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備忘録*1970年「黒い9月」*ヨルダンとシリア

1970年9月に始まったヨルダン内戦は、別名「ブラック・セプテンバー」(黒い9月)と呼ばれています。

ヨルダン内戦は、1950年代に始まったアラブ冷戦のひとつで、イスラム王朝ハーシム家のヨルダン国王フセイン1世 (1999年2月7日死去)が率いるヨルダン軍と、パレスチナ解放機構(PLO)との間の紛争でした。




アラブ冷戦の始まりは、1952年7月23日エジプト革命によって特徴づけられています。エジプト革命については、私はまったく別のことで調べていましたが、自由将校団と呼ばれる青年将校たちによって、エジプトのムハンマド・アリー朝が倒されたクーデターでした。

自由将校団のメンバーにはのちにエジプト共和国の大統領になる、アンワル・アッ=サダトガマール・アブドゥル=ナーセルがいました。


同時期のイラン皇帝ムハンマド・レザー・シャーの妻が、ムハンマド・アリー朝のファールーク1世の妹ファウズィーヤでした。
この時期のイランとエジプトは良好な関係でした。

エジプト革命の翌年に、イランではMI6とCIAが後援したクーデターが起きていることを考えると、エジプト革命も偶然の無関係ではなさそうです。

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ヨルダン内戦に至った理由

1967年、第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルに敗戦したヨルダンは、エルサレム旧市街とヨルダン川西岸地区を失いました。

この戦争、イスラエルはアメリカの後援なしに勝利したと言われていますが、ちょっと信じられません。

この頃のアメリカ大統領はリチャード・ニクソンで、アメリカはベトナム戦争の真っ最中でした。
イスラエルのメイア・アミット諜報特務庁長官は、アメリカのロバート・マクナマラ国防長官に先制攻撃の内諾を得たと言われています。

メイア・アミットは、元の名はメイア・スルツキーでウクライナ系ユダヤ人。1962年から1963年までイスラエル軍情報局長、1963年から1968年までモサド長官だった。

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ヨルダンのカラメ村にあるパレスチナ難民キャンプには約3万人のパレスチナ難民が避難し、パレスチナゲリラであるフェダイーン(fedayeen)のグループ、ファタハの約300人が保護していました。


ファタハ(Fatah)は、パレスチナの政党。
1957年、パレスチナ独立を目標としてヤーセル・アラファートにより設立され、1967年にパレスチナ解放機構(PLO)に加入しました。

ヤーセル・アラファト

1969年にはアラファトがエジプトの後押しでPLOの議長になったことでPLO主流派となるも、翌1970年に同じPLOに属するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)が起こした旅客機同時ハイジャック事件が契機となったヨルダン内戦の結果、ヨルダンから追放されレバノンに本拠を移した。
1980年代には欧米の支持も背景に穏健路線へ転換した。

1966年11月13日のヨルダ川西岸で起きたサム事件は、1967年の第三次中東戦争の勃発の一因となったと考えられている。

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カラメの戦い

1968年3月21日、イスラエル軍はカラメ村への攻撃を開始。
パレスチナの戦闘員とヨルダンの兵士の激しい抵抗にもかかわらず、15時間にわたる戦闘でファタハのキャンプはほぼ完全に破壊されました。
イスラエル軍は、約140人のPLOメンバーを捕虜にして撤退しました。


破壊されたカラメ村
カラメの戦いに参加していたイスラエル兵・若き日のネタニヤフ氏


イスラエルは殺されたフェダイーンの数を150人としていたが、イスラエルの元軍医で歴史家のアシェル・ポラットは、殺害された人々の大半は民間人であり、殺害されたヨルダン人とパレスチナ人の合計196人のうち、武装していたのはわずか90人だったと述べた。

国連安全保障理事会決議248が発布され、イスラエルが停戦ラインに違反し、その不均衡な武力行使が全会一致で非難されました。

この戦いはアラブ世界で広く称賛され、アラブ諸国からヨルダンのフェダイーンへの支援が急増しました。
パレスチナ人が単独で勝利したわけではないが、フセイン国王は彼らの手柄を認め、「我々は皆、フェダイーンだ」と宣言したと言われています。


