見出し画像

Pray for Derna (デルナに祈りを)

9月15日の新月の星読みをしなければと思いつつ、他のことに気が散ってしまうのは水星がまだ逆行状態(16日に順行)のせいかもしれません。

新月の星読みは後ほど書かせていただくとして、気になっているのは9月11日、リビアで起きた大洪水のことです。

北アフリカを襲った世紀末的災害

ニュース等でご存じのように、約3000人の死者を出したモロッコの大地震の3日後、同じ北アフリカの国リビア東部のデルナで豪雨による洪水が起きました。9月15現在10,000人以上の死亡が確認されており、まだ数千人が行方不明になっています。

モロッコの地震については、星読み仲間のkeiyatlongさんが記事を上げておられるのでぜひご覧ください。


リビアの洪水は、「ストーム・ダニエル」と名付けられた台風のような低気圧(メディケーン)の影響によるものです。
9月上旬、「ストーム・ダニエル」はギリシャ中部に3年分の雨を2日で降らせ、町がひとつ消えたと騒がれていましたが、その後さらに地中海上で勢力を強めていました。

9月5日、ギリシャ中部ボロス近郊

ギリシャの国営通信社は、少なくとも15人が死亡したと伝えています。


トルコの気象サイトは、9日にダニエルがリビアに上陸すると予報を出していました。

リビア国立気象センターは北東部アルベイダで10日に24時間で414mm以上の猛烈な雨が降ったことを記録している。デルナの一部地域でも同日、24時間で170mmの大雨が降った。

デルナ市南方の2つのダムが決壊しため、大量の水が一気に街に流れこみ、濁流は建物4階の高さまで達したそうです。地元当局は、デルナの33%が消失したと述べています。

AP通信の記事では、ギリシャの洪水は、山火事、植生の喪失、緩い土壌によって悪化し、リビアの洪水は、インフラの整備が不十分であったために悪化したと書かれていました。

決壊する前のダムの写真を見たんですが「いや、これ、堤防でしょ」というのが正直な感想です。

リビアの洪水:近隣全体が海に引きずり込まれた-BBCニュース




ダム決壊時のホロスコープ

11日午前3時ごろにダムが決壊したという記事があったので、ホロスコープを立ててみました。デルナ近くのベンガジで作成しました。

予想はしていたのですが、月が獅子座の始めにあって、冥王星とオポジションになっていました。そしてノード軸とグランドクロスになっています。
ノードが絡むと大勢の人に影響が出ます。

北ノード(ヘッド)には、不和の女神エリスがコンジャンクションしており、水星とセスキコードレート、冥王星と緩くトールハンマーになっています。また水星は、レクイエムとスクエアです。


余談ですが、この日の数秘は9。9は完了、完成。
2001年9月11日アメリカ同時多発テロから22年後、NYには雨上がりの二重の虹がかかっていました。


預言者ダニエル

ダニエルの名前を聞いて、私の頭に浮かんだのは旧約聖書のダニエル書でした(後述)
ダニエル書は、紀元前6 世紀の設定を備えた紀元前 2 世紀の聖書の黙示録と言われています。有名なヨハネの黙示録の1章、2章に酷似した部分があります。

ダニエル書はユダヤ教とキリスト教に限定されず、中世にはイスラム教徒にも大きな影響を与えていたそうです。
また、ニュートンやフランシス・ベーコン、カール・ユング、音楽家やミケランジェロ、レンブラント、ドラクロワなどの画家にも影響を与えました。


デルナの始まり

リビア(Libya) は、ギリシャ神話の登場人物リビュエーに由来し、古代ギリシアで北アフリカの地中海沿岸地域(エジプトより西)をまとめて Libya と呼んでいたことに由来するそうです。

紀元前450年頃の北アフリカのリビアの地域


イベリア半島のモリスコ追放

1609年4月9日にスペイン王フェリペ3世モリスコ追放を発令しました。

モリスコは、イベリア半島でレコンキスタ(複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動)が行われていた時代に、カトリックに改宗したイスラム教徒のことです。
しかし、成人のモリスコの多くは王家や教会に対する忠誠をほとんど示すことはなかったため「隠れイスラム教徒」と疑いの目を向けられていました。

フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスによる強制改宗


そもそもイベリア半島のイスラム教徒たちは、15世紀に強制的に改宗させられたので、潜在的に怒りを持っていました。
1568年にオスマン帝国が彼らを解放するという噂が広まったとき、イスラム教徒たちは決起し、主にグラナダを中心にアルプハラスの反乱(1568–1571)を起こしました。

