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05.小説やら長文をまとめるのが苦手なんだと思ってたけどそう思い至るまでにどんだけ書いたのか自問した件

小説を、物語を読むことは、小学校高学年あたりからずっと好きだった。

物語の中に浸って、時間を消費することが好きだった。

苦痛すら感じる日々が一時期あっても、小説を読んでいる間だけは忘れられた。

あれよあれよと自分も小説を書きたいと思い始める前に、詩は書き始めていた。

そして文章の連なりを書きたくなり、小説を書きたいと思った。

アイディアは、ネタは出る。

出るけれど、とにかくまとめられない。

頭の中につぎはぎで浮かんだエピソードはどれも素敵だと思うのに、いざ文章という形で書き始めると、絶望的にコレジャナイしかない。

どこまで書いてもコレジャナイばかりで、自分が書いた「小説のような何か」を一向に好きになれなかった。

そしてたいした対策を打たないままに、自分にとって書きやすい詩(詞)を一層書くようになった。

大多数がJ-POPの歌詞カードを長年聴きながら読んできた影響か、

Aメロ→Bメロ→サビ→2番Aメロ→Bメロ→サビ→転換→挟んでラスサビ、みたいな構成の詩が自然と多くなった。

公言していなくとも、既存のアーティストのメロディーに似ている何かに乗せて浮かんだ言葉も多くある。

絵や音楽をイメージして浮かんだ言葉もある。

言葉数や構成はフィーリング、落としどころを見つけるまで書けたらおっけい。

ざっくりと更新日を決めて何度か加筆修正しup。

なぜこの流れが僕にとって、小説を書くという行為で再現できていないのか。

今回冷静に、少々辛口に自己分析してみた。

1.詩(詞)のボリュームが、自分にとって一つの作品への興味関心を更新ボタンを押すまで維持できるラインだから?

僕は三日坊主で、めちゃくちゃの果てしない飽き性だ。

熱しやすく冷めやすい、はまさにそうで、

詩の欠片を思い浮かんでも、そこから数十分数時間のうちにあらかたまとめられないと、中途半端な状態で何年も放置する謎の点々を量産してしまう。

長編作品を書き上げる熱量を維持できていなかった、というのは恥ずかしながら否定できない。

2.そもそもの執筆計画を全然立てていないから?

さらに恥ずかしながら、プロットを過去にうまくまとめられた試しがなかった。

一度打っている最中にあまりにも先の展開を思い浮かべすぎて、キャラごめん状態になり、

書くこと自体を止めてしまった作品もあった。いや落ち着いたら書き足そうよって状態ではあるけど話を戻そう。

プロットを作ってから書く人、書かない人は各々いるかとは思う。

思うけれど、プロットを作らずいて小説を書き上げられないのなら、いったん作ってみたら?ってなってよかったのでは自分。となる。

3.大前提として、小説が書けませんって諦め悟るほど試行回数を重ねてきただろうか?

えっと、自分で考えが思い至って、打っていて、ぐうの音も出ない。

自分で書く小説がナンカチガウと思って、詩(詞)をたくさん書いてきました。

たくさん書くことによって型がある程度自分の中でできてきて、詩(詞)を書けるんだよね。

それは何個も何百個も書いてきたからだよね。

エッセイという括りの文章かもたまに怪しいエッセイ的な何かも、

ボリュームはその都度違ったものの365個以上は過去に書いてきた、けれど、

僕は超絶短い物語っぽい何かを含めて、小説と呼べるものをいくつ書いてきただろう?

100もいったかい?と聞かれると、100も形にはしていないと思う。正直数え切れてないのだが。

ほとんどどこかの一シーンを切り取ったような短編は書いてきたけれど、それでも100はいってない気がする。

世に公開している連載小説と呼べるようなものは、昔々のとある二次創作を含めても10もいっていないのではないか。

自分の中のナンカチガウに地道に向き合って、他の誰かが書く小説を読んで、自分が書く小説に戻って、

違いや共通点を見比べて、書き方のヒントを見つけたりしながら書き足して。

そのサイクルを果たして僕は地道に繰り返してきただろうか。

いつの間にか読みたい気持ちも忙しさについてこなくなってはきたけれどそれはいったん置いといて、

僕は自分が書きたいと思った気持ちにどれだけ向き合ってこれただろうか。

もしどこかしらで向き合っていられたら、今とは公開している作品が違っていたのではないだろうか。

うだうだと抱え続けたアイディアに、もう少し命を吹き込んであげることもできたのではないだろうか。

すべてはifの話ではある。

たとえ僕の書きたい気持ちに今より向き合っていたところで、この世にいくつ小説を量産できていたかは未知数だ。

それでも、今はこう思える。

どれだけ文章を書くことが苦手でも、書き続けてきた人を見かけてきたからこそ思う。

書くことに対しての試行回数を重ねていたら、今よりも多く小説を書けていた「可能性は上がっていた」だろう。

何もしなければ可能性は平行線のままで、挑戦すればするほど可能性は上がるだけなのだ。

それだけもしかすると諦めるスピードも早まったかもしれないけれど、物語が形になる可能性もきっと上がっていたはずだ。

いつ終わるかも分からないスタートを切れたところで、切ろうとしたところで、

0%の可能性は0.1%にでも上がっていたはずなのだ。

そのことに最近、やっと、やっっっと思い至れた。

若干その過程で、誰かを励ましながら自分自身の不甲斐なさにキレ散らかしそうになるという謎の境地にも達してしまったのだけれど、

もうこれすらも気付かせてくれてありがとうって気持ちでいっぱいなのだけれど。

それはいつかまたどこかで書く機会があれば、掘り下げてみたいと思う。


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