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死刑廃止を嘆願し続けたムッシュ・ド・パリ

フランス革命の影で重大な仕事をしていたのが、ムッシュ・ド・パリ(死刑執行人)と呼ばれたシャルル=アンリ・サンソンです。
アンリ・サンソンは、人類史において2番目に多く死刑を執行したと言われています。(約2700人)
しかし、アンリ・サンソンこそは熱心な死刑廃止論者でした。死刑制度が廃止されることが、死刑執行人という職から自分や子孫が解放される唯一の方法であると考えていたそうです。


アンリ・サンソンの生い立ち

サンソン家は、200年以上にわたってフランスの死刑執行人を務めていました。アンリ・サンソンは、その4代目当主で本業は医者でした。父親のジャン・バチストも医者だったそうです。
当時の死刑執行人は、死体の保管も行っており、サンソン家では死体を解剖して研究を行っていました。また、鞭打ちなどの刑罰も死刑執行人が行っていたため、サムソン家では人間の身体をどこまで傷つけても死なないか、後遺症が残らないか詳細に知っていたそうです。

アンリもその父も、自分が傷つけた相手の治療を熱心に行ったため、サンソン家に刑罰を受けた人間はその後の存命率が高かったと言われています。
私がどこかで読んだところでは、断首刑では絶命のときの痛みを軽減したり、検死のためにサムソン家の医学の知識が活かされたそうです。

しかし、死刑執行人は周囲に忌み嫌われる職業のため、子どもたちは一般の学校に通うことができませんでした。アンリも途中で死刑執行人の息子であることがばれ、いじめにあい退学。その後は家庭教師に学んでいます。
そんなサンソン家の医学は、当時の大学などで教えられていた医学とは異なる独自の体系だったそうです。

アンリは、父親が脳卒中で倒れたため15歳で死刑執行人を引き継ぎました。最初の死刑立ち合いは16歳だったそうです。
それは、ルイ15世を暗殺しようとしたロベール・フランソワ・ダミアンという若者の八つ裂きの刑でした。刑を取り仕切ったのは叔父のガブリエル・サンソンで、アンリは助手の立場だったようです。

パリで八つ裂きの刑が行われるのは147年ぶりで、誰も実際の手順が分からず、サンソンたちは公文書や歴史資料を読みあさり、八つ裂きの刑の執行手順や必要な用具を調べ上げたそうです。

ロベール・フランソワ・ダミアン(1715年1月9日 - 1757年3月27日)は、フランス王ルイ15世暗殺未遂の罪によって八つ裂きの刑になった人物。

3月27日、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンと、叔父のニコラ=シャルル・ガブリエル・サンソンにより、刑の執行が始まった。
まず罪を犯した右腕を罰するために右腕を焼かれ、ペンチで体の肉を引きちぎられ、傷口に沸騰した油や溶けた鉛を注ぎ込まれたあと、手足に切れ込みを入れて八つ裂きにされて絶命し、胴体は焼かれた(シャルル=アンリは、処刑の詳細を記録している)。
処刑を目撃した人物は、彼を、イングランドにおいて同様の罪で処刑されたガイ・フォークスになぞらえた。

ロベール=フランソワ・ダミアンの処刑

絵を見てもわかるように、ダミアンの四肢を馬に引っ張らせて引き裂こうとしていますが、簡単には行かず1時間に3度も繰り返したそうです。
想像するだに恐ろしい刑ですが、公衆の面前で行われているんですよね。
叔父はこの処刑の凄惨さにショックを受け、死刑執行人を引退したそうです。そして、これがフランスで最後の八つ裂きの刑になったそうです。

ギロチンの導入とルイ16世の処刑

1792年4月25日に 最初のギロチンによる死刑が行われました。
ギロチンが採用される以前のフランスでは、平民は絞首刑、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行されていました。
当時の斬首には斧や刀が使われていましたが、一撃で斬首できずに何度も斬りつけるなど受刑者に多大な苦痛を与えることも多く、一方で熟練した技量の高い死刑執行人を雇うことができる受刑者は裕福な者に限られていました。

そのため、受刑者に平等に無駄な苦痛を与えないという人道目的でギロチンが考案されたと言います。
最初にそれを提案したのが、内科医で憲法制定国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンでした。そもそもギヨタンは死刑には反対していたそうです。

ギロチンの設計者は、外科医アントワーヌ・ルイという人物でした。製作は、トビアス・シュミットというチェンバロ奏者が行いました。
当時のギロチンの正式名称は「ボワ・ド・ジュスティス(Bois de Justice/「正義の柱」の意)」だったそうです。

しかし、この装置の人道性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタン博士の装置(子供)の意味である「ギヨティーヌ (Guillotine)」という呼び名が定着した。
ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。
ギヨタン博士はこの不名誉な名称に強く抗議したが、以後も改められることはなかったので、家族は姓を変えた。

