4世紀*皇帝を屈服させたミラノ司教アンブローズ
古い時代のことを調べていると、脚色はあるにしても時々「これはすごい」と思う人物が登場します。
以前の記事にも少し書いたことがある4世紀のミラノ司教で、アンブローズAmbroseという名の人物です。
日本語訳ではアンブロジウスAmbrosiusとなっていることが多いです。
アンブローズの生い立ち
アンブローズ(Ambrose, 340年? - 397年4月4日)は、4世紀のミラノの司教(主教)。アンブロシウス、アンブロシイとも。
アウグスティヌスに影響を与えたことでも有名。
アンブローズがまだ幼児の頃、「口を開けて眠っていると数匹の蜂がアンブローズの舌の上に止まり、彼を刺す代わりにはちみつを垂らした」という逸話が残っています。このため、彼は長じて話し上手になったとか。
上の画像でアンブローズが蜂の巣を持っているのは、(蜂はキリスト教で度々用いられますが)、その話に由来しているかも。
ローマの植民都市だったトーリア
アンブローズは、当時西ローマ帝国の皇帝が住んでいたドイツのトリーア(アウグスタ・トレヴェロルム)で、ローマ帝国の高級官僚の息子として生まれました。
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トリーアは、ドイツ中西部、ルクセンブルクとの国境付近に位置するドイツ最古の都市と言われています。
現在はモーゼルワインの生産地として有名です。
古くはベルガエ人の同族とされるトレヴェリ人の居住地だったそうで、紀元前16年にローマ属州となり、植民市アウグスタ・トレヴェロルムが建設されました。
275年にフランク族によって破壊されましたが、コンスタンティヌス1世(大帝)(在位:306年-337年)によって都市再建がなされ、285年から395年まで西ローマ皇帝の邸宅があったため、第二のローマと呼ばれていました。
アンブローズが生まれたのは、コンスタンティヌス大帝の子、コンスタンス1世(在位:337年 - 350年)が統治していた時代だったでしょう。
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トリーア司教区 ( Dioecesis Trevirensis)
トリーア大聖堂は、最初の基礎が270年に始まったそうですが、この場所にはコンスタンティヌス大帝の母ヘレナの宮殿があったと言われています。
ヘレナは、西暦326年から328年にかけてパレスチナを旅行し、イエス・キリストが磔にされた「真の十字架」を発見し持ち帰ったそうですが、他にイエスが処刑前まで着用していたと言われている聖なるチュニックも入手していました。
それらがトリーア大聖堂に聖遺物として保管されています。
3世紀後半に、トリーアはキリスト教の司教区になりました。ドイツで最も古いローマ・カトリック教区です。
トリーア聖堂は、4世紀当時の建物はフランク族(ゲルマン人)によって破壊され、町は475年にフランク族に征服されました。ちょうどゲルマン人大移動の時期ですね。
3世紀にローマの領土に侵入してきたゲルマン人は、帝国内に居住を認められ、彼らが国境警備にあたるようになり、やがてローマの補助軍に組み込まれていました。
しかし4世紀(376年)に帝国が東西に分裂したことにより、西ローマ帝国は国力が弱まり、ゲルマン人の侵攻を防ぐことが出来なくなっていました。
しかし、6世紀初めにフランク王国メロヴィング朝に帰属し、教会は再建されましたが、それも882年にヴァイキングによって破壊されたため、10世紀末以降に再び建て直された経緯があります。
その結果、さまざまな時代の建築様式(ゴシック様式の丸天井、ルネッサンス様式の彫刻、バロック様式の礼拝堂)などが見られ、全体的にはザーリア朝のロマネスク様式が残る大聖堂です。
余談ですが、
トリーアの司教たちは、メロヴィング朝時代にはすでに事実上独立した領主でした。
カール大帝(カロリング朝)の治世中に大司教区の地位に引き上げられました。9世紀には、トリーアに教会・礼拝所が20カ所もあったとか。神聖ローマ帝国の勢いを感じますね。
政治家から聖職者への転身
アンブローズはローマで法学を学び、官僚の道を歩みました。33歳で北イタリアの属州知事としてミラノに派遣されました。
ニカイア派とアリウス派の対立
当時、キリスト教会では第1ニカイア公会議(325年)で、イエスの神性を認めるニカイア派(アタナシオス派)が正統、アリウス派は異端とされたのですが、その後、コンスタンティヌス帝自身によってアリウス派が認められたため、アリウス派と反アリウス派の対立が激しくなっていました。
