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King Charles Coronation at Westminster Abbey

チャールズ3世とカミラ王妃の戴冠式の中継、大変興味深く拝見しました。もちろん賛否はあると思いますが、私は数世紀に渡る伝統ある行事を観られて良かったです。
まるでおとぎ話の王様のような、あのような規模の王室行事が出来るのは、今はイギリスぐらいでしょう。

二十数年前、初めての海外旅行がイギリスでした。ロンドンに行ったのは、その一回きりですが、なぜか過去世でここにいたなぁと思いました。
あのとき、ウエストミンスター寺院には行かなかったんですよね。テムズ川越しにビッグベン(時計台)と国会議事堂を何度か見たのは覚えています。


ウエストミンスター寺院の歴史

ウェストミンスター寺院は、正式にはウェストミンスターの聖ペテロ参事会教会と名付けられたイングランド国教会の教会。
東にあるセント ポール大聖堂(聖パウロ大聖堂)と区別するために、ウェスト ミンスターと呼ばれるようになったそうです。

戴冠式などの王室行事が執行され、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されています。
1987年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

wikiより

荘厳な趣きのあるゴシック建築ですが、写真や映像を見るたびにフランスぽいなぁと思っていたら、ヘンリー3世(1207年10月1日 - 1272年11月16日)の時代から2世紀かけて、フランスのゴシック建築を取り入れて改装したのだそうです。

ヘンリー3世と言えば、父親は英国王の中で一番人気がないジョン王。そのため、歴代王にはジョンを名乗る王様がいないと言われるぐらいなんです。(王子を除く)
先日、バイデン大統領がアイルランドを訪問したときに観光したのがジョン王の城でした。その話は長くなるので、またいつか。

起源はベネディクト修道会

ウエストミンスター寺院の起源は、960年代または970年代初頭に平和王と呼ばれたエドガー王(942年頃 - 975年7月8日 )が修道院改革を行い、聖ダンスタンがベネディクト修道会の修道士のためのコミュニティを設置したのが始まりと記録されています。
当時の場所は、テムズ川の浅瀬にあったソーニー島と呼ばれる小島だったそうです。

ベネディクト修道会とは、正式には聖ベネディクト騎士団(Ordo Sancti Benedicti、略してOSB)という名称で、聖ベネディクトの規則に従ったカトリック教会の修道会です。
黒い修道服を着ていることから「黒い修道士」とも呼ばれています。
10世紀頃、ヨーロッパ全体で修道院改革(クリュニアック改革)が行われており、イギリスの修道院改革は、それに触発されて始まったと見られます。
エドガー王の時代の修道院改革では、それまで認められていた世俗的な(妻帯していた)聖職者を追放し、ベネディクト会の修道士に交代すること行われました。

11世紀: エドワード懺悔王修道院

チャールズ3世の戴冠式で使用された聖エドワードの椅子に由来する、エドワード懺悔王(1004年頃 - 1066年1月5日)の時代には、ソーニー島の土地は修道士たちの手入れにより肥沃で緑の多い場所になっていきました。
その名残りは、カレッジガーデンとして一般公開されています。

ウエストミンスター寺院のカレッジガーデン

1042年、エドワード懺悔王は近くに宮殿を建設し、聖ペテロに捧げる修道院の再建を開始し、そこを王室の埋葬教会に決めました。
当時の教会はロマネスク様式で、十字形の間取りに建てられていたそうです。現在より少し小さく、中央に塔があったそうです。
教会は1065年12月28日に奉献されますが、翌年1066年1月5日にエドワード王は逝去し、最初にそこに埋葬された王族になりました。

エドワード懺悔王の葬儀の時のウェストミンスター寺院

当時の基礎は、現在のウエストミンスター寺院の地下に残っています。

11世紀の教会(赤)と現在の教会(青)の相対的な位置を示す平面図
地下に残っているPyx (ピクス)の部屋

Pyx チャンバー
「Pyx」は、1281 年に設立された「Pyx の試練」(硬貨が純粋であることを示す方法として測定された銀の含有量を溶かす)を待つために、銀と金の小片が安全に保管されていた木箱に由来しています。
東の壁に面した石のテーブル (祭壇ではない) は、銀をテストするために使用されました。

13〜14世紀:ゴシック様式の教会へ

エワード懺悔王の死後、ウェストミンスター寺院は戴冠式の場所として使用され続けましたが、ヘンリー3世がゴシック様式に再建し始めるまで、君主はそこには埋葬されませんでした。