ギロチンの設計図を見たルイ16世が、「刃を斜めの形状にすればどんな太さの首でも切断できる」とアンリたちに提案したという説があります。
金属に詳しかったルイ16世は、受刑者が苦しまずに絶命するギロチンの刃の角度(つまりスパッと切れるという意味)を指示したと私も何かで読んだ記憶があります。以前、フランス革命について深堀りしたので、いろんな記事を読みました。

私が思い出すのは、アンリがルイ16世をたいへん慕っていたことです。
そのルイ16世の処刑(1793年1月21日)を、アンリ自身が行うことになったのは最悪の皮肉でしたね。
ルイ16世が最期に発した言葉を、きっとアンリは一生忘れることがなかっただろうと思います。

朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。
10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。
太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。
私は無実のうちに死ぬ。私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」という、フランスへの思いが込められた一言だった。
しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。

ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、アンリが大切に保管していたそうですが、サンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、借金のために質に入れたと言われています。
当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではなかったそうです。
そのギロチンは、現在はイギリスのマダム・タッソー館にマリー・アントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示されているとのことです。

フランス革命の立役者であったロベス・ピエールらは、のちにテルミドール反動で捕らえられ、逮捕された当日(1794年7月28日)の夕刻ぐらいには処刑されていますが、それももちろんアンリが行いました。その日、ギロチンにかけられたのは22人、翌日は70人の処刑が行われました。

また、初恋の相手だったと言われるデュバリー夫人ルイ15世の公妾)の処刑も行っています。(1793年12月8日)
デュバリー夫人は、処刑の寸前まで泣き叫び大声で命乞いをしたそうです。アンリは「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、(ロベス・ピエールらによる)恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」と日誌に書き記しています。

フランス革命で処刑された王族貴族たちは皆、毅然とした態度で処刑されていたことと、ギロチンの導入によって処刑が加速されてしまったことで、民衆の死刑に対する意識も麻痺していたのでしょう。

アンリ・サンソンのホロスコープ

さて、いつものように前置きが長くなりましたが、最後にアンリ・サンソンのbirth chartを見てみましょう。データバンクにはなかったので、作ってみました。誕生時間が不明なのでハウスはなしです。

シャルル=アンリ・サンソンのバースチャート

シャルル=アンリ・サンソン (Charles-Henri Sanson,1739年2月15日 - 1806年7月4日)
太陽は水瓶座26度。月は牡牛座か双子座です。たぶん牡牛座かな。

太陽のサビアンシンボル(+1度)は「新鮮なスミレで満たされた、古代の陶器の椀」(受け継いだ伝統に新しいものを取り入れていく)
古代の椀は、代々、死刑執行人であったサンソン家を意味しているように思えてきます。
しかもギロチン導入は、アンリが斬首の難しさと問題点について意見書を提出したのがきっかけで、議会がアントワーヌ・ルイに設計を依頼したことが開発の始まりと言われています。

ハウスはわかりませんが、蠍座に冥王星が入っているのは、いかにも生死に関わる職業(医者と死刑執行人)という感じですね。もしかすると蠍座が6ハウスかな?

アンリが誕生した頃は、まだ天王星は発見されていませんが、山羊座に入っている天王星が、山羊座のルーラー土星(蟹座3度)とオポジションになっており、代々続いている職業の狭い世界観に新風が吹き込むような感じがします。
同じ山羊座の金星(山羊座22度)が、実直な性質と真面目な仕事ぶりを表しているように思います。

アンリは、家業を嫌っており早く死刑執行人を辞めたかったはずですが、なぜ辞めなかったと思いますか?
父親が倒れたために家計を助けないといけなかったのもありますが、死刑執行人の家族とわかると普通の職業に就くのが困難だったのでしょう。
当時は、結婚も仕事仲間の子息子女同士だったとどこかで読みました。
父が倒れたとき、彼は運命を受け入れたのです。

最初の処刑の立ち合い(1757年3月)のとき、アンリは18歳になったばかり。
ノード回帰でした。ノードは、北が獅子座10度、南が蠍座10度。北ノードにはトランシット(T)海王星がぴたりと乗っており、ネイタル(N)冥王星とTスクエアになっていました。

※当時は海王星、冥王星は発見されていませんでしたが。

正式に「ムッシュ・ド・パリ」の称号を引き継いだとき(1778年)のソーラーリターン(39歳)は、T天王星が双子座11度にあり、N火星とコンジャンクション。N南ノードとトラインでした。
南ノードのトラインは、そのまんま、家業を受け継ぐ感じですね。

