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ルイ16世最期の日までの備忘録①

1792年8月10日事件以後、(8月13日ごろに)ルイ16世は逮捕され、家族とともにタンプル塔に幽閉される。

1792年9月21日、君主制の廃止。
ルイ16世の王権と名誉は剥奪され、「ルイ・カペー」(Citoyen LouisCapet=カペー家のルイ)と呼ばれる。
シトワイヤン citoyen、現代英語:シティズン citizen)は、「市民」という意味。


カペー家は、フランスの王家であり、先祖は中世フランス王国のカペー王朝(987年から1328年まで続いた)とされている。
西フランク王国のカロリング朝の姻戚関係にあり、カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した。

カペー家の出のフィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。
1328年まで14代の王が続き、また後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るまでフランスの歴代の王朝はみなカペー家の分族から出ており[、男系継承を長期に亘って維持した。
現在のスペイン王家(スペイン・ブルボン家)の祖先(男系)であり、現在のルクセンブルク大公家も男系ではカペー家の流れをくむ。


フィリップ4世( Philippe IV、1268年4月/6月 - 1314年11月29日)は、フランス王(1285年 - 1314年)は、絶対王政につながる中央集権化を進め、ローマ教皇と対立し(アヴィニョン捕囚、または「教皇のバビロン捕囚」)、また、テンプル騎士団を異端として弾圧し、解散に追い込み、後世「教皇を憤死させた王」として一部より悪評を得ることとなった。

カペー家紋章

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フィリップ4世による統治は、中世ヨーロッパ王権における一つの転換期となっており、それまで普遍性を主張してきたローマ教皇や神聖ローマ皇帝の権威が相次いで衰退した時期にあたる。
教皇のアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)やテンプル騎士団の解散など従来の教会権力に対し、強大なフランス王権の存在を誇示した。

「アヴィニョン捕囚」(1309年 - 1377年)は、ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた時期を指す。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていったという。
アヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、教皇は全てフランス人であった。

慢性的な国家財政難にあえいでいたフィリップ4世は、腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。
さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放した。

フィリップ4世が次に目をつけたのが裕福なテンプル騎士団であった。

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テンプル騎士団紋章

フィリップ4世は、どのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討し、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで、無実の彼らを有罪に持ち込もうと考えた。
異端審問を行うには教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、何の問題もなかった。
こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男色(ソドミー)行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。

1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。
異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行ったが、多くの被告は自白を覆さず刑に甘んじた。

資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。

※ジャック・ド・モレーらの処刑は、1314年3月18日ノートルダム大聖堂のあるシテ島にて行われた。
亡くなる前にフィリップ4世とローマ教皇クレメンス5世らを呪ったとされる(1314年にフィリップ4世とクレメンス5世は急死している)。また、カペー家直系の断絶をも呪ったと言われ、これも実際、1328年にフランス王位はヴァロワ家に継承されている。(~1589年まで)

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ルイ16世一家が幽閉されたタンプル塔は、テンプル騎士団(フランス語読みではタンプル騎士団)の本拠地であった。
1312年にテンプル騎士団が廃止されると、この塔は聖ヨハネ慈善修道会に分与され、1776年に修道会の代表となったアングレーム公ルイ・アントワーヌの所有となる。

公爵は当時1歳であったため、父であるアルトワ伯爵シャルル(後のシャルル10世)が管理した。バスティーユ牢獄が完成するまでは牢獄の役目をしていたこともある。
ちなみに若い頃、マリー・アントワネットのよき遊び相手であったアルトワ伯爵は、冬になるとこの塔へそり遊びに何度か訪れたという。

フランス革命後は修道会が廃止され、革命政府の所有物となった。
タンプル塔は出入口が狭く、警備が容易であることから、要人の収監場所とされたそうである。

帝政期(1804年から1814年および1815年まで)、ナポレオン1世は旧時代のこの塔を忌み嫌い、1808年に取り壊しを命じた。
現在はパリ3区の区役所と小さな公園になっており、当時のタンプル塔の形跡は何も残っていないが、わずかに通りの名前に名残がある。


ちなみに、ルイ16世は、カペー家より分家したブルボン家の出であり、ブルボン朝初代のフランス王はアンリ4世であった。
1564年ごろに、著名な占星術師ノストラダムスが将来国王になる人物と予言していたという逸話がある。
アンリ4世はプロテスタント信者であったが、カトリック教徒が多いパリ市民が自分を国王として受け入れられないと察し、カトリックに改宗する。

1598年4月30日にアンリ4世はナントの勅令を発した。
同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。
さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価されて絶大な人気を誇り、「良王アンリ」と呼ばれるようになる。

有能な君主として国民に広く愛されたアンリ4世だったが、たびたび暗殺の危機にさらされていた。
そして1610年5月14日、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤックに刺殺された。
事件は単独犯として決着したが、多くの歴史家たちは権力上層部による陰謀であったと考えている。

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ルイ16世の紋章

1792年8月10日事件のホロスコープ(12時設定)

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