ヘンリー3世は、大変信心深く、豪華な宗教儀式を開催し、慈善団体に惜しみなく寄付するような人物であったため平和王とも呼ばれています。
一方で、1253年にユダヤ人法を制定しました。イギリス人の反ユダヤの憎悪に応えるためでした。
イギリスのユダヤ人の歴史

ヘンリー3世の戴冠

ヘンリー3世は、11世紀に建てられたウエストミンスター宮殿がお気に入りで、そこで過ごすことが多かったそうです。旅行や遊興には興味がなく、静かに暮らすことを望んでいたとか。まるで修道士のようです。

エドワード懺悔王が、ウェストミンスター寺院とほぼ同時に建設したのがウエストミンスター宮殿でした。
現在は一部が国会議事堂として使われていますが、16世紀以降数度の焼失に遭っているため、当時の姿とはだいぶ違うようです。

1500年頃のウエストミンスター宮殿/中央は聖ステファン礼拝堂

ヘンリー3世は、エドワード懺悔王を守護聖人として採用し、ウエストミンスター寺院をフランスのランス大聖堂サントシャペルに匹敵するような大教会にしたいと考え、ゴシック建築に改装したと考えられます。
おそらくその資金は、ユダヤ人の資産家から引き出されたようです。

ランス大聖堂は、歴代フランス国王の戴冠式が行われた歴史があります。

ゴシック様式への改装は1245年7月6日に開始され、ヘンリー3世の死後に数十年間中断していたようですが、その後シェークスピア作品のモデルになったリチャード2世(1367年1月6日 - 1400年2月14日)やヘンリー5世(1387年9月16日 - 1422年8月31日)によって改装が続けられました。

ヘンリー7世(1457年1月28日 - 1509年4月21日)は、ウェストミンスター寺院の最東端にある聖母礼拝堂(レディチャペル)をハイゴシック様式のヘンリー7世礼拝堂として再建しました。
ヘンリー7世礼拝堂には、特徴的なファンヴォールト天井があります。

ヘンリー7世礼拝堂のファンボールト

礼拝堂は、1725年以来、バス騎士団の教会としてメンバーの旗が掲げられています。

イギリスのゴシック建築(12世紀後半から17世紀半ば)

16〜17世紀:宗教改革と修道院の解散

ところが16世紀になると、ヘンリー7世の子ヘンリー8世(1491年6月28日 - 1547年1月28日)による宗教改革が行われ、800以上の修道院が解散させられ、その財産は王室に没収されました。イングランドの土地の5分の1が王室に移動したと言われています。
ウエストミンスター寺院も1539年に解散させられ、行政執行人は、エドワード懺悔王の棺の黄金の部分も没収したそうです。

ヘンリー8世と言えば、別の女性と再婚するために最初の結婚を無効にしようとして、ローマ教皇と対立したことで有名ですね。文武両道、詩人であり音楽家でもあり、好色家でワガママすぎた王様です。(研究対象としては面白いです)

ヘンリー8世は、自分自身をイングランド国教会の最高責任者に任命し、修道院を解散させました。このことにより、ヘンリー8世はローマカトリックから破門になるのですが、それが狙いだったのです。
破門されたことにより、教皇の赦しがなくても自由に離婚することが出来(結局6回結婚しました)、またカトリック教会に上納する必要がなくなったので、そのお金を他に回すことが出来るようになりました。

このとき解散させられた多くの教会の廃墟が、まだ現存しています。
ヘンリー8世によって解散された修道院のリスト

ヨークにあるセントメアリー修道院の廃墟

ヘンリー8世が亡くなり、3番目の妃ジェーン・シーモアとの間に生まれたエドワード6世が即位するも15歳で謎の病死。
王位は最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれたメアリー1世(1516年2月18日 - 1558年11月17日)に移りました。

メアリー1世は敬虔なカトリック信者であったため、父のヘンリー8世の宗教改革を覆し、ローマ・カトリックを復興しました。
メアリー1世はプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれました。
しかし、1558年メアリー1世は卵巣嚢腫により亡くなり、彼女の統治は5年で終わりました。

次に即位したのが、ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンとの間に生まれたエリザベス1世(ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年4月3日)でした。
エリザベス1世は、父ヘンリー8世の政策を踏襲し「国王至上法」を発令し、「礼拝統一法」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけたたため、再びローマ・カトリック教会は衰退していきました。

1560年、エリザベス1世は、ウエストミンスター寺院を"royal peculiar"(王室の独特な教会)、つまり教区の司教ではなく主権者に直接責任を負うイングランド国教会の教会として再設立。
17世紀初めには、ジェームス1世の命令によって欽定聖書(ジェームス王の聖書)の翻訳と編纂が、寺院内のJerusalem Chamber(エルサレム商工会議所)で行われました。