当時の死刑執行人の装束

愛する者との別れと葛藤

フランス革命が始まり受刑者の数が増え、1792年(アンリ53歳)にギロチンが導入されるとともにアンリが処刑する人数も急激に増えていきます。

まるでそのカルマの報いのように、助手をしていた次男ガブリエル(25歳)が事故死します。それもギロチンで切断された頭を群衆に見せるため身を乗り出したときに、死刑台から滑り落ちて亡くなったのでした。
ガブリエルが亡くなった月日は不明ですが、1792年のソーラーリターンを見るとT土星がアンリの牡羊座木星にコンジャンクション。N水瓶座太陽にはT冥王星がコンジャンクションになっていました。

そして翌年1793年1月21日に、尊敬していたルイ16世の首を撥ねることになります。N水瓶太陽とT冥王星がコンジャンクション、T天王星がオポジション。N牡羊座木星にT土星がコンジャンクション。

アンリは、ルイ16世の血を自分のハンカチに沁み込ませ、自宅でこっそりと国王の弔いをしていたそうです。処刑された国王のための儀式が発覚すれば、アンリ自身も裁かれる可能性があったにも関わらず、それはアンリが生きている間は密かに続けられていました。

マリー・アントワネット(1755年11月2日 - 1793年10月16日)の処刑もアンリが行いました。
マリー・アントワネットの最期の言葉は、アンリの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」だったと言われています。

アンリは、敬愛する国王夫妻を処刑したことを生涯後悔していました。
そして、あまりにも多くの処刑に関わったため、ストレスから耳鳴りや幻覚、手の震えに悩まされていたそうです。
また、ギロチンは私有財産とされていたため、処刑数が多ければ多いほどメンテンナンスにもお金がかかり、家は決して裕福ではなかったといいます。
のちに子孫がギロチンを質に入れてしまうぐらいですから。

アンリ自身は疎まれる職業についていましたが、人間味にあふれた優しい人物だったそうです。恐怖政治でたくさんの死刑執行を決定したロベスピエールたちのような政治家とは違い人望があったため、死刑囚の家族ですらアンリを憎む人はいませんでした。

引退と死

アンリは、1795年(56歳)に引退。引退した月日は不明ですが、トランシット(T)ノードが獅子座蠍座の軸だったようなので、最初の処刑(1757年3月)のときと同じくノード回帰だったのでしょう。
N水瓶太陽とT獅子座天王星もオポジションだったと思います。

たいへんマメに記録を残していることから、乙女座に天体があるのかと思いましたが、乙女座はからっぽですね。
ルーラーの水星は水瓶座0度にあり、山羊座金星とコンジャンクション、牡羊座の木星とスクエア、双子座のカイロンとトライン。
筆マメのアスペクトといえば水星と木星のスクエアが可能性があります。

先行日食は、1739年2月8日水瓶座19度の皆既日食です。
サビアンシンボルは「伝言を運ぶ大きな白い犬」。あるいは「大きな白い鳩、メッセージの担い手 」。マクロな視点を持つ。霊的なメッセージを受け取るなどの意味があります。

犬が出てきたので、私の頭の中にはエジプトの冥界の神アヌビスが思い浮かびました。アヌビスは黒い頭部を持つ半獣もしくはオオカミの姿で描かれることが多いですが、バチカン美術館のアヌビスは白い大理石?です。
アヌビスは、死者を守ってくれているエジプトでは考えられていたそうです。

アンリがマメに記録を残したのは、アンリ自身は無意識に死者の無言のメッセージを記録するためだったかもしれませんね。
双子座の火星が主要なアスペクトを持っていないのも、ネガティブでなくポジティブな意味でとらえれば落ち着きのある人物であり、また霊感のようなものもあったのではないかと思います。

1806年に、アンリが皇帝ナポレオン1世に謁見した記録があり、その年7月4日に死去しました。67歳。
魚座11度のT冥王星が、N双子座火星とスクエアでした。

T冥王星のサビアンシンボル(+1度)は「オカルト同胞団の神殿で、新しくイニシエートをした団員たちが調べられ、テストをされている
テストをされるとありますが、仲間に迎え入れるための厳格な儀式です。

人類史上2位の処刑を行った人物として名を残したアンリ・サンソンは、受刑者に寄り添い、彼らの痛み、死の苦しみを軽減するために奉仕した人生だったと思います。
アンリの最期は、アンリが処刑した人の魂やグループソウルに迎えられ魂の源に還っていったのでしょう。

アンリの願いであったフランスの死刑が廃止されたのは、アンリの死から175年後でした。

1981年、フランソワ・ミッテラン大統領が司法制度による死刑の使用を禁止し、西ヨーロッパで最後の死刑廃止国となった。

今日はこのへんで。最後までお読みくださりありがとうございました。

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