アリウス派の何が問題だったかというと、アリウス主義の教義に含まれていた、キリストの神性を父なる神よりも下位に置くキリスト従属説(従属主義)でした。
アリウス派は「神の本性はいかなる分割もありえないものであるから、キリストは神から放射されたもの(被造物)、したがって神に従属するものでなければならない。キリストの本性は、神聖ではあっても、神性をもつものではない、その本性は神の本性とは異質のものである」と主張していました。
「キリストは被造物である」というろころが、反感を買ったわけです。
しかし、アリウスが最初に主張を始めたわけではなく、ユスティノス(100–165年)の「ロゴス」のように教父たちも教えていたことでした。
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聖職者への道
当時、アリウス派は西ヨーロッパに存在していました。
ミラノでは、アリウス派と正教会の闘争が激しく、ミラノ司教アウクセンティウスの死後、新しい司教の候補者の決定が紛糾していました。
アンブローズが総督としての立場から調停に乗り出すと、民衆は「アンブローズこそミラノ司教にふさわしい」と要求し始めたそうです。
しかし、アンブローズはまだ洗礼を受けておらず(彼の家はローマカトリック信徒となっていたのに、これはちょっと不思議?)、神学も正式に学んでいなかったので、司教職を引き受けたくなくてローマから逃亡しようとしていました。
そんなときに皇帝グラティアヌスから、「ローマ(市民)が聖職にふさわしい人物を任命するのは適切である」という内容の書面を受け取ったアンブローズは、観念して洗礼を受け、叙階され、ミラノの新しい司教として正式に奉献されました。(374年)
上流階級の高官が司教の職を引き受けたのは、西洋で初めてのことだったそうです。
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司教となったアンブローズは、元政治家であった経験を活かした交渉術と類まれな発言力を持ち、教会政治家として優れた手腕を発揮し、アリウス派を駆逐して正統信仰(アタナシウス派)の擁護に尽力しました。
ギリシャ語に精通していたので、東方の教父たちの思想を学んでそれを西方に伝え、西方教会の神学の水準を高めたそうです。
若き日のアウグスティヌスも、アンブローズに出会って大きな影響を受けたと言われます。
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三位一体のキリスト教が国教化
ローマ皇帝テオドシウス1世(在位:379年 - 395年)は、379年冬に三位一体派のテッサロニキ主教(司教)から洗礼を受けました。
テオドシウス帝は、ニカイア信条に忠実だったそうです。
三位一体派ではなかったコンスタンティノポリス大主教を追放し、三位一体派のグレゴリオスを後任としました。
伝統宗教の禁止
380年にテオドシウス帝は、テサロニケ勅令(Cunctos populos)を発布しました。
この勅令は「三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する」という内容で、ローマ教皇とアレクサンドリア総主教(ギリシャ正教)は三位一体派であったため、この勅令は明らかに三位一体派の保護と(アリウス派を含む)非三位一体派の排斥が目的でした。
テオドシウス1世は、非キリスト教の神に捧げる犠牲を禁じ、「誰も、聖域に行くことはなく、寺院を歩いて通り抜け、人の労働で作成された像を見てはならない」と定めました。
テオドシウス帝は、当時流行していたミトラ教の集会場であったカタコンベを破壊して、その上に教会を建てようしていたアレクサンドリア司教テオフィロスの要求に応じたように、三位一体派の異教や異端に対する攻撃を支持しました。
また、女祭司制度の廃止も行いました。
公式な廃止勧告はなかったが、それまで国庫から賄ってきた女祭司の費用を賄わないというものでした。
これにより、ローマ建国以来フォロ・ロマーノで女祭司が常に絶やさないできた「聖なる火」も消えてしまったのです。
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第1コンスタンティノーブル公会議
テオドシウス帝は、381年に現在のトルコ・イスタンブールで、第1コンスタンティノープル公会議を召集し、アタナシウスの教義を補強した三位一体説を正統教義としました。