圧倒的に数で圧倒され、火力も劣るフェダイーンが撤退する代わりに立ち上がり、戦ったというニュースは、若いパレスチナ人抵抗運動、特にファタハに対する宣伝と支持の大規模な急増につながり、何千人ものパレスチナ人の若者がPLOに加わった。
こうしてカラメの戦いはパレスチナの抵抗運動の発展に決定的な役割を果たした。

ヨルダンの国王フセイン1世


イスラエルの攻撃は、ヨルダンとイラクおよびシリアとの間の軍事協力の強化につながりました。

その年の7月には、ヨルダン軍、イラク軍、シリア軍の合同演習がヨルダン北部で行われ、年末にはヨルダンとイラク、シリアは、イスラエルに対する「東部戦線」の合同軍事最高司令部を形成することに合意しました。

イラクとシリアは、数千人のゲリラに訓練プログラムを提供しました。


しかし、PLOの力が増大していくつれ、ヨルダン政府との間に亀裂が生まれ、対立が悪化していきました。

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ヨルダン国王フセイン1世(フセイン・ビン・タラール)は、1970年代までCIAから財政支援を受けていたと言われています。

この頃のアメリカ大統領は、リチャード・ニクソン
ああ、なるほどねぇ(苦笑)


ニクソン大統領

ニクソン大統領は、1970年以降、特に軍事分野においてイスラエルを支援しました。ヨルダン内戦では、5億ドルの軍事援助とF-4ファントム戦闘機18機の早期引き渡しが行われました。


1970年9月1日、マルクス・レーニン主義のパレスチナ解放民主戦線(DFLP)がフセイン国王の暗殺を試みたこともありました。
暗殺は失敗しましたが、これはまもなく始まる大事件の前奏曲に過ぎませんでした。

DFLPの武装部隊は、パレスチナ・レジスタンス旅団(アラブ・レジスタンス・アラブ・レジスタンス旅団)と呼ばれています。
マアロットの虐殺(1974年)では、イスラエル人の小学生を含む学生115人以上が人質になり、そのうち34名が死亡しました。

過激派は、23人のアラブ人と1972年のテルアビブ空港乱射事件に関与した日本人のテロリスト岡本公三を含む3人の釈放を要求していました。
イスラエルは翌日、反撃に出て、レバノン南部の7つのパレスチナ難民キャンプと村を爆撃し、少なくとも27人が死亡、138人が負傷しました。


フセイン1世(1953年頃)


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旅客機同時ハイジャック事件

ヨルダン内戦のきっかけとなったのは、1970年9月6日に起きた「PFLP旅客機同時ハイジャック事件(ドーソンズフィールドハイジャック)」でした。

PFLP旅客機同時ハイジャック事件は、ヨーロッパの各都市からアメリカのジョン・F・ケネディ国際空港に向かった4機(イスラエルのエル・アル航空機、アメリカのトランス・ワールド航空機、スイスのスイス航空機、アメリカのパンアメリカン航空機)が、パレスチナのテロ組織「PFLP」に同時にハイジャックされた事件です。


パレスチナ解放人民戦線 (PFLP)は、1967年に設立されたマルクス・レーニン主義に属するパレスチナの政党・武装組織。
エル・アル航空426便ハイジャック事件(1968年7月23日

PFLPは、パレスチナ解放機構(PLO)に参加している。


ハイジャックが成功した2機は、ヨルダンのドーソンズ基地(ヨルダンの首都アンマンから約50キロの距離にあるイギリス軍の旧空軍基地に強制着陸させられました。

ドーソンズ基地があった一帯は、当時はフセイン1世国王の黙認の元にPFLPの活動拠点となっていたそうです。



イスラエルのエル・アル航空の航空機には、ハイジャックを警戒して搭乗していたスカイマーシャル(武装私服警官)が、犯人のうち1人を射殺し、残る1人も飛行機の機内における銃撃戦の末に取り押さえていました。

イスラエルの飛行機にだけ、銃を持った警官が乗っていたんですねぇ。

事件に巻き込まれたエル・アル航空のボーイング707


スカイマーシャルプログラムは1968年にアメリカ連邦航空局で始まったそうですが、2001年に発生した同時多発テロ事件直前に配備されていた33名のスカイマーシャルはアメリカの国内便には搭乗していなかったそうです。
911でアルカイダにハイジャックされた旅客機4機は国内便でしたね。