この反乱は鎮圧されましたが、のちにスペイン全土からモリスコの追放が行われることになりました。
アルプハラスの反乱は、八十年戦争(オランダ独立戦争)と時を同じくしてています。オランダ独立戦争ではスペインは劣勢になり、領土の半分以上を失っていました。

スペイン支配階級は、スペインこそがキリスト教界の弁護者であると自負していたため、オランダ(のちにプロテスタント国家になった)に敗北したことは、当然、不名誉なことでした。
プロテスタント諸国のスペインへ批判には、「スペインの貴族は、偽キリスト教徒を雇っている(モリスコの安い労働力に依存している)」という、スペインは堕落しているという意味の侮辱が含まれていました。
そのため、スペインの名誉回復をしなければと、カトリック思想がより過激化していったと言われています。

1609年、モリスコ追放が始まったとき、スペインの総人口の850万人のうち、およそ325,000人のモリスコがスペイン国内にいたそうです。
9月30日、最初のモリスコたちが北アフリカへ輸送されていき、わずか3ヶ月間で11万6千人が北アフリカへ輸送されました。
しかし、モリスコの労働力に頼っていた地域では、その後、経済的衰退が見られたそうです。

最終的に追放が完了したとき、おおよそ1万人ほどのモリスコが、主にスペイン・カスティーリャに残ったのみでした。

バレンシアにおけるモリスコの乗船、ペラ・オロミグ画


その追放されたモリスコたちが移住した北アフリカが、リビア、主にデルナの町だったのです。

古代ローマ共和国ダルニス

この地域は紀元前630年頃にサントリーニ島のギリシャ人が入植し、古代キュレネ王国が建設されました。

古代キュレネ王国がアレクサンドロス3世に征服された後は、独立、再統合を繰り返し、紀元前96年に古代ローマ共和国の支配下になりました。
後期ローマ帝国(395年から東ローマ帝国)では、この地域はエジプト主教区でした。
当時、デルナはDarnisダルニス(あるいはダーニス)と呼ばれていました。

キュレネの遺跡 (リビア)


644年ごろイスラム帝国が侵攻し、ウマイヤ朝の分裂後はエジプトに併合され、1517年にはオスマン帝国の支配下になりました。
アラブ世界では、ダルニスはデルネ(デルネ、デルナ)またはテルネ(テルナ)と呼ばれるようになり、現在のデルナ(あるいはダルナ)となりました。

ダーネの戦い(1805年4月27日-同年5月13日)

1801年、トリポリ戦争と呼ばれる第一次バーバリ戦争(1801年-1805年)が、アメリカ合衆国とリビア首都トリポリで戦争が起きました。

当時、トリポリはオスマン帝国の保護下にあり、地中海を通過する商船の船籍国から通行料を徴収する他、商船を襲って捕虜を人質にし身代金を要求したり、身代金が得られない場合は奴隷として売り飛ばすという、いわゆる海賊行為を行っていました。

アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンの就任直後から、アメリカが要求された通行料を支払わなくなったため、アメリカ合衆国船籍の商船が海賊に襲撃されるようになり、緊張関係が続き1801年6月14日に正式に開戦しました。


1804年11月、7名のアメリカ海兵隊の分遣隊は、エジプトの港町アレクサンドリアに上陸し、約500名のキリスト教徒及びイスラム教徒による傭兵隊を組織しました。
1805年4月27日、45日間の行軍を経てトリポリの根拠地ダーネ(デルナ)に到達し、アメリカ海軍の艦艇による艦砲射撃の援護もあって、その日のうちにダーネの市街を制圧しました。
その後、4月28日に到着したトリポリ側の援軍による反撃に遭ったものの、後発の傭兵隊が到着するまでアメリカ側は持ちこたえ、5月13日にダーネを完全に確保しました。

デルナの街を攻撃するアメリカ海兵隊と傭兵


ダーネの戦いは、トリポリ戦争において唯一の地上戦と言われています。
この後、アメリカ軍がトリポリ市街へ突入する前にトリポリ側が講和に応じたため、デルナは事実上の最終決戦地でした。

また、この戦いはアメリカ海兵隊にとって初めての海外派遣での本格的な戦争であったため、勝利を記念して海兵隊讃歌の歌詞「To the shores of Tripoli」に反映されて、今日も伝えられているそうです。