さらに392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、異教徒禁止令を出しました。のちに西ローマ帝国も同様にしました。
これによって、アタナシウス派の三位一体説のキリスト教がローマ帝国の国教として確立されたのです。
393年、既に衰退しつつあった古代オリンピックを廃止。同時に、オリンピックの開催年を1周期にしたオリンピアードも廃止しました。
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これらのテオドシウス勅令は、テオドシウス1世自身が考えたものではなく、アンブローズの影響が強く現れていると言われています。
教皇権の優位&ちょこっと余談
アンブローズとテオドシウス帝の直接的な関りは388年以降と考えられていますが、皇帝に対してアンブローズが優位になったのは390年のテサロニケの虐殺がきっかけと言われています。
人気ある戦車馭者が同性愛の禁令を犯して逮捕されたのですが、それに怒ったテサロニケの民衆が暴動を起こし、逮捕した隊長を殺してしまいました。
その知らせに激怒したテオドシウス帝は、軍兵たちにすべての住民を虐殺するように言ってしまったそうです。
冷静になったときに命令を取消す伝令を出したけれど間に合わず、市民約7000人が殺された後でした。
アンブローズは、何千人もの罪のない人々の流血につながったテオドシウスの行動を激しく批判し、皇帝がその罪を公に懺悔しなければ、神聖な教会に入ることを禁止し、聖餐式(聖体拝領)も許さないと申し渡しました。
事実上の破門です。
はじめテオドシウス帝は従わなかったらしいですが、やがて要求を受け入れて公けに懺悔しました。
その後、テオドシウス帝はアンブローズの忠告を聞き入れるようになり、強く影響を受けていったのです。
その結果が、キリスト教の国教化につながりました。
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これは、地中海世界の最高権力であるローマ皇帝が、キリスト教の司教に膝を屈して赦しを請うという極めて象徴的な事件でした。
ローマ教皇グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を屈服させた『カノッサの屈辱(1077)』よりも約700年前に、最高権力者である皇帝を屈服させた聖職者が存在したわけです。
アンブローズは、テオドシウス帝だけでなく、西ローマ帝国のヴァレンティニアヌス2世(在位375-392)に対しても極めて強硬な態度で、「十字架の前で跪けないのであれば、ミラノ司教管区から退出せよ」と主張して追い出したと言われています。
アンブローズは『キリスト教の権威』が『ローマ皇帝の権力』よりも上であることを色々な場面で示そうとしていたそうです。
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この一件により、アンブローズはキリスト教会の権威をローマ皇帝の政治権力と対等な位置にまで引き上げた人物として後世に知られるようになりました。
アンブローズが司教を断っていたら・・・官僚のままだったら・・・
もしかするとキリスト教が今のように力を持てたのだろうか?
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アンブローズは397年4月4日に亡くなり、ミラノ最古の聖堂サンタンブロージョ教会に埋葬されました。
サンタンブロージョ教会は、ランゴバルド王国、神聖ローマ帝国の多くの王がロンバルディアの鉄王冠の戴冠を行った教会です。
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最後にまた余談ですが・・・
この記事を書こうとして、旧Twitter時代に「トリーア」のことを投稿したことがあるのを思い出したので検索したら・・・出てこない。
いろいろやって掘り出しました。
これで確信しました。私の投稿がシャドウバンになりがちな理由を。
やはり、ヨーロッパのここらへん(上述の「トリーア司教区」で太字にしている王朝に関しています)に関することを拡散されたくないようです。
まあ、懲りずに書きますけどね(苦笑)
詳しくは、霜月やよいさんの記事をお読みください。
今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。
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