落ちないところではありますが。

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ローマの城壁の外には、墓地やサーカスのほかにも居酒屋(売春宿)などの遊興施設がありました。
サーカスでは祭りも開催され、「フローラの勝利」という絵画には売春婦たちの裸踊りを見て、ウヒョヒョ~となっている兵士が描かれています。

フローラの勝利( 1743年頃)、ジョヴァンニ・バティスタ・ティエポロ作

4月27日に豊饒の女神フローラを讃えるフローラリア祭が開催され、売春婦によるエロティックなダンスとストリップが人気だったそうです。

ちなみに古代ローマでは売春は合法でした。性別を問わず売春婦と自由に関わることができたそうです。
売春婦は、自立した女性の職業と見られていたようです。詳しくはまたいつか。

男性のための男性売春(男同士)もあり、主に公衆浴場(テルマエ)で行われていたそうです。

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バチカンの丘を含むテヴェレ川西岸は、古代ローマではアゲル・バチカンス(バチカン野原)と呼ばれていました。
それはまた、リパ・ヴェエンタナまたはリパ・エトルスカとも呼ばれ、古期のエトルリアの領土を示しています。

バチカンス(バチカヌス)の語源は、おそらくヴァティシニウム(Vaticum)という名前の古代エトルリアの集落を指していると考えられています。

エトルリアとバチカヌスについては、別記事を作成しています。

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ペトロの墓とオールド・サン・ピエトロ

カリギュラのサーカスに隣接するバチカンの丘の南斜面は、ネクロポリスでした。

ネクロポリスとは、巨大な墓地または埋葬場所。語源は、ギリシャ語の「nekropolis(死者の都)」。

以前「ポメリウム」の記事に書いたように、法律で城壁内に死者を埋葬することを禁じていたので、おのずと墓地は城壁外に造営されました。

サーカスのすぐ横には、処刑した人を葬る野外共同墓場が造られていました。この時代のローマは火葬でしたが、ユダヤ教徒とキリスト教徒は復活のために死体を保存するという考えから火葬に同意しませんでした。

ペトロもそこに葬られただろうという推測をもとに、第3代教皇アナクレトゥス 1 世(在位79年頃 – 91年頃)によって小さなオラトリオ(礼拝堂)が建てられたそうです。

コンスタンティウス1世(大帝)は、オラトリオがあった場所に318年頃から40年かけてオールド・サン・ピエトロを建てました。
これはとても大掛かりで、莫大な資金を必要とした建設工事でした。
完成を見ることなく、コンステンティヌス1世(大帝)は亡くなっています。

4 世紀のサン・ピエトロ大聖堂を描いたフレスコ画

実は、この工事には大きな問題がありました。
一つは、ローマ法が禁じていた墳墓の冒涜に値すること。当時も使用されていたネクロポリスを埋めてしまうのは法に反することでした。
また傾斜地のため、大聖堂を建設するには10mもの高低差を整地しなければならなかったのです。
しかし、皇帝の権威で推し進められました。

西暦800年のカール大帝(シャルルマーニュ)の戴冠式は、このオールド・サン・ピエトロで行われました。

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ローマのカタコンベ

カタコンベは、死者を葬る為に使われた洞窟、岩屋や地下の洞穴のこと全般を指します。厳密には3、4世紀のローマやその周辺地方の地下墓所をカタコンベと呼ぶそうです。

ローマのカタコンベは、キリスト教徒のみに限定されておらず、ユダヤ教や古代ローマの宗教の崇拝者も共に葬られているそうです。

ローマで埋葬が盛んになったのは4世紀、カリギュラのサーカスは、2世紀後半には使われなくなっていました。
2世紀のローマでは人口過剰と土地不足という2つの問題が起き、さらには墓地不足にもなったため、使われなくなったカリギュラのサーカスにも墓が浸食していきました。

カリクストゥスのキリスト教のカタコンベ

また、聖カリクストゥスや聖セバスチャンのようなカタコンベは、そこに埋葬されたと思われる殉教者の名にちなんでいますが、約80%はキリスト教が迫害された時代以降の死者が埋葬されているとのことです。

サン・セバスティアーノのカタコンベ


バチカン地下にある古代ネクロポリス

キリスト教会では、ペトロはバチカンの丘に埋葬されたと言われていますが、確実な資料は存在していません。
ペトロの殉教と埋葬に関する数多くの文書は、ほとんどすべて 5 世紀以降に書かれたものです。

ペトロの墓がバチカンのネクロポリスにあるという確実な証拠は無いままに、莫大なお金が注ぎ込まれたオールド・サン・ピエトロ大聖堂は、1626年に新しく建て替えられました。

1940年から1949年にかけてサン・ピエトロ大聖堂の地下の発掘調査が行われ、地下5~12メートルのところにネクロポリスの一部が発見されました。
長さ約32メートルの道に、独立した高さが異なる7つの霊廟が一列に配置されていました。

これはマッドフラッドで埋まったわけではありません。
上述のオールド・サン・ピエトロ大聖堂を建設した際に、傾斜地を平らにならすために埋められたのです。

現在のサン・ピエトロ大聖堂は3層構造になっており、観光で入れる大聖堂1階の下に歴代教皇の石棺が置かれているグロッタ(地下)があり、さらにその下に古代のネクロポリスがあります。

陵墓は何世代にもわたって使用され、複数の家族が共有していたことがわかっています。すでに発掘された22の墳墓の遺体と骨壷の埋葬数を概算すると、1,000体以上の葬儀が行われたことになるそうです。

聖ペトロの墓があったとされる場所はP(ペトロ・キャンパス)と名付けられていますが、発掘調査ではペトロの遺骨は発見されなかったそうです。

しかし、バチカンは後には引けません。

20世紀のイタリアの考古学者マルゲリータ・グアルドゥッチは、コンスタンティヌス1世(大帝)がオールド・サン・ピエトロを建設した時に、ペトロの遺骨は取り出されたのだろうと言い、祠の壁にギリシャ語で「PETR...EN I」(「ペテロはここにいる」と書かれているとマルゲリータは主張)と書かれた不完全な文字な碑文があることを指摘しました。
※ピーターは一般的な名前です。

ローマの他の遺跡にも同様の落書きがあり、ペトロとパウロを殉教者としてキリスト教徒が記念したものであることが示唆されているとしたのです。

ミトラスを思わせる太陽の戦車に乗ったキリスト。
バチカンの洞窟の下のネクロポリスのモザイク


1968年6月26日、教皇パウロ6世(在位:1963年 - 1978年)は、科学的調査の結果、聖ペトロの聖遺物が確信をもって確認されたと発表しました。


サン・ピエトロ大聖堂のペトロの墓

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