リビアのホロスコープ

リビアの独立記念日は、1951年12月24日(ベンガジのマナール宮殿で正式に宣言された)ということなので、ホロスコープを立てトランシット(以下Tと表記)を見てみました。

※調印の時間がわからなかったので、12時に設定しています。
ハウスやアングルは考慮から外します。

現在、トランスサタニアン天体(天・海・冥)のミニトラインが出来ており、それが影響したのだろうと思っていましたが、ドンピシャで逆に怖くなる配置でした。

T海王星とT天王星が、ネイタル(以下Nと表記)の海王星とクインカンクスでヨドを形成。
T海王星とT冥王星が、N冥王星とヨドを形成。
T土星がN北ノードにコンジャンクション。T土星がN火星とセスキコードレート。

T海王星の影響が大きいですね。それと北ノード魚座2度に、T土星がぴったり(オーブ0.05)乗っているのもカルマを思い起こさせます。

独立記念日や建国記念日は、その国の誕生日と同じ意味を持ちます。
天秤座火星と魚座北ノードがセキスコードレートになっているリビアは、紛争を運命づけられた国とも言えるかもしれません。

そのほか、不和の女神エリスと木星が牡羊座でコンジャンクション、山羊座の太陽、カイロン、レクイエムのコンジャンクションは、獅子座の冥王星とトールハンマーを形成しています。



ダニエルの預言

聖書のダニエル書11章から12章は、預言者ダニエルが見た「終わりの日」のビジョンが書かれており、11章の天使の幻では「荒廃させる忌まわしい行為」を仕掛けた傲慢な外国の王の歴史が語られ、リビアがその王に荒廃させられると書かれています。

ダニエル書は、預言者ダニエル自身によるものではなく、ほかの著者編集者(すくなくとも2人)が紀元前2世紀に書いたものです。(預言者ダニエルは紀元前6世紀の人物)

後世の聖書学研究で、ダニエルが見たとされている「終わりの日」の幻は、紀元前165年頃セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスに対するユダヤ人の反乱とその後のマカバイ戦争のことだと言われています。

紀元前2世紀のダニエル書の編集者は、リアルタイムでマカバイ戦争を体験したユダヤ人と見られており、何らかの理由で紀元前6世紀のダニエルが見た幻ということにしたと推察されています。


しかし旧約聖書の預言は、変えられぬ未来を預言するのではなく、暫定的な警告をすることが多かったそうです。
標準的な旧約聖書の預言の公式を要約すると、「罪Xを悔い改め、正義に立ち返れ、でなければ結果としてYが起こるだろう」ということになります。
カルマの法則と同じような意味だと思います。

新約聖書のヨハネの黙示録も、キリスト教会ですら既に預言が成就した説、まだ成就していない説に分かれています。

私は、神の預言は人間が考えるような時間の制限はない気がします。
人間が存在する限り、繰り返される箴言のようなもの。


リビアの歴史(近代史)

リビアは16世紀以降、オスマン帝国の支配下にあったが、1911年にイタリア王国の植民地となる。伊土戦争
第二次世界大戦のイタリアの敗戦後は、英仏の共同統治領となった。

1951年、国連決議により、リビアは3州の連合王国として独立。イドリース1世が王位に就いた。首都はトリポリとベンガジの複都制であり、外交や国防を担当する中央政府の下、3つの州政府に大幅な内政自治権が与えられた。

国王イドリース1世は親欧米路線を採り、石油採掘でリビアは莫大なオイルマネーを得るようになっていったが、利益は王家とその周辺が吸収して国民全体に行き渡らず、地域対立が激しくなり内政は不安定だった。
1956年にエジプトで第二次中東戦争が発生すると、リビアでも反欧米の汎アラブ主義が浸透し始め、親欧米の国王に対する民衆の不満は高まっていった。

1969年9月1日、ムアンマル・アル=カザフィ(カダフィ大佐、当時27歳)によるクーデターが勃発。国王イドリース1世は退位し、王政は廃止された。
同年11月にカダフィを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名はリビア・アラブ共和国と改められた。

1970年ごろのカダフィ大佐


その後はイスラム原理主義やカダフィが著した『緑の書』に基づき国家を建設していったが、好戦的な外交姿勢や、相次ぐ政府主導のテロにより、1992年に国連によって経済制裁を受け、1999年に経済制裁が解除されるまで経済の衰退が進んだ。(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)



