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「真の十字架」とコンスタンティヌス大帝の母ヘレナ

ローマ帝国でキリスト教が盛んになったのは、4世紀に皇帝コンスタンティヌス大帝(在位:306年-337年)が、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教を庇護し、コンスタンティヌス大帝自身もキリスト教に改宗したのが契機になりました。(313年ミラノ勅令

もともと非キリスト教徒だったコンスタンティヌス大帝が、キリスト教を受け入れたのは、政治上の都合で表面だけだったのか真剣にキリスト教を信仰していたのか、いまだに議論もあるようですが、コンスタンティヌス大帝の母フラビア ジュリア ヘレナの影響も大きかったのではないかと思います。


ヘレナと3世紀のキリスト教

十字架を持つセントヘレナ、
ルーカス・クラナハ長老、1525年(シンシナティ美術館)

ヘレナはギリシャ人で、生まれた場所には諸説ありますが、小アジアの北西のビテュニア属州のドレパヌム(のちにヘレノポリスと改名された)と言われています。

紀元前4世紀ごろ、そこにはビュテニア王国がありました。紀元前4世紀は、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)が大活躍していた時代で、占星術でいう「風の時代」でした。

ビテュニアは紀元前 4 世紀に独立した王国でした。
首都ニコメディアは、紀元前 264 年にビテュニアのニコメデス 1 世によって古代アスタコスの場所に再建されました。
ビテュニアは紀元前 74 年にローマ共和国に遺贈され、ビテュニア・エ・ポントス属州としてポントス地方と統合されました。

ローマ帝国の属州としてのビテュニアとポントス、西暦 125 年


ヘレナは下層階級に生まれ、セルビアのナイッソス(現在のセルビアのニシュ)という町の酒場で働いていたときに、コンスタンティウス・クロルス(コンスタンティヌス1世の父)と出会い結婚したと言われています。

おそらく、のちに皇帝になったアウレリアヌス帝が将軍だった際のナイッソスの戦いにコンスタンティウスは従軍していて、ヘレナは捕虜になったのでしょう。


ナイッソスの戦いは、当時の皇帝クラウディウス・ゴティクス(クラウディウス2世。在位:268年 - 270年)とゴート軍の戦いでした。
クラウディウス2世が即位した当時、ローマ帝国は国境の内外での数回の侵略により深刻な危険にさらされていました。
その中で最も差し迫ったものは、ゴート族によるイリュリクム(現在のアルバニア、スロベニア、クロアチア)とパンノニアへの侵略でした。
クラウディウス2世は、皇帝に任命されて間もなく最大の勝利を収めました。

ゴート族は、その後のゲルマン人大移動ならびに西ローマ帝国の崩壊に影響を与えました。それについてはまた別記事に書きます。

各部族によるローマ帝国への侵入要図


クラウディウス2世は、その後まもなくペスト(キプロスの疫病)にかかり亡くなったと見られています。

キプロスのペストは、紀元 249 年から 262 年頃、または 251/2 年から 270 年にかけて ローマ帝国を悩ませたパンデミックで、流行の最盛期には、ローマでは1日あたり5,000人が亡くなっていると言われている。

キプロスの疫病と同時期に、ローマ皇帝デキウスによるキリスト教迫害が重なり、未知数のキリスト教徒が処刑されたり、獄中で死亡しました。
非キリスト教徒からの密告や、多くの人が棄教する一方で身を隠した信者もいたそうです。

まだキリスト教が国教と認められていなかったため、帝国内では迫害され殉教したキリスト教徒も多かった時代です。

セブンスリーパーズ
ローマによるキリスト教徒の迫害から逃れ、郊外の
洞窟の中に隠れた若者たちのグループについての伝説。

※余談
キプロスは古代から疫病が発生しやすい場所のようです。乾燥した土地柄のせいもかもしれません。

コンスタンティヌス1世の誕生

捕虜となっていたヘレナとコンスタンティウスが出会った時、二人はなぜか同じ銀のブレスレットを身に着けていたそうです。
コンスタンティウスは、それを見てヘレナを神が遣わしたソウルメイトだと感じ、結婚したと言われています。

