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『大切な仲間と、大切なラグビーをずっと。』 FL 田中 真一

父親の仕事の関係で、小さい頃から引っ越しを繰り返したが、環境が変わってもずっとラグビーを続けてきた。高校〜大学へとステージが移っても、それぞれの場所で大切な仲間ができた。そして環境が変わるごとに、自分自身の成長を感じてきた。一昨年ブラックラムズに移籍してきてからすぐの怪我で、それ以降試合出場はできていないが、新シーズンではリハビリを終えてまたステップアップした姿をファンの前に見せることだろう。田中真一選手のこれまでの歩みを辿ってみよう。

おしるこ大会に釣られて行ったのが、ラグビーとの出会い

父親がいわゆる転勤族で、親元にいる間引っ越しを繰り返した。生まれは東京。幼稚園に入る前まで東京に暮らし、幼稚園から小3ぐらいまでは兵庫。それから東京に戻り、その後都内でも3回引越した。
 
兵庫に住んでいた時、ラグビーをやっている幼稚園の友達から、『週末におしるこ大会があるからいっしょに行こう』と、その子の通っていた西宮高等ラグビースクールに誘われて、ついて行ったのがラグビーを始めたきっかけとなった。
 
「うちの両親はラグビーに一切縁が無かったので、それまでラグビーがどんなスポーツかというのもわかっていませんでした。スクールで友達もできたし、練習もみんなで遊ぶのも楽しいので、兵庫にいる間スクールに通い続けていました」
 
その後小3で東京の世田谷に引っ越して、1年間だけ世田谷区ラグビースクールに通う。小4で今度は日野に引っ越して、中学卒業まで西東京ラグビースクールに通った。ラグビーは、途切れることなくずっと続けていた。
 
「ラグビーは、最初かけっこ感覚でしたね。ボール持って走って、追いかけっこするみたいな感覚が楽しかったんだと思います。あとスクールの友達に恵まれて、その子たちと一緒にやるのが楽しいというか、その子たちと一緒に練習したり、合宿行ってみんなでお泊りしたりするのが楽しくて、そういうのが重なってずっとラグビーが好きでいました。
 
体が周りの子と比べて大きかったので、ボールを持って走ればトライできたりするのも楽しかったですね」
 
中学時代はそのまま日野に住んでいたが、学校にラグビー部が無かったので部活ではバスケをやって、週末だけ引き続き西東京ラグビースクールでラグビーを続けた。
 
「西東京ラグビースクールは、僕の学年では選手が3、4人しかいなくて、中学1、2、3年全部合わせても1チーム組めなかったので、世田谷区ラグビースクールのBチームと合同で試合したりしてました(笑)」

國學院久我山高校ラグビー部入部

高校は、スポーツ推薦で國學院久我山高校に入学。その頃実家が日野から三鷹にまた引っ越す予定があり、三鷹から学校が近いことも含めて決めた。
 
「ラグビーをずっとやってきたんですけど、ちっちゃい頃からトップリーグとか大学とか高校のラグビーって全く見てないし知らなくて、自分でラグビーをやるだけだったんですね。だから高校を決めるってなった時も、どうやって決めようか?みたいな感じでした。
 
でもラグビーの強い高校に行って続けたかったので、強くて家が近いところを選んだっていう感じですね」
 
久我山高校ラグビー部には、部員が100人近くいた。

「入った時は人数が多いのでびっくりしましたし、中学卒業したばっかりの1年生と3年生の先輩だと体の大きさも全然違うので、やっていけるのかという気持ちになりました」
 
スクールで習ったのは、ラグビーの基礎の部分だけだった。ただ中学3年生の時に、東京都のスクール選抜に選出され、そこでだいぶラグビーの世界が広がったと、田中は言う。
 
「高校でも最初の頃は、意地でも試合に出て活躍したいみたいな熱い気持ちは無かったです。それまでは、楽しくラグビーをやるっていうのがスクールの方針でしたし、スタメン争いにガチガチ燃えるとかは最初の頃は無かったです。でもやっぱり高校3年間の間に芽生えてきました。
 
試合に出られるようになったのは、2年生の後半からです。やっぱり2年生になると何人かAチームに入って試合に出る人が出てきて、そこで初めて俺も上で出たいなみたいな思いが強くなってきました。その頃U17関東代表に選ばれて、地区の大会でのパフォーマンスも良かったので、U17日本代表にも選ばれて、そこから久我山でも試合に出られるようになりました」
 
2年生ではロック、3年生ではNo.8をやった。花園は、2年生の時がベスト16(※その時の3年生にはSH 髙橋 敏也がいた)、3年生の時はベスト4だった。
 
「3年生の時は、キャプテンをやってました。全然そんな柄じゃ無かったんですけど、僕の他にあんまり候補がいなかったというか、それらしい人がいなくてやったんですけど、部員も100人ぐらいいましたし、やっぱり監督との仲介役になるので、板挟みになってちょっと大変でした」

