分離についての考察③ - やすらぎの視点(非二元)- 何も欠けていない(完全)


このことは、
言葉では到底伝えられないこと。

けれどそれをなんとかやってみる。


自分がいる
他人がいる
それが現実だという、強くて重い圧。
関係性に囚われている不自由さ。
わからないことへの恐れ。


最後の最後まで
その感覚があった、
そう言っていい。
見掛けの上では。


けれどある日
どこにも誰もいなくなると、
なんというか
もう他人を相手とは見なくなる。
つまりそこにただ肉体があり、動きがある感じだ。
それはどのようになってもいいのだ。
だからこちらもそちらもなくなって、
圧がかかる感覚は消えて、リラックスしている。


不思議だ。
どうやったって消えなかったその圧は、
行為者が消えたら
消えていた。
そういうことだ。
そして圧はもう無いようだ、と気づきが湧く。


解放感。
肉体的にも精神的にも軽さが感じられ、
すべてが自由で、
調和的だ。
それこそが、圧があったときに切望していた
やすらぎなんだ。

でもそれを探している自分がいる限り、
そのやすらぎは現れることは無い。
その探求が
やすらぎを隠す。
つまり探求とは、
「そのやすらぎが無い!探せ!」と大声で叫んでるようなものだ。
逆説的だが、それは自分はまだ死なないのだ!という決意表明でもある。


何も分かれていないとき、
すでに全てがあるように在る。
それはやすらぎそのものだ。
つまり
自分の死。
それが切望されたやすらぎのことだ。
自分が死んだとき
そのやすらぎが明らかになる。
そのやすらぎが明らかなとき
自分はいないのだ。

自分がそのやすらぎを知ることは決して出来やしないのだ。不可能だ。


矛盾だ。
ここに書いたことが、
起きていて、
まったく起きてないのだから。

坦々と
現れて消えてしまう。

ただ現れている
そのすべての有り様が
何も繋がっていない。

どこにも向かっていない。

二度と同じ現れは無くて
唯一だ。

物語りには
まるで意味がない。

ひとつひとつがユニークで
すべてとして現れている。

それが
無。


矛盾だ!
矛盾そのものだ。

すべてが消えてしまう。

そう、
そして何ひとつ変わらない。

不変なんだ。

それが永遠なんだ。

誰もいない。

何も起きていないんだ。

分離(自分)には届かない、そのことが。
こんなにもシンプルで、
明らかな、
矛盾そのもの。
それが切望したやすらぎなんだよ。

そして
分離(自分)こそすでにそれそのもので、
やすらぎが無いと感じて、
やすらぎを探しているんだ、そのやすらぎのなかで。
そのすべての有り様が
哀れでもあり、愛おしくもある。
そのときには
もう言葉が出る余地が無いんだ。


深い深い
明らかなことだけが、
どこまでも深く
闇に光が差すように、
まるで境界線が在るかのように、
現れながら消えている。
闇も、
光も、
ただ現れている。
なんでもないものがそのように現れている。


それが、明らかなこと。


それはやすらぎ (完全。何も欠けていない)


不変で (日常。すべてであり無である)


永遠で (時は無く、定まることの無い)


自由で (軽さ。解放。何も決まっていない)


無条件で (愛。あるがまま)


哀れで、愛おしい (悲しみを帯びた慈しみ)


これのこと。


これのことだよ。




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