カダフィ政権以後の混乱

2011年2月、カダフィ大佐の辞職を求める大規模な反政府デモが発生し、事実上の内戦に突入。(2011年リビア内戦)
NATOが軍事介入を行い、8月23日に首都トリポリが陥落、10月20日にカザフィ大佐は射殺され、政権は終焉しました。

カダフィ政権の崩壊以来、リビアは2つのライバル政府の間で分裂し、多数の異なる民兵間の紛争に巻き込まれてきました。
リビア内戦以降は各地から流入した武器などが大量に出回り、急速に悪化していきました。またカダフィ政権時と比べて殺人事件の発生率が約5倍になっているそうです。

ISのデルナ占拠

2014年10月、ISIL(現在のIS)がデルナの政府の建物、警備車両、地元のランドマークを占拠しました。
2015年6月にISILとイスラム主義グループの同盟の間で衝突が勃発し、翌月、ISILはデルナから郊外に撤退したものの、イスラム主義同盟と政府軍の間で衝突が続きました。

また2015年2月に過激派勢力は、人質のエジプトのコプト教徒21人を殺害し、エジプト軍が報復のためにデルナを空爆しました。
アメリカも2015年11月にデルナを空爆しています。
デルナキャンペーン(2014–2016)

は日本語の記事ではないですが、参考までに。
ベンガジの戦い(2014–2017)
シルテの戦い(2016)


デルナの戦い(2018–2019)

2018年5月7日、デルナのムジャヒディンのシュラ評議会(イスラム民兵連合)からデルナ市を奪還するためのリビア国軍による軍事作戦が行われました。
この戦闘は2019年2月12日まで行われ、民間人17人が死亡、負傷30人、約19,270人が避難しました。

一国二政府

2015年に国連が承認する国民合意政府(トリポリ政府)が発足しましたが、立法機関である代議院(トブルク政府)が承認せず、分裂状態は続きました。2021年に代議院と国民合意政府との合意により、国民統一政府が発足しました。

統一政府の元首は大統領評議会議長のムハンマド・アル=メンフィ氏。
首相は大統領評議会議長のアブドゥルハミード・ドベイバ氏。

しかし、リビア国民軍と呼ばれる強力な民兵を率い、エジプト、UAE、ロシアと同盟を結んでいるハリファ・ハフタルKhalifa Haftar将軍がリビア東部の事実上の権力を握っていると多くの人は感じているそうです。

カダフィ政権後のリビアが分裂してしまったことも、洪水の被害を大きくしたと言ってもいいようです。

リビアの混乱により、デルナの洪水はさらに致命的になりました-BBCニュース

リビアの混乱が人々を致命的な洪水に対して脆弱にした方法 |APニュース (apnews.com)

犠牲者が多かった理由

BBCの記事によれば、ストーム・ダニエルがリビアに向かっているとき、2つの政府は別々の予防措置を発表していたと書かれています。
地元当局から自宅にとどまるように命じられた、という市民の証言もあるそうです。


そして決壊したダムの1つは、2002年以来メンテナンスがされていなかったことが報告されています。
デルナは反カダフィ派の拠点であり、リビア内戦後も反政府勢力の支配が強かったため、無視されていた都市だったと政府関係者は語っています。
10年以上続く内乱でインフラ整備がされなかったため、被害がさらに拡大してしまったのです。

リビアの洪水:デルナへの被害がこれほど壊滅的だった理由-BBCニュース


Twitter(現ⅹ)でデルナの救助活動の動画を観ましたが、広場や道路に布をかぶせて並べられた遺体を覗き込み自分の家族を探す様子や、土の中から遺体が掘り出される様子は、世の終わりを象徴しているようで辛い気持ちになりました。

おそらくモロッコの状況も同じでしょう。マウイ島のラハイナの火事も尋常でないレベルでした。

誰も言わないのでアレですが、リビアも2018年からスマートシティ計画が進められてます。まずはトリポリからのようですが。

リビア:トリポリのスマートシティが進行中 |リビアオブザーバー (libyaobserver.ly)


マウイ、モロッコ、デルナにおける犠牲者のご冥福と、行方不明の方が早くご家族のもとに帰れるようにお祈りいたします。

最後までお読みくださりありがとうございました。

デルナの古い市場

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?