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トロッコ問題――久世正宗の場合

”君はレールの切り替えポイントにいる。
今走ってくる暴走列車は、5人の人間をはねようとしている。
君がレールを切り替えれば、軌道が変わり5人は助かるが、別の1人が犠牲になる。

君は、何を選択するだろうか”

たちの悪い人外が、この哲学的命題を発したときに、既に嫌な予感はしていた。
華奢な手のひらが、電車の玩具を持ち上げる。
モーター音と空転するタイヤ。

そもそもトロッコ問題は、問いであることに価値があり、正解なんて存在しない。
悩ませるためだけに生まれたものなのだ。

つまり僕の幼少期の玩具を、どこからか見つけ出して散らかしている同居人は、いたずらに人を悩ませるのを好んでいた。
……僕はそのペースに乗りたくない。
既に敷かれている、思惑のレールにもだ。

話題を変えよう。

「なつかしいな、それ。
線路を立体交差をさせたかったけれど、レールだけじゃ強度が足りなかったから、ティッシュボックスを橋桁にして――」
「それは先ほど思いついたからもういい」
「なんだ、サイファー。
3歳の僕の発見に、君はやっと追いついたのか」
「レールを手にして3秒で思い至った。正宗くんより僕の方が早い。
そして、そんな話はどうでもいい」

軌道は修正され、話題転換は失敗した。
サイファーが掴み上げた電車の車輪が、虚しく空転する。

「トロッコ問題に戻ろう。
僕としては人が助かることが良いという前提から、疑わしいのだけれど」
人間をネズミほどにしか見ていない、実験狂らしい言葉だ。
「君は人間らしく、助けたいな、と言う方向を保って考えてくれたまえ」「嫌だ。
こんな無茶振りをされるくらいなら、僕だって煙に巻いた答えでお茶を濁したい」
「駄目だね。こういうのは仕掛けた者勝ちなのだ。
僕はこの問いを発する機会を出会った頃からずっと伺っていたし、迂闊にトロッコというワードも出さないようにしていた。
連想されて先を越して問われたら、困るからだ」

意味不明な努力が好きなのだろうか。
人間でもないくせに、人外は人間性にとんだふくれっ面で言う。

「僕は勝手に質問されて、価値観や、人間性を読み取られるのはごめんだ」「そこまでわかっていながら、他人にやらせる流れはおかしいだろう。
やめよう? この話」
「いずれ直面するのだ。
ならば、僕は問いかける方になりたい!」
「質問者は答えなくていいって思い込みは何なんだ」
「思い込みのふりで押し通そうとしていたが、君の余計な一言で台無しだ」

僕たちは寸刻睨み合う。
互いの譲れない愚かさが、腑に落ちるのを待つ時間。

サイファーが掴み上げた電車の車輪が、無意味に空転する。
そして、決まり切った運命のように、話題は戻ってくる。

「まずは切り替えレバー付きの線路」
言葉通り、床にレールが敷かれる。

「右の分岐には5人。左に1人。
現在の進路は、右に向けられている」

線路の溝に、ビー玉が設置される。
未来の犠牲者と同じ数。
これも、どこに仕舞ったかとうに忘れたあそび道具だった。
ガラスの触れあう澄んだ音は、過去と変わらない。
幼なじみと過ごした、優しい夏の記憶とともに。

弾いて遊んだ数だけ見えない傷を負ったビー玉は、今ひとたびの衝撃に耐えきれず、砕けるだろう。

右に5つ。左に1つ。

サイファーが掴み上げた電車の車輪が、威圧するように空転する。
「正宗くん。君はどうする」

僕はこの命題を、奇妙だと思う。
自分にポイントを切り替える権利がある?
そんなタイミングは、まずありえないだろう。

僕の役割など、偶然ニュースで出来事を知る。
傍観者の一人。

運命は確定した後で、一石を投ずることもなく、僕から離れた場所で世界は完結する。
そういうものだ。

だから、こんな問題を悩むのは――。
長い黒髪の少女の顔が、脳裏を掠めた。

高貴なる義務。
それを引き受けた、特別な人間なのだろう。

「……そう自分を卑下するな」
人外の声はあくまで甘い。

「これはゲームなんだよ。
ゲームの中では、誰だって世界を救う旅に出たりするものだろう」
「わかりきったエンディングなら、僕はプレイしない。
他の誰かが達成してくれるよ」

「後ろ向きなようで、なんて傲慢さだ」
人外はそんな独語を口にした。

「だから選択肢をあげようと言うんじゃないか。
1人でも5人でも、右でも左でも。
君が結末を決められる」

人数の問題だろうか。
1人の犠牲者。あの深い青のビー玉が、特別な誰かだとしても、それを殺せる?