しかし、ヘレナの身分が低かったため、正式な結婚ではなかった(事実婚)とみなされています。

274年に、ヘレナはコンスタンティヌス1世(のちのコンスタンティヌス大帝)を生みましたが、293年にコンスタンティウスは、マクシミアヌス帝の娘フラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚するため、ヘレナと離婚しています。
コンスタンティウスは、テオドラとの結婚を通して政治的地位を高めていきました。

ヘレナとコンスタンティヌス1世は、当時小アジア西北のニコメディア(現トルコのイズミット)を治めていたディオクレティアヌス帝(在位:284年 - 305年)の宮廷に、ある意味政治的な人質として派遣され、少年コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス帝の側近として成長しました。

ヘレナは再婚せず、目立たないように暮らしたと言われています。

Saint Helena (c.250 - 330)


その間、父であるコンスタンティウスは、293年に皇帝ディオクレティアヌスが制定したテトラルキア(四分統治)により、西側の正帝マクシミアヌスを補佐する副帝に任命され、ガリア(現在のフランス)とブリタンニア(イングランド南部)の支配を任されました。

2世紀までのキリスト教徒の印象は、「暗号で通信し、公の場に出てこない秘密結社のメンバー」だったそうで、民衆には不人気だったそうです。
3世紀になると、政府による弾圧・迫害の規模が大きくなり、皇帝ディオクレティアヌスは、キリスト教徒の大迫害(303年)を行いました。

ブリタンニア初の殉教者セント・オールバンはこの時に処刑されたのではないかと思われます。

セント・オールバンの殉教(マシュー・パリス)


しかし、コンスタンティウスは迫害政策には反対していたところもあったようで、コンスタンティウスはガリアとブリタンニアの教会の破壊はしたものの、キリスト教徒の迫害には積極的ではありませんでした。

ローマ帝国が、海峡をはさんでブリタンニアまで組み込んだのは西暦43年にクラウディウス帝のときだったそうです。
ブリタニアでのローマの支配は、410年に西ローマ帝国のホノリウスが支配権を放棄し終わりました。(End of Roman rule in Britain)。
このあとアングロサクソン人がブリテン島に侵入し始めます。

茶色がブリタニアの領域


コンスタンティヌス大帝の即位とヘレナの改宗

306年に、コンスタンティウスがブリタンニアのエボラクム(現在のヨーク市)で遠征中に急死し、その死に際に、遠征に参加していた息子コンスタンティヌス1世を後継者として軍に推薦したそうです。

コンスタンティヌス1世が、西の副帝に任命されたことにより、ヘレナも公の場に復帰しました。
(コンスタンティヌス1世が単独でローマ皇帝になったのは324年)


コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を出した313年頃に、ヘレナはキリスト教に改宗しています。
コンスタンティヌス1世は、ヘレナを「オーガスタ」(皇后および皇室の名誉ある女性に与えられた敬称)に任命し、キリスト教の伝統の遺物を見つけるために帝国財務省への無制限のアクセスを与えました。

西暦326年から28年にかけて、ヘレナはパレスチナに旅行し、ベツレヘムの降誕教会(339年に完成。2012年に世界遺産に登録)の建設とオリーブ山のエレオナ教会(ギリシャ語で「オリーブの森」の意味)の建設を行いました。

降誕教会

エレオナ教会は、十字軍時代には「主の祈り」の教えに関連した施設になったそうです。

またヘレナは、モーセの前に神エホバが現れた「燃える柴」の場所を特定し、そこに教会を建設すると命令を出したと言われています。
その燃える柴があった場所には、正教会最古の修道院と言われる聖カタリナ修道院(世界遺産)の礼拝堂(セント ヘレン礼拝堂とも呼ばれる) が、330 年に建造されています。

聖カタリナ修道院


「真の十字架」の発見

しかし、何と言ってもヘレナの偉業は、キリストが磔になった十字架(と言われている)を探し出したことです。

4世紀に広まった伝説によれば、320年にヘレナはコンスタンティヌス1世の依頼でキリストの墓を探すためエルサレムを巡礼し、ゴルゴタがあったと思われる場所で「真の十字架」(キリストが磔になった十字架)を発見したと言われています。
その日は9月14日だったそうです。

記事のタイトル画像は『聖ヘレナの夢』という絵画ですが、夢の中に御使いが現れてヘレナにその場所を教えたという説があります。


130年代に、ハドリアヌス帝がイエスの墓とされる場所にヴィーナス神殿を建設していました。ヘレナはその神殿の取り壊しを命じ、そこから3つの十字架を発見しました。
(イエスが処刑されたとき、2人の罪人と一緒でしたね。)


