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08 セットデザイナーになる方法

またまた随分と時間が空いてしまった。。うーん。あまりに久しぶりなので昔話の続きを書こうかな。  
      蜷川さんに手紙を書いた後Theatre1010朝倉・松野両師の元で僕は日々舞台のあれこれを学び続けていた。当初劇場は様々な自主企画を立ち上げていた。「楡の木陰の欲望」(ロバート•アラン•アッカーマン)、「秘密の花園」、「動物園物語」。海外の演出家との共同作品も多数あり自主公演という事で僕も劇場メンバーとして立ち上げから仕込みまでガンガン参加できた。
そんな舞台漬けな日々を送っていた時、松野師の紹介で生まれて初めて舞台セットをデザインできる機会を頂いた。西川口に拠点を構える劇団キンダースペースの演出家原田一樹氏演出の作品(「アグニの神/南京のキリスト」)だった。劇場は劇団のアトリエで客席数50席あるか無いかの小さなスペースだった。僕はアトリエ全体の中に3つの異なる舞台を作り、それらを道で繋いで余白のスペースに客席を作った。細部まで作り込まれた古い中国の部屋が3つ設置された。狭い空間の利点は観客がまるで舞台空間の中、部屋の中に居るような臨場感が味わえる所だ。セットは大道具発注する予算は無く、僕が描いたデザイン画や道具図面を元にスタッフ,劇団員が総出で製作してくれた。歴代のアトリエ公演のセットよりかなり物量も多く複雑なデザインだった為、皆夜中まで作業をしてくれた。1人のデザイナーの頭の中でしか存在していなかったアイデアが他の人達の力を借りてどんどん実現化していく様に心打たれた。

「アグニの神/南京のキリスト


もう1つ心に残る演出家は千葉に拠点を置いて活動していた「三条会」関美能留氏との出会いだ。関さんは鈴木忠氏率いる利賀村で第2回利賀演出家コンクール最優秀演出家賞を受賞している非常に前衛的な作品を作る演出家だ。関さんとは何本も一緒に作品を作ったが、とりわけ思い出に残っているのは野外劇「三条会の秘密の花園」だ。千葉駅から10分ほど歩くと見えてくる千葉公園を入り、しばらく緑道を進むとエラい段数の階段が見えてくる。それを上がりきると高台にひっそりと置き去りにされた様な空き地が現れる。ここで芝居を打つ訳だが、当然の事ながら舞台はおろか客席も無い。いわばまるっと劇場を作るわけだ。木々に囲まれたこの空間にどんな劇場を作るべきか?野外劇の王道、テントを設置するか?僕は舞台と地面を切り離したいと思い、まず基本となる1階を組んでからその上の2階部分に舞台と客席を組み上げるプランにした。メインステージは超急勾配のスロープ舞台。表面に沢山のドアを貼り付け役者は全てこのドアから出入りする。
さて仕込み当日。劇団員に加え数名の若者達が助っ人にきてくれていた。が、超大雨。もはや台風。関さんの雨男っぷりは聞いていたがこれはヒドイ。テンションダダ下がりの我々の階下に仮設舞台の機材を山のようにつんだ大型トラック登場。これを大雨の中設営するの?しかもこの鬼のような段数の階段を手上げ!? 途方に暮れながらも根性ある皆の力を借りて着々と施工は遂行した。もともと舞台を2階から組んでいる上に超角度のスロープを載せているので舞台はビル4階程の高さになった。客席に座ると思惑通り視界から地面がクロップされ木々の上部と空しかみえない。しかも真っ黒な鏡面の床に空が映り込みまるで床面のドアが空中に浮いている様に見えるインパクトのある空間が現れた。

「三条会の秘密の花園」

いよいよ舞台稽古が始まった。野外なのでもちろん昼間の稽古は照明無し。夏の太陽が照りつける中で稽古スタート。 が、、 熱い。灼熱の日差しを受けて床面がとんでもなく熱い。。!三条会の役者は基本皆裸足だがとてもじゃないけど立てないので急遽靴を履いての稽古に変更。うっかり床に手をつこうものならマジで火傷するので日中の稽古は座わり芝居NG。 関さんが「ボートを出したい」という事でホンモノのボートを中古で購入。でかい。それを舞台後方から超急勾配の舞台に載せる。下を見るとクラッとする程の高さだけど大丈夫。。?これ。 ボートの稽古をしていると急に空が真っ黒になり突然のゲリラ豪雨。「わーい水だ水だ」とはしゃいでいたら、なんと役者が立て続けに滑り台のごとく落ちはじめた。床面が雨で濡れるとツルッツルになるのだ。。子鹿のように踏ん張っては滑り落ちてくる役者を見て演出家と2人腹抱えて笑ってしまったけど、あれ役者陣は内心腹立ってたかもなぁ。笑
そんな事を日々続けながら、僕は2年弱勤めたTheatre1010を退職し、フリーのデザイナーとして活動を始めた。何としてもこの道で生きていかねばならない。家族4人を路頭に迷わす訳にはいかない。僕は来る仕事を全て受け入れた。殆どの仕事が小劇場の仕事で自分でも道具製作や色塗り作業に入るような予算規模だった。がむしゃらに働きポートフォリオを見せては営業し、徐々に仕事が増えていった。月に2.3本をコンスタントに受けれる様になっていた。もちろん助手を雇うお金など無く全て一人でやるしかなかった。一本でも多くデザインして少しでも規模の大きい仕事をしたい。大道具会社にセット製作を発注できる、マイナーリーグではなくメジャーリーグの現場。(ここでいうマイナー、メジャーとはあくまで作品規模の事で作品内容のレベルの差では無い) その頃僕は仕事が増えて行けば螺旋階段を登る様にマイナーからメジャーへ上がれるものだと思っていた。しかし実際にはそうゆう構造にはなっていなかった。小劇場は小劇場の中で、大きなプロダクションはその渦の中でのみ動いており2つの世界は繋がってはいなかったのだ。
何とかメジャーに食い込むチャンスは無いだろうか?予算のあるカンパニーでもっと表現に色々な可能性を試してみたい、そんな事を悶々と思っていた。 ある日、theatre1010時代の上司から野村萬斎さん演出の「マクベス」の作り物の人手を探していて手伝えるか?との連絡を受けた。さっそく世田谷パブリックシアターに向かった。そこで僕の3人目の師匠となるデザイナー、松井るみ氏との出会いがスタートする事になった。

       つづく



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