明治大学ラグビー部入部

「一応久我山でキャプテンやってましたし、3年生の時も高校日本代表に選んでもらって海外遠征に行ったりしていたので、何校かの大学から声を掛けてもらえました。
 
明治は、家が近いってのもまた出てきちゃうんですけど(笑)。でもやっぱりジャージがかっこいいし、伝統校でもあるし、大学としてもやっぱりいい大学ですので、なんかこう、両親に多少は安心させられるかみたいなところもありました。敏也さんが青学に行っていたので猛アピールをもらっていて、最後は青学と明治で迷いましたが、最終的に明治に決めました」

明治でのポジションはFLか No.8で、6番が多かった。チーム状況によっては、ロックをやることもあった。
 
田中の代(4年生時)では、大学選手権3回戦敗退。ちなみに1個上の松橋周平がいた代はベスト4、一個下の堀米航平がいた代は準優勝。

「僕らの代だけ年を越せなかったのでいろいろ言われました。ダイゴ(笹川大五)・ヒナタ(武井日向)・トモヤ(山村知也)は、僕が4年生の時の1年生です」
 
明治でのラグビー以外に参考にしたものは特に無かった。その頃のトップリーグも世界のラグビーも見ていないし、久我山を卒業してからは高校ラグビーを追うことも無かった。

「僕の人生は、どのカテゴリーでも一緒にやる仲間に恵まれたから辞めずに来れたってすごく思いますね。各年代で仲良しのいい仲間がいて、きつい練習もやってこれたみたいな感じですね」

「大学時代の思い出としては、3年生の時に出た早明戦です。僕はその年しか出られなかったのですが、勝つことができました。その時はやっぱすごかったですね。僕のラグビー人生の中でも、多分一番の盛り上がりというか、一番凄い試合でした」

キヤノンイーグルス入団

田中には卒業後もラグビーを続けるという選択肢以外は無かったので、3年生の時に声をかけてもらった社会人数チームの中から、自分に合うであろうと思ったキヤノンイーグルスに社員選手として入団。
 
「1年目のシーズンで1stキャップを取れました。でも、やっぱりカテゴリーが変わるごとに壁は感じました。中学から高校に上がった時も、高校から大学に上がった時も、大学から社会人になった時も、やっぱりまず身体の大きさの壁は感じました。どのカテゴリーでもスキルも違うし、レベルは違うなって毎回思いました」
 
ちなみにキヤノンは副業OKだったので、選手活動や社業と並行しながら、今も続けているアパレルの会社も始めた。

「洋服には、前から興味を持っていました。でも洋服関係で働いたことも無かったし、そういう勉強もしたことは無かったです。今の奥さんと付き合ってた頃だったんですけど、彼女が元々アパレルで働いていたので、そこの知識もちょっと借りながら二人で一緒に始めました。最初はほんとちっちゃく趣味の延長でやっていました」

5年目でプロ選手になった。
 
「社業をしながら5年間やっていたんですけど、自分の将来を考えた時に、ラグビーを引退してからもキヤノンで社業を続けるのか疑問に思っていたんですね」
 
「プロになった時点で、移籍も視野にありました。もちろん一つのチームでずっと続けられるのはすごいと思うんですけど、プロじゃないと移籍はできないじゃないですか。移籍は、プロの一つの醍醐味なのかなと思っていました」
 
その頃常時スタメンでは無かったが、出場機会はそれなりに得ていた。しかしもっと出場機会を求めていたし、高校から大学に上がった時や、選抜のメンバーに選ばれて活動している期間など、環境が変わった時に大きな成長を感じていたので、またそろそろ環境を変えたいという気持ちが芽生えていた。
 
「キヤノンで6年くらいやってきましたが、ここでまた移籍したらまたすごく成長できるんじゃないかなっていう思いもあって、その時にリコーから声をかけてもらったので移籍しました」

リコーブラックラムズ東京入団

「キヤノン時代、リコーはトップリーグの中で大体同じぐらいの順位にいましたし、対戦する時は「複写機ダービー」と言われて結構意識する相手でした。入社当初は結構負けていたんですけど、僕がキヤノンの最後の年では試合にも出場して勝ちました」

移籍を決めたのは、松橋周平がいたことも大きかった。松橋は、明治大学時代に田中の一つ上の代で、寮の同じ部屋の部屋長だった。

「大学時代にかなり面倒を見てもらって、卒業する時も正式ではないですけど松さんづてにリコーから声をかけてもらったりしていました。松さんとまた一緒にラグビーをやりたいなというのがあったし、敏也さん(髙橋 敏也)もいましたので」
 
リコーから話があるとすぐに松橋に連絡して会った。どんなチームかとか、どんなヘッドコーチかとか、先輩後輩の関係に戻って話を聞かせてもらった。

順調にスタートした矢先の大怪我

「入団したのは、2022年の7月です。プレシーズン全部試合に出て、シーズン開幕戦もスタートで出ることができたのですが、3週目に組まれていた練習試合前日のキャプテンズランで前十字靭帯を切ってしまいました。まさかの怪我だったので、さすがに凹みました。
 
ディフェンスで相手のステップに合わせた時に、膝が内側に入ってしまって、ゴリゴリっていって切れました。プレシーズン全試合ほぼフルで出ていて、疲れが溜まっていたのかもしれません。前十字靭帯を切るのは2回目なんですけど、怪我する前は特に痛みも無かったし、前兆は無かったです。言われてみれば、疲れていたかなぐらいです」
 
