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たかが、『ね』(共感についてのモヤモヤ)


この2つのnoteで、『共感』にモヤモヤした時の理由が理解できた。


『自分の気持ち』『自分が感じたこと』に正直だと思う。

『共感』や『協調』が難しい時がある。

一方日本語の「協調」は、どちらかというと「同調」を言っているように感じる。

「協調性がない」を言い換えると、「他の人と同じ考えや同じ行動をできない」といった、同意するができない事への指摘のようでもある。

綿引さんのnoteより

そう。
『協調には同調が伴っている』ように感じる。

今年の3月、こんなnoteを書いたことを思い出した。


『共感』より『思いやり』の方がしっくりくる。

人と違っていい。
ただ人と関わる以上、思いやりを持って接したい。

JALの航空機事故でも、
『全員助かってよかった』という発言があったけれど、
海保の隊員さんは亡くなっている。

事故発生原因はともかくも、
海保の隊員さんのことを思えば、
『全員助かってよかった』とはならない。

『思いやり』
まごころ、相手の立場に立って考えるー広辞苑

自分も大事。
相手も大事。

その視点を欠かなければいいのだ。

『全員助かってよかった』はJAL機側だけの視点。


複数の視点を持ち、他人の視点で相手の心情や立場を慮ること。
思いやりを持つこと。

そこに『共感』や『同調』が必ずなくてもいいと思う。

日常で私がどうしたらいいのか迷うことは例えば好みについて。

『美味しいね』と言われたものを、自分はさほど好きじゃない場合もしくは美味しくなかった場合。

言うのが正解か、言わないのがいいのか。

相手の嬉しそうな美味しい気持ちに水を差したくはない。

でも自分が美味しいと思わないものに美味しいって言いたくない。

しかもそれで、『好きだよね?』って買ってこられたらもっと困る。

外国の人はこんなことで悩まないらしい。
悩むのは日本人だからなのかな。

だから、私は『ね』を付けないことがある。

たかが、『ね』。

でも、『美味しい!』は私が思ったこと。

『美味しいね。』となると、
『美味しい(あなたもそう思うよ)ね。』とそこはかとなく()内の同意を求めるニュアンスが帯びる気もする。

多分言った方はそこまで思っていない。
私も無意識に『ね』を付けていることはあるはず。

どうでもいいことだけれど、気になった2つのnoteから思ったこと。

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