5つの中の金色のビー玉。あれに殺意を向けたなら、力を失ったあれは、どうなってしまうのだろう。

何を選んだって後悔が残るのに、選択肢が慈悲のはずがない。
こんな偽りの自由を、人外はキャンディのように投げてくる。

地に跪いて、可能性を嗅ぎ回れ。
勿論、ドロップアウトしたときには、甘い罠でねぎらってあげよう。
あの金の双眸は、誘っている。

意図的かはわからないが、問いが発せられてから、いくらか時間が経った。サイファーが掴み上げた電車の車輪が、空転するほどに長く。

トロッコ問題には不思議な点があって、考える時間をかけると”解答者の答えは変化する”。

多数を救うことが正義だという瞬発的な思考から、そもそも、自分がこの出来事に介入しなければいけないのか、という長期の思考へ。

事態を静観して”5人を失うこと”は自分と無関係だが、ポイントを切り替えて”1人を殺すこと”は、責任を伴うのだ

「僕は何もしない」

やっと、僕は答えを出した。
「確かに、君はそうするだろう。しかし理由は、単純でない」
金無垢の人外は睫毛を伏せ、僕を語る。

「久世正宗くん。
君には学習性無力感がある。
行動しようとするたび、何度も打ち砕かれてきた。
無意味さを学習した記憶」

サイファーは更に続ける。
「久世正宗くん。
それどころか君にはジンクスがある。
君の行動は無意味どころか、君に関わることでより、悪い結果を引き起こす」
僕は頷く。
「だから、何もしないんだ」

「そうだろうか」

その言葉には力がありすぎて、僕の世界から束の間、電車の車輪が虚しく空転する音が消えた。

取りあえず、僕は問いかける。単なる時間稼ぎのように。

「犠牲者候補の中に、大悪党がいる?」
「どうだろう。君の親しい人がいるかどうかも、蓋を開けるまではわからない」
「両方を助けることは、絶対にできない?」
「そう」

隙間のない堅牢なルールだ――。
「わかった」
――だから良いとも言える。

死角でサイファーのの左手が動いて、電車の車輪がレールに触れ、空転をやめた。
ほぼ同時に僕は白金髪の一筋を、指先に掬う。関係を深めるために。
サイファーを僕のジンクスの中に、陥れるために。

電車がレールに乗り、走り出す。……僕は何もしない。
切り替えレバーに触れたら、関係が発生するからだ。

「壊れるよ」
耳たぶから1cmの距離で、人外は囁いた。
僕の視座とビー玉の間には、破壊に向けて走る電車がある。

「そうだねサイファー。
”君は”壊れる。だから君が決めた事故が発生する未来は、もはや未確定なんだ」
レールの連結が歪んだ。

これが本物の鉄道ならば、人の身にできることは、レバーを切り替えて、誰を助けるか選ぶ程度なのかも知れない。

けれどもそれを、玩具のように扱う何かがいるならば。
その神性が壊れたなら、何だって起きる。

――浮いた車輪が空回る。
1つと5つ。
ビー玉の間を、脱線した電車は通過した。

激しく重心をぶらしながらきりもみし、最後には車輪が上を向き、車輪が虚しく空転している。

「ああ。確かに君は、”何もしなかった”
ジンクスを使ってルールを設定した奴を壊しただけだ」
サイファーは述回する。

レールに電車を置いた直後、僕に触れられ、人外は身を引いた。
バランスを崩した躰から伝わった力が、レールを歪めたのだ。

「電車が事故を起こす前に、”両方を助けれらない”ことが否定されれば、前提が無意味になる」

僕が気をつけるべきことは、助けたいものに近寄らない。
大事なものほど遠ざかる、そのルールだけだ。

今、ほぼ零距離で、僕とサイファーは相対している。
そんなことができるほぼ唯一の相手は当然、味方などではなく敵だった。

「気をつけるんだ。君。
ルールは堅牢だが、人の身の君は脆い」

敵は、物騒な内容とは裏腹に、優しい口をきく。

「ジンクスを壊す方法を、君は自分から明示した。
ルールを設定した奴が消えればいい。

それは君についても、同じだね」

電池が切れたらしい。電車の車輪は止まった。

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