10年前、大学1年生の時に左の前十字靭帯を切っていたので、これは多分ダメだなとすぐ分かった。大学で切った時には、次に切れたら選手を辞めようと思っていた。

「やっぱり移籍してすぐにスタメンで出られるということは、それなりに実力を認めてもらっていると思ったし、結婚もしてプロになってしまったこともあったので、まだ辞められないなと思いました。でも、なかなか凹むタイミングではありましたね」

開幕戦まで順調に来て評価も得られていたので、メンタルとしてどん底には落ちなかったかもしれない。ちゃんと実力を出せば認めてもらえて、試合にも出られることは分かった。これが1試合も出ないうちに怪我していたら、もっと大変だったかもしれないと、田中は振り返る。
 
「復帰まで1年ちょっとかかっていますが、メンタル的には、チームが代わって評価する人が変わっても、評価してもらって開幕戦スタートで出られたっていうのがほんと支えになってます。プラス面としては、外からラグビーをしっかり見ることができたので、無駄ではなかったかなと思っています」
 
リハビリ開始前には筋肉がゼロになって、足は女子高生ぐらいに細くなってしまったと言う。
 
「手術してからだいたい2週間ちょっとで歩けるようになって退院しました。自分の靭帯ですけど移植になるので、それがやっぱり馴染むまではまだ再断裂の危険があるし、ボルトで骨に留めているので、その骨とボルトがしっかり定着するまで、1ヶ月ちょっとはほぼ安静に近い状態でした。そこからちょっとずつ筋力を戻していって、走れるようになったのが確か3ヶ月目ぐらいでした」

「そこから走り始めて、まずはまっすぐ荷重をかけても大丈夫なようにして、そこから段階的にどんどん筋トレして、併せてスクワットもやって、筋力つけて足を太くして、走るボリュームも増やして、ステップの練習とかも増やしていってっていう感じですかね」

このオフシーズン始めに復帰の目処はたったが、回復の調子が思わしく無かったので、クリーニングという形でもう一回手術して、今はまた調整中である。
 
「今回の手術からは、基本的には2ヶ月ちょっとで復帰できると思います。ただボリュームをしっかり戻して、前回みたいにまた痛くて戻ってきちゃうみたいな事をなくすために、ちょっと長めにリハビリをやるスケジュールをトレーナーと組んでいます。シーズン開幕には全然間に合う予定です」

昨シーズンのチームの戦いを振り返って

「一昨年優勝したクボタ(クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)とか、今年優勝した東芝(東芝ブレイブルーパス東京)相手にもいい試合がてきてたりしたんですが、波があるのが良くないなというのはすごく感じていました。トップ4が相手でもそれだけの試合ができるので、やっぱりそのパフォーマンスを全試合出せるようにしないといけないという事が、一番の課題なんじゃないかなと思います。もちろん細かいことで言えば、いっぱいあると思うんですけど、まずはそこかなと思います」
 
「それと、やっぱり選手層はもうちょっと厚くならなきゃいけない。下が出ても変わらない強さを出せるだけの選手層が必要だという事を感じました。あとは反則を減らすことですかね」

新シーズンへの抱負

 「自分は中堅くらいではありますけど、もう結構ベテラン寄りになってきたので、今までよりさらに周りにも気を配れるような選手になりたいということは思っています。今までは割と下だったり中堅ぐらいだったので、上が引っ張ってくれて、のびのびとできてきました。今練習していて周りを見ると、上の人があんまりいなくなってきてるんですよね。
 
後輩も増えてきたので周りにも気を配れるようになりたいし、やっぱりラグビーにおいては、全てのことでレベルアップしたいと思います」
 
バックロー以外にロックもできるので、そこも強みにしていきたいと思っている。その上で、スタッツに載らないようなプレーで、チームを支えていきたいと考えている。

「目立つようなプレーじゃなくていいので、縁の下の力持ちじゃないんですけど、やりたくないような仕事を誰かがしないとやっぱりラグビーはうまくいかないので、そういうところで体を張れる選手になって勝負していきたいなと思います」

ラグビーの魅力とは

「やっぱりコンタクトは、ラグビーを知らない人が見てもすごいなって感じてもらえるポイントなんじゃないかなって思います。それと、やっぱり1チーム15人でやる、球技では一番人数の多いスポーツなので、その連携だとか仲間意識というところはすごく魅力的だなと思います」

幼い頃からラグビーを始めた田中にとって当たり前になっている、ラグビーの文化的側面に関しても魅力を感じている。
 
「僕はラグビーしかやってこなかったので、試合が終わった後のノーサイドの精神は普通のことのように思えるんですけど、他のスポーツを見ていると、あまり感じられないことも多いですね。やっぱり幼い頃から馴染んできたそういうラグビーの文化も、魅力の一つなのかなと思います」

いよいよ田中真一選手が、来たる新シーズンに完全復活する予定です。どうぞ盛大な応援をよろしくお願いします。


 

 

 

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