1914年頃のエルサレム商工会議所

1642年、チャールズ1世の統治では、イングランド内戦(清教徒革命)が起こり、ウエストミンスター寺院も破壊され、保管していた戴冠式の聖エドワード王冠の宝石なども剥奪されました。
チャールズ1世が処刑されて、イングランド共和国となった連邦時代には、王室のレガリアの金は溶かされて、コインの材料になったそうです。

そのため、王政復古になり息子のチャールズ2世(1630年5月29日 - 1685年2月6日)が戴冠式をするときには、王冠や王笏を作り直した経緯があります。

1698年ごろのウエストミンスター寺院

18世紀~19世紀:西のふたつの塔とバラ窓

17世紀終わりに、教会の外観を復元するプロジェクトが開始され、西の二つの塔が建設されました。1745年頃にはゴシック様式とバロック様式が融合したデザインの塔が完成しましたが、1750年に起きた大地震で一部崩壊する事故も起きました。

ヨーロッパの教会建築では、西正面は最も装飾的な部分で、彫刻で華やかに装飾されます。ファサードの中心的存在は、バラ窓などの大きな窓と印象的な彫刻群が多く、2つの塔がファサードを縁取るタイプも見られます。

教会建築では通常、中心線は東西方向に置かれます。
外装においては西の正面に、内装においては東の端に重点が置かれています。
厳密に東西軸を取れない場合も、西が入り口で、東が奥(祭壇の設置場所)の様式は守られています。

1749年のウエストミンスター寺院

ヘンリー3世の時代(13世紀)には人気があったゴシック建築は、15世紀になるとルネサンスの影響で廃れていましたが、イギリスとベルギーでは生き残っていました。
18世紀半ばに、ゴシックリバイバル(ネオゴシック)がイギリスで起こり、19世紀にヨーロッパに広がりました。
この期間に、現在の国会議事堂(ウエストミンスター宮殿)やタワーブリッジが建設されています。

ゴシックリバイバルには、政治的な意味合いもあったと見られています。
フランスとアメリカを中心に、共和主義と自由主義が世界中に広がっていた時代に、伝統的なゴシックリバイバルは君主主義と保守主義を具現化していると考えられていました。
インドやアフリカ、南アメリカ、アメリカ西海岸にもゴシックリバイバルが伝わるほどで、大英帝国の隆盛期にも重なっています。

19世紀には、北翼廊のファサードを再建し、バラ窓とポーチを変更し、新しい祭壇が設けられました。

北ドアのバラ窓
北のバラ窓を内側から見る

バラ窓(ローズウインドウ)は、ゴシック様式の大聖堂や教会に見られる円形窓を指します。
バラ窓の起源には様々な説(ローマ建築のオクルスなど)がありますが、ローズ ウィンドウという用語は、17 世紀以前には使用されていなかったそうです。
バラ窓もゴシック リバイバルによって、世界中のキリスト教会で見られるようになりました。

20世紀:サフラジェットと第一次世界大戦

20世紀初め、女性の参政権を求めるサフラジェット運動が起こりました。
はじめは平和的な運動だったものが、女性政治社会連合 (Women's Social and Political Union、 WSPU)のメンバーによるデモがエスカレートし、1912年から1914年の間に爆撃と放火が度々行われたそうです。
まだ首相ではなかった時代のウィンストン・チャーチルも、サフラジェットに襲撃されています。

サフラジェットの過激派による攻撃は、1881年から1885年の間に起きた大英帝国に反対するアイルランドの共和党員のフェニアンダイナマイトキャンペーンにインスピレーションを受けたと言われています。

イングランド国教会が女性参政権への反対を強化することに加担しているとして、サフラジェットは教会も標的にしました。
1913年から1914年の間にいくつかの教会が爆撃され、ウェストミンスター寺院でも爆弾が爆発し、戴冠式の椅子が損傷したそうです。爆弾には、榴散弾として機能するナットとボルトが詰められていました。

第一次世界大戦では、ウェストミンスター寺院の屋根に焼夷弾が落ち、クロッシングのランタンタワー(後述)が崩壊し穴が開いたままになりました。

焼夷弾攻撃を受けた寺院内部

このときに戴冠式の塗油の儀式に使われる精油が破損し、1953年のエリザベス女王の戴冠の際には精油を作り直した経緯があります。

クロッシングは、ヨーロッパの教会によく見られる十字架の形の身廊と翼廊が重なる部分で、その屋根の部分にはランタンタワーと呼ばれる尖塔を立てることが多いです。
現在もウエストミンスター寺院のランタンタワーは、簡易な修復のままです。