その後の9月9日には、バーレーン発ベイルート経由ロンドン行きの英国海外航空の旅客機が、同じPFLPのメンバーにハイジャックされて、ドーソンズフィールドに着陸させられました。

3日前にハイジャック事件が起きたのに、武装警官を乗せていなかったのは残念でした。


PFLPの兵士


PFLPは世界各国のメディアに対して、イスラエルや西ドイツ、スイス、イギリスなどの西側諸国に捕らえられているPFLPメンバーを含む同胞の解放を要求し、「要求が聞き入られない場合は人質もろとも航空機を爆破する」と通告しました。
不幸中の幸いで人質となった乗客の多くは、ドーソンズ基地に着陸後に随時解放されていたため、最終的には全員無事で死者はハイジャック犯1名だけでした。


アメリカ政府は、米海軍の第6艦隊やトルコの空軍基地に展開する航空部隊を臨戦状態に置きましたが、実際には攻撃はしませんでした。

国際赤十字委員会、ヨルダンやスイス、アメリカやイギリスなどの当事国や、PFLPの実質的な後見人であるシリアやソ連を巻き込んだ交渉が行われ、9月12日に残っていたイスラエル人及びユダヤ系の人質と乗務員の計56人全員が解放されました。

人質が全員解放されたあと、「イスラエルと国際社会の対応に対する抗議」として、強制着陸させられた3機の旅客機が、次々に爆破されました。



こうして同時ハイジャック事件は解決しましたが、ヨルダンの世界的信用を失墜させ、王制を否定するマルクス・レーニン主義のPFLPへのフセイン1世国王の怒りは収まらず、PLO及びPFLPを自国内から排除するため攻撃を開始し、ヨルダン内戦が勃発したのでした。

両者の戦闘はヨルダン各地に波及しましたが、重火器を持たないPFLPは後退するしかなく、圧倒的な軍事力を持つヨルダン軍が優勢なのは当然でした。


シリアの対応

その頃のシリアは、ヌーレッディーン・アル=アターシー大統領(任期:1966年2月から1970年11月まで)が、ユーフラテスダム(タブカダム)の建設でソ連とパートナーシップを結んでいました。


ダムは、ソビエト連邦の支援を受けて1968年から1973年の間に建設されました。同時にできるだけ多くの考古学的遺跡を発掘し記録する国際的な努力がなされました。カラト・ジャバール城

1974年にシリアとイラク(下流)との間で紛争が勃発したが、サウジアラビアとソビエト連邦の介入によって解決されました。

このダムは水力発電とユーフラテス川の両側の灌漑地のために建設されましたが、トルコのケバン・ダム南東アナトリア・プロジェクト(GAP)のダム建設の結果としてユーフラテス川の流量が減少したため、十分に能力を発揮できていません。

カラト・ジャバール城


またアターシー大統領は、シリアの土地を横断するイラク石油会社が所有する石油パイプラインの解体を支持していました。
さらに企業がシリアの要求に従うまで、シリア領土内での石油輸送を停止したそうです。

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イラク石油会社(IPC)は、以前はトルコ石油会社(TPC)として知られていました。世界最大の石油会社のいくつかが共同で所有しており、本社はイギリスのロンドン(BP社)です。

1972年6月、イラクのバアス党政権はIPCを国有化し、その運営はイラク国営石油会社に引き継がれました。「イラク石油会社」という会社は、書類上はまだ現存しています。

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ヨルダン内戦への参戦

カラメの戦い以降にヨルダン、イラク、シリアは結束していましたが、アターシー政権がソ連とパートナーシップを取っていたせいもあり、シリアはソ連が後援していたPLOの支援に回りました。