どれがイエスの十字架であるか判らなかったので、ヘレナは重病にかかっている女性にその3つの十字架を触れさせました。
女性が最後に触れた十字架で奇跡が起こり、女性の病気は全快しました。

ヘレナは女性が触れた十字架が、真の十字架であると宣言しました。

真の十字架を見つけるヘレナ、イタリア語写本、c。825


ヘレナは聖十字架の一部をエルサレムに残し、他の一部と聖釘(イエスの血が染みた釘)をコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に持ち帰ったと言われています。

十字架の破片は砕かれ、その破片は広くキリスト教会に配布されました。

別の伝説によれば、ヘレナはエルサレムへの旅行中に聖なるチュニック(イエスが磔刑の最中またはその直前に着用したと言われているローブ)も発見したと言われています。

ホーリーチュニック(ドイツ・トーリア大聖堂所蔵)
聖釘の聖遺物箱ドイツ・トーリア大聖堂所蔵)


326 年頃にコンスタンティヌス1世は、真の十字架が発見された場所に聖墳墓教会の建設を命じました。教会は335年9月13 日に聖別されました。

聖墳墓教会、または復活教会は、エルサレム旧市街のキリスト教徒地区にある教会です。4 世紀以来キリスト教にとって最も重要な巡礼地であり、キリスト教徒にとって最も神聖な場所であると考えられています。

聖墳墓教会または復活教会


聖墳墓教会で思い出すのは、チャールズ3世の戴冠式で使用された香油や、「真の十字架」の木片を封じ込めたウェールズの十字架です。
いろいろな物議を醸した戴冠式ですが、私は良い物を見せてもらったと今も思っています。


聖人「聖ヘレナ」

キプロス島に「猫の聖ニコラス」と呼ばれるアギオス ニコラオス修道院(ギリシャ語Άγιος Νικόλαος των Γατών)があるのですが、ヘレナによって設立されたといわれています。

4世紀、キプロスが深刻で長い干ばつに見舞われ、その地域にヘビが出没したため、多くの人々が避難を余儀なくされました。
コンスタンティヌス1世とヘレナは、ヘビを追い出すためにエジプトやパレスチナから数千匹の猫を輸入し、その地域からヘビを駆除したそうです。

https://www.visitcyprus.com/index.php/el/discovercyprus/rural/sites-monuments/2400-agios-nikolaos-ton-gaton-convent-st-nicholas-of-the-cats-convent

アギオス ニコラオスは、聖ニコラウス(サンタクロース)のことです。
ディオクレティアヌス帝の大迫害で、聖ニコラウスも拷問を受けましたが、コンスタンティヌス1世が帝位に就くと、すべてのキリスト教徒が解放され、ニコラウスは大司教の座に戻りました。

『聖コンスタンティンと聖エレナ』 ヴァシーリー・サザノフ


ヘレナは330年頃に亡くなりました。
彼女の頭蓋骨とされるものは、ドイツのトリーア大聖堂に展示されています。
4 世紀初頭にヘレナはトーリアに住んでいたそうで、コンスタンティヌス1世の依頼でヘレナの死後、最初のトーリア教会が建設されたそうです。

ヘレナは、建国以来キリスト教を初めて認めたローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母「聖太后ヘレナ」として、キリスト教会により「聖ヘレナ(St.Helen(a))」として聖別されました。
同じ名前を持つ他の聖人と区別するために「コンスタンティノープルのヘレン」と呼ばれることもあり、ハンガリー語では「イローナ」、マルタ語では「リエナ」と呼ばれます。


バチカンのサンピエトロ大聖堂にある聖ヘレナ像


12世紀に聖墳墓教会の地下に聖ヘレナ礼拝堂が建てられ、ヘレナが真の十字架を探していたときに座っていたとされる椅子が奉献されています。
教会には後陣が2つあり、1つはセントヘレナに捧げられ、もう 1つはイエスキリストの隣の十字架で悔い改めた泥棒に捧げられているそうです。

聖墳墓教会の下層にあるセント ヘレナ礼拝堂
ビザンチン時代のモザイク

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