ウエストミンスター寺院のもとのランタンタワーが、実際はどのようなものだったかわからないのですが、クリストファー・レンのデザインの以下のようなものだったかもしれません。

北側から見た全景。中央にランタンタワーが見えます。
寺院内から見上げたランタンタワー

2013年に行われたエリザベス女王のダイヤモンドジュビリーに間に合うように、ランタンタワーを完成させる計画もあったそうですが、予算不足で実現しなかったそうです。

2011年4月29日には、ウィリアム王太子の結婚式が行われました。
チャールズ3世とダイアナ妃の結婚式(1981年7月29日)は、セントポール大聖堂で行われたので、ウエストミンスター寺院で王室の結婚式がおこなわれたのは、1986年のアンドルー王子の結婚式以来です。

戴冠式が行われた寺院内部

イギリスのほかのゴシック建築に比べて、ウエストミンスター寺院は細身で、内部も狭いです。初めて映像で見た時、「せまっ」と思いました。
代わりに天井はすごく高く、ハイゴシック様式を取り入れています。

二つの塔がある西のドアが礼拝者に開かれています。
通常、教会は東に祭壇を置くため(東に向かって拝礼する)、西が入り口になります。
西の入り口から入ると、すぐに無名戦士の墓があります。1920年11月11日に第一次世界大戦で戦死したイギリスの身元不明の兵士を埋葬しています。
墓の上には黒大理石の石が置かれ、戦時中の弾薬を溶かして作った真鍮でエピタフ(墓碑銘)が刻まれています。


無名戦士の墓

クワイヤスクリーンと説教壇

奥(東)へ向かって進むと、アイザック・ニュートンの記念モニュメントがあります。これはクワイヤ・スクリーン(内陣障壁)と呼ばれるもので、中世後期の教会建築に一般的に見られます。

スクリーンの上は、階段で出入りできる高廊と呼ばれるスペースがあり、十字架が置かれることが多いですが、時には聖歌隊席にもなります。
先日の戴冠式ではオーケストラピットになっていました。(すごく狭そうでした)

スクリーンの左横に、シンプルで小さな説教壇があります。おそらく日常的なミサでは、スクリーンの前までしか開放されていないと思われます。
その先にはクワイヤ(合唱隊の席)があります。

ニュートンの記念モニュメント。中央が通路になります。
ニュートンのモニュメントの反対側はクワイヤ
身廊(西入口側)
身廊(中央)

戴冠式のステージ

下の写真の下部に見えるコスマティ舗装のフロアが、戴冠式が行われたステージ部分です。
コスマティ舗装は、ヘンリー3世が発注し、1268年に設置されました。

コスマティ舗装には白い大理石が使われることが多いそうですが、ウエストミンスター寺院では、イギリスのドーセット南東部にあるパーベック島で見つかった暗い色のパーベック大理石を使用しているのが特徴です。

コスマティ舗装 |ウェストミン スター (westminster-abbey.org)

コスマティペイブメント

コスマティ舗装のデザインは、古典哲学、幾何学にリンクしており、世界の創造から19,863年後の世界の終わりを予測しているのだそうです。
この数字も何かにリンクしているのでしょうか。

チャールズ3世の戴冠式

上の戴冠式の写真は、祭壇上から撮られています。
戴冠式の椅子の後ろの黄色いカーペットの部分がクロッシング(交差)で、左右に翼廊があります。
下のリンクから寺院内部を3Dで見ることができます。

クワイヤの先に見える内陣(サンクチュアリ)

サンクチュアリ

クワイヤの向こうはサンクチュアリ(聖なる場所)と呼ばれ、祭壇に聖体拝領のパンなどが置かれています。
先日の戴冠式では、王冠、王笏、宝珠などのレガリアも置かれていました。

サンクチュアリは「避難場所」「安らぎの場」という意味をも表しますが、逃亡者がここに逃げ込むと教会の庇護を受けられた(聖域権)ことから、そう呼ばれるようになったそうです。

戴冠式のときにも聖体拝領が行われました。
現世ではクリスチャンではない私ですが、塗油や聖体拝領の儀式はとても興味があります。

祭壇の後ろのスペースは、アプスと呼ばれる場所です。
ウエストミンスター寺院では、ここは聖エドワードの墓所になっています。
アプスを囲むように小回廊があります。

主祭壇
聖エドワードの祭壇
小さな回廊

だいぶ長くなってしまったので、チャールス3世の戴冠の様子、当日のすごい星の配置は次の記事にします。
ここまでお読みくださりありがとうございます。


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