1970年9月19日、アターシー大統領はシリア陸軍に命じ、約300両の戦車部隊をヨルダンに侵攻させてヨルダン国境のイルビドを占領しました。

隣国の軍隊の侵入にヨルダン国内は混乱状態に陥りました。
9月20日、フセイン1世はアメリカに空爆とシリア戦車部隊への攻撃を要請しました。

大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーがイスラエル首相ゴルダ・メイアと特命大使イツハク・ラビンに電話をかけ、イスラエル軍による偵察、攻撃について打診した。
翌21日早朝午前3時30分ラビンから「空爆と地上軍投入は可能である」とキッシンジャーに返答があった。
イスラエルにとっても、第三次中東戦争後ソ連からの支援で増強されたシリア軍に打撃を与えることができる機会だった。
アメリカはヨルダン政府を支援しイスラエル軍の軍事行動に同意するとし、協議内容をフセイン1世に伝えた。


しかし、当時、事実上のシリア軍の指導者であり空軍司令官であったハーフィズ・アル・アサド(先日、ロシアに亡命したアサド大統領の父)は、アターシー大統領の命令には従いませんでした。


ハーフィズ・アル・アサド


ハーフィズ・アル=アサドは、のちに当時のこと以下のように語っています。

「私は、敵ではないと思っていたヨルダンと戦うことに落胆していた。戦争を拡大したくなかったので、虎の子の空軍は動かさなかった。
私の気持ちとしては、空軍を出動させずに目的のゲリラ保護が果たせれば、それが一番だと思っていた」


9月21日、イラクは内戦に不介入の方針を取り、ヨルダン領内に駐留させていた12000名のイラク軍を撤退させました。
ソ連は、シリアにヨルダンからの撤退を助言しました。

9月22日、フセイン1世はヨルダン空軍を出動させ、イルビド付近のシリア戦車部隊を空爆しましたが、前述のとおりハーフィズ・アル・アサドが指揮するシリア空軍は出撃しませんでした。

同日午後にはシリア戦車部隊は撤退を始め、23日には全戦車部隊がヨルダン領から撤退しました。
25日にはヨルダン軍とPLOの停戦が発表されました。


ヨルダン内戦終了後

1970年11月13日、ハーフィズ・アル・アサドは「国家社会主義路線を維持し、改善する」と宣言し、無血クーデターを決行しました。
バアス党は教義を改訂し、ソ連の支援を受けてシリア軍を育成し、イスラエルを打倒することに重点を置きました。

アターシー大統領は他の政府高官とともに裁判も受けられずに拘留され、ダマスカスのメゼ刑務所に22年間投獄されたそうです。
1992年12月3日に63歳で食道がんにて死亡。

メゼ刑務所ではその歴史を通じて広範囲にわたる人権侵害と拷問が報告されてきたが、最も顕著だったのはハーフィズ・アル・アサド政権時代(1970~2000年)だった。

2000年9月にバッシャール・アル・アサド大統領 の命令により閉鎖され、約600人の囚人が釈放された。
伝えられるところによると、この刑務所は歴史科学の研究所に改造された。

権力を掌握したハーフィズ・アル・アサドは、ヨルダン内戦で関係が悪化したエジプトとの関係を修復し、反イスラエルの新たな軍事同盟をエジプトと結びました。


結局、イスラエルがシリアを攻撃する前に内戦は終わりましたが、ニクソン大統領は「私は、ヨルダン情勢悪化を食い止め政権転覆の動きを封じたイスラエルの役割を決して忘れない」と感謝のメッセージを、キッシンジャーを通じてゴルダ・メイア首相に伝えました。

キッシンジャーは「アメリカはイスラエルのような味方を中東に持つことができて幸運だ」とも述べたそうです。


PFLPの一部メンバーは、「黒い九月」ブラックセプテンバーを自らのグループ名としました。
彼らは1972年のミュンヘンオリンピックにおいてイスラエル選手団を襲撃、多数を殺害するいわゆる「ミュンヘンオリンピック事件」(死亡者 17名)を起こしました。

ヨルダンから追放されたPLOが、パレスチナ難民を引き連れてレバノンに拠点を移したことにより、それまでのレバノンの宗教バランスが崩れました。
1975年4月にキリスト教武装勢力がPLOを襲撃したことから、レバノン内戦 (1990年10月13日まで)へと発展していくことになります。

長期に渡ったレバノン内戦は、イスラエルとアメリカをはじめとする多国籍軍が加わった1982年から1985年にかけては、第一次レバノン戦争と呼ばれます。死亡者数は120,000–150,000人と言われています

こうしてイスラエルをめぐって中東諸国の諍いは続いて行くのでした。

最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。


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