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『進め、前へ。』 NO.8/松橋 周平

敢えて困難な道を選んでしまう性分であることは、自分でもわかっている。高校や大学への進路選択でも、敢えてNo.1の場所は選ばなかった。困難を目の前にすると、燃えてしまう自分がいる。そういう男にラグビーの神様は怪我という試練を与えた。今までは休むことを良しとはしなかった。でも進み続けるためには、ハードワークすると同時に自分の心と体と素直に向き合って、時と場合によっては自分を休ませることも必要だとわかってきた。進め、松橋。

ラグビーがあまり盛んではない長野県に生まれ育って

「ラグビーを始めたきっかけは、母親の知り合いにラグビーをやっている子がいて、小学校1年生の頃に母から勧められて僕も長野市少年少女ラグビースクールの体験会に行ったことが始まりです。スクールには小学校1年生から6年生までで50人ぐらいの子どもが通っていました」

長野県にはラグビーの夏合宿地として有名な菅平高原があるが、県内に居住している人にとって、ラグビーはあまり盛んなスポーツではない。

「長野県って大きいじゃないですか。南信の飯田市あたりはラグビーが盛んでしたが、僕は長野市なので北信と呼ばれる北の方なんですけど、全然盛んではありませんでした」

ラグビーは、やってみたら面白かった。今に至るまで、面白いからず―っと続けていると松橋は言う。松橋家では親がいろんなスポーツをやらせてくれたので、ラグビースクールに行くのは2週間に一回ぐらい。水泳と空手と冬のスキーというのがメインで、基本的にはその三つを平日や休日もやっていた。

それでも松橋は、小学校6年生の頃にはずっとラグビーを続けると心に決めていて、卒業文集にもラグビーの日本代表になると書いた。小学校6年生までは水泳と空手とスキーもずっと続けていたが、中学校に入った頃に、親から『将来どうしたいかそろそろ考えて選びなさい』と言われ、中学校では平日に部活で陸上をやりながら、休日にはラグビースクールに通うことにした。

「将来を考えた時に、ラグビーはたまにしかやっていなかったのですが、やっぱりずっと好きだったし、ラグビー選手になりたいという思いが強かったので、ラグビーに必要なこと=足を早くすることと考えて部活では陸上を選びました」

小学校時代もスクールで試合はやっていたが、県内の交流大会ぐらいだった。だが着実に力を付けていき、中学2年生になると長野県選抜メンバーに入って試合をするようになっていった。

ラグビーを続けるために長野を出て、市立船橋高校へ

「高校はラグビーを続けるために、市立船橋高校に進みました。長野県でラグビーをやり続けるイメージがどうしても掴めなくて。たまたま父が東京に単身赴任していましたので、同居して通える関東の高校を選びました」

市立船橋高校は、松橋が入学する2年ぐらい前から千葉県大会の決勝に毎回進むようになっていた。だが決勝では毎回流経大柏高校に敗れていた。当時の千葉県の大会では、流経大柏は13年間無敗だった。

「流経大柏に行くオプションもあったんですけど、市立船橋の練習に参加した時に雰囲気がいいなと感じてしまって、ここで流経大柏を倒したいなって思いました。砂のグラウンドでしたし、ラグビーをする環境としては、流経大柏の方が全然良かったんですけど。あとは、市船は体育科があって、サッカーや器械体操、バスケットボール、陸上なども全国レベルで、スポーツ全般に強い学校だったところにも魅力を感じました。他競技も含めて、そういう仲間たちと学校生活を送りたいなと思って決めました」

新人戦では県大会で優勝して、初の全国大会出場を果たせた。その当時流経大柏は、県内で131連勝していて13年間無敗だったのを止めたのだ。だが、高校3年間で花園出場は果たせなかった。

子供の頃から憧れていた明治大学ラグビー部へ

「卒業後、スポーツ推薦で明治に入りました。他の選択肢もあったのですが、僕の中では明治しか無いっていうイメージでした。長野でラグビースクールに通っていた頃、菅平に夏合宿で明治が来ていてスクールと交流会があったこともあって、勝手に明治ファンになっていました」

その頃の大学ラグビー界は、帝京大学の黄金時代が始まった頃で、明治は人気は衰えずにあったが、なかなか勝てない時期だった。そういう状況でも、迷わず明治を選ぶところがまた松橋らしい。ところで明治大学ラグビー部と云えば、上下関係の厳しさでも有名だった。

「明治のラグビー部は上下関係が厳しく怖いということで有名でしたが、実際そういう雰囲気でした。大学1年目はかなりストレスがありました。部屋の二段ベッドの上から降りられないというか(笑)。部屋に居たくないですし。それと、同期で入った部員はほとんど高校ジャパンやその候補に入っていて、みんなプライドも高かったですし。その中で負けるわけにもいかないですし、負けるとも思っていませんでした」

また大学に入った頃から怪我との付き合いも始まっていったが、2年生から試合にも出場できるようになった。

「明治のNO.8は『縦へ、前へ』の象徴でもありますし、逃げるわけにはいきません。2年生の時、ちょうど旧国立競技場が改修前の『最後の国立』で早明戦のメンバーに入ったんですけど、本当に満員になって校歌を聴いた時には、うるっとしましたね。『これが明治なんだ、これが早明戦なんだ』と」

3年生の春に前十字靭帯断裂という大怪我をしてしまったが、手術をせずにそのままシーズンをやり遂げる。だが、流石に徐々にパフォーマンスは落ちていった。4年生の春に手術をして完全復活。大学選手権ベスト4に進出することができた。

低迷期のリコーラグビー部に入団

「3年生の時に、一番最初に声をかけて頂いたのがリコーラグビー部でした。採用の方が毎日毎朝練習を見に来てくれて、『正直今のブラックラムズは弱いし、魅力があるチームでは無いが、ブラックラムズを変えたいんだ。お前らが来て変えて欲しいんだ』というような話をしてくれました。高校を選ぶ時もそうでしたが、僕はそういうのに弱いんですね(笑)。それで、決めました」

実際にリコーラグビー部に入ってみると、松橋の想定していた通りだった。そこには弱いチーム、勝てないチームの雰囲気があった。ミスは多いし、ポロポロボール落とすし、やることをやっていないくせにロッカールームで文句を言う選手はいっぱいいるし…。

「正直『すごいな、この雰囲気』と、入った1年目は感じていました。同期で入った濱野(※CTB/濱野大輔)なんかは真面目ですし、チャンピオンチームの帝京から来たので、僕と同じ危機感を持っていました。よく二人で風呂に入りながら『やばいぞ、これは。これに染まってはダメだ。絶対変えよう』と話していました」

「まず新しく入った僕らがグラウンドでしっかりやることをやって、プレーでパフォーマンスを見せつける。ミーティングでダメなことはダメだとしっかり意見を言う…そういうことをやっていったら若手とベテランがいい雰囲気になっていって、その前のシーズンは入れ替え戦に出るような状況だったのですが、僕が入った年のシーズンは6位の成績を残せました。個人的にも新人賞とベスト15をいただきました」

好事魔多し

入団した2016年の秋にトップリーグ公式戦が開幕して程なく、早くも11月には日本代表入りし、アルゼンチン戦で初キャップを獲得。国内シーズンが終わると、休む間も無くサンウルヴズに参加してスーパーラグビーリーグで出場を続ける。終わればまた国内トップリーグ。そして2017年秋の世界選抜戦で右膝前十字靭帯断裂の大怪我を負って手術、三週間の入院を余儀なくされる。

「絶好調が続いていて、日本代表8キャップまで行って、もっとキャップを重ねていこうと思っていましたし、サンウルヴズでもしっかり試合に出て自分でもレベルアップしているなと感じている時にまた大怪我してしまいました。それは結構ブレーキになりましたね。その当時、体はめちゃくちゃ疲弊していました。トップリーグ全試合出て、そのままサンウルブズの試合にも出続けて、1,2週間休んでまた次のトップリーグシーズンが開幕という感じでした。年間30試合以上出ていました。自分の中でも体もメンタルもかなりキツくなっていました。そういう状態の中で、怪我してしまいました」

「自分で自分の体をコントロールして、この練習は抜けたいとかこの試合は抜けたいとか言えば良かったんですけど、当時は若かったですし、練習してどんどん強くなるっていう感じでしたので、言えなかったですね。本当は、ジャパンでも言えれば良かったんですけど。サンウルブズでは海外のチームとあたって、外国人選手に対する免疫力みたいなものは付きましたし、学ぶこともたくさんありました。その分自信も付きました。すごく楽しかったです」

「サンウルブズでは無茶苦茶なツアーをやっていましたね。南アフリカ行ったりアルゼンチン行ったり、途中で時差がわけわかんなくなりました。家にほとんどいませんでした(笑)」

その時負った怪我を治すのには、結局1年弱かかった。2018年の夏に復帰し、また日本代表スコッドに選出されたり、サンウルヴズでも試合出場していたが、いい時があったり悪い時があったり、自分自身でも思ったようなプレーを持続できなかった。そして、RWC2019最終メンバーには入れなかった。

怪我との付き合い方と、休むことの重要性

「怪我をした時もそうですが、僕はメンタルでネガティブになったことは一回もありません。もちろん怪我をしてしまった直後は、『うわっ、またやってしまった。よりによってワールドカップ前に』という気持ちにはなります。でもすぐに次に復帰した時にはどうなっていたいかということをイメージして、それに向けて逆算してやっていくことがすごい好きで、それに対してハードワークすることができるタイプだと思います。それは大学生ぐらいからずっとできていました」

「どっちかというと、プレーしていて好調だったり、試合に出続けている時の方が、僕の場合はメンタルが難しいです。体の疲れを押し殺して「やらなきゃいけない」というモードになってしまうので、結構怪我に繋がってしまっていたと思います。プレーし続けている時のメンタルの方が良く無いのかなと思いますね」

松橋は、実は2023年2月4日のリーグワン第7節の試合で怪我を負ってしまい、現在は復帰の目処が立ってきたところだ。

「今回の怪我に関しても、2023年のワールドカップ出場を本当に狙っていたので、悔しい部分はあります。2大会連続でそういう目に遭っていますので。正直、今もまだ引きずってはいます。ただシーズンももう終わってしまいますので、アピールする場が無いので、モチベーションをまた来季に合わせなくてはいけません。難しいですけど。

僕は無理をしている時に、絶対怪我してますね。どこか他のところを。僕の性格上、休むっていう選択ができなくて。自分のパフォーマンスだったりコンディショニングがうまく整ってない時は休むべきだなあっていう事は、まだまだ学ぶべきところですね」

これからベテランの域に入っていくので、そこは本当に気をつけながら、自分が今どういう状態でいるかということを学びながらやらなければいけないと、わかってはいる。

「『休みます』って自分から言えるようになりたいですね。常に100%でいられればいいんですけど。でもラグビーやっている以上100%って難しいじゃないですか。だから、明らかに自分の状態が普段とは違うなって感じたら、言えるようになりたいと思っています」

今と、これからのブラックラムズ

松橋は自分の入団当時のブラックラムズと今のチームを比べて「無茶苦茶変わりましたね。一人一人のラグビーとの向き合い方であったり、チームとしての組織のあり方であったり、全然比べものにならないぐらい良くなったと思います」と言う。また「すごくいい文化が今出来上