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高専電気科から情報系への大学編入を目指し、浪人に至るまでの経緯を振り返る

こんにちは、Black Rockです。

今回は僕が浪人に至るまでの経緯を振り返るとともに、今の自分が過去の選択に対してどう考えているのかをお話していきたいと思います。


まず、僕が編入試験の対策を取り組み始めたのは4年後期あたりから。

この時期にはTOEICの勉強くらいしかしていませんでした。といっても、暇な時間に単語帳を開いて、暗記をする程度。

他の勉強もしないとなと感じていましたが、当時の僕には先延ばし癖がありました。典型的な意識低い系高専生だったと思います。


そこから、定期テストなどもあり、結局、本格的に試験対策に取り組み始めたのは、春休みが始まったあたりから。そのあたりから数学に取り組み始めました。といってもなにか戦略があるわけでもなく、とりあえず鉄板の数学問題集を、最初のページから解くといった感じの勉強でした。

春休みが始まった時点では、僕は、志望校すらあやふやでした。なので、その時点では過去問なども見ていなかった。志望校を選ぶのを先延ばしにしていたのだと思います。大学で学びたいこともなく、ただ、電気の分野を学ぶことに価値は見出してませんでした。この迷いがあり、決断を先延ばしにしていたのだと思います。

春休みが終わる辺りで、ようやく、現実を見始めました。これは焦りによるものだったと思います。大学で学びたいことを考え直しました。ここで情報系分野への転科を目指すことを決断しました。今振り返って、この転科をするという決断には後悔は一切ありませんが、よくこの遅いタイミングで、転科の決断をしたなと思います。

この遅いタイミングで転科の決断をしたのだから、レベルを下げた大学を選べばよかったものを、当時の僕は普通にレベルの高い大学を選びました。しかも、その時点で志望していたのは1校のみ。この単願という選択をしたのはどういう心理だったのかというと、確か、受験科目でTOEICと数学と情報系の科目のみの大学が少なく、調べるのも時間がかかるので、1校に一点集中してやったほうがいいだろうという感じだったと思います。レベルの高い大学を選んだのは、プライドが無駄に高かったからだと思います。

受験科目の条件を満たす大学を調べるのには多少時間がかかりますが、すべて調べて、レベルを下げた大学を多めに受けるという選択をするべきだったと思います。といってもこれは結果論でしかありません。当時の僕の知識や判断材料や、思考回路ではこの結論に至ることができなかったのは事実です。


志望校を決めてからは、いろいろ工夫しながら対策をしました。まず、過去問を見ても情報系の科目に関しては何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたし、それが何という教科であるかすらもわからない状態でした。なので、高専の情報科の先生に聞きに行き、どのような分野の問題なのかを尋ね、さらに、受験校の1・2学年のシラバスを見て、対応している科目を探し、その授業で使われている教科書を用意し、対策すると言ったことをしました。これで、教科すらわからないという状態からは抜け出せました。

といってもその大学は、専門分野の出題範囲が他の多くの大学と比べてかなり広い。専門外からの受験はかなりハードルが高い大学だと思います。今だからこのようなことが言えますが、当時の僕は他の大学の過去問にはほとんど目を通していなかったので、出題範囲が広いかどうかなんて言う判断はできていませんでした。とりあえず、出題範囲の勉強をするのに必死でした。


5月辺りから志望校を一つにしたことのデメリットが出始めました。それはプレッシャーとストレスでした。毎日たくさん勉強しなければ受からないというプレッシャーがありました。また長時間集中して勉強に取り組むためには睡眠の質が重要で、睡眠に対してもプレッシャーを感じるようになりました。このあたりから下宿している部屋での生活騒音が気になり始め、不眠症になりました。

この不眠症によるストレスと、試験へのプレッシャーで、脳のパフォーマンスは落ちていました。それでも、その時できる最大の努力をしていたように感じます。非常に精神的にも肉体的にもつらい日々が続きました。このときは本当にメンタルが病んでいたと思います。

それまでの僕は不眠症という言葉だけ知っていましたが、実際になってみると、想像していたよりも遥かにストレスフルでしんどいものだと実感しました。体が毎日のように疲労感を感じ、緊張状態にあるような感じでした。僕の人生でこれよりメンタルに来たものはないと思います。

自分の能力に対して、目指す目標や理想が高すぎると、いつか限界が来て挫折するということがわかっていれば、単願という選択肢はしません。当時の僕は自分のメンタルの扱い方を知りませんでした。現実逃避ばかりして挑戦してこなかったからです。そういう意味でいうと、この経験はかなり強烈でしたが、良い薬でもありました。


試験日直前ころには、数学は1周程度、情報専門科目に関しては若干勉強しきれていないところがありました。TOEICは7割程度とれるくらいの実力でした。情報系科目が忙しく、数学は応用力を上げるフェーズまで入ることができていませんでした。

試験前夜も不眠症でほとんど眠れませんでした。

そんな感じで試験1日目を迎えました。倍率は5倍程度でした。試験内容は数学は傾向としては例年通りでした。ただ、情報専門科目は過去問で見たことがないような問題が多く、傾向としては例年とは変わっていました。

試験の結果は、数学は5~6割程度、情報系科目も5~6割程度だったように感じます。数学では対策における演習量が足りておらず、時間不足ですべてを解くことができなかったのが敗因です。情報専門科目については、初見問題が多かったので厳しかったですが、数ヶ月前は何もわからなかった人間が5~6割程度取れたのであれば健闘はしたかなと思います。

寝不足と、試験のできの悪さで精神的にも身体的にもかなり来ていました。疲労のせいかその日はよく眠ることができました。

試験2日目は、英語(TOEIC IP)の試験がありました。出題傾向がわかっているTOEICの試験なので、対策の時点と同じレベルの結果は出せていました。750点でした。

数学と情報専門科目の出来は悪かったものの、英語はおそらく平均よりは上の値を取ることができていたと思います。なので、少しは挽回できただろうということで、少しの希望を持って結果を待ちました。

結果は不合格でした。

不合格が決まってから、最後の1校を受けることを決めました。この時点で既に浪人しようという気でいました。割と浪人に対してはポジティブな考え方を持っていました。

不合格が決まってから、最後の受験校の試験までの間は、結構忙しかったように感じます。というのも、オフライン授業の復活や卒業研究の活動が本格的に始まったためです。浪人する覚悟はできていましたが、できる限りのことはやりました。ここで堕落するのは、試験のための経済的支援をしてくれる親にも申し訳ないと思ったし、応援してくれる人にも申し訳ないと思ったからです。

そして、最後の受験校を受けました。こちらも倍率は5倍ほどありました。

最後の試験でも、数学・情報専門科目ともに5~6割程度だったと思います。十分に対策できていなかたのが原因でした。出願倍率が例年に比べて高かったため、試験の難易度も上がっていたように感じます。

その試験の帰り道の駅で、TOEICの公式テストに申し込んだのを覚えています。その時から次の年の編入試験のために動き始めていました。浪人の覚悟を決めてから試験に挑んでいたので、切り替えがとにかく早かったなと思います。

後日、学校の授業帰りにスマホを開いて、不合格であることを確認しました。この瞬間に、僕の浪人が決定しました。このときの心情としては、絶望とかは特に無く、むしろ清々しさややる気・闘志を感じていました。


浪人を決めてから僕は、人生に覚悟を持って生きるようになりました。長期の視点を持ち、生産性高く生きるというような覚悟です。


以上が、僕が浪人に至るまでの経緯です。参考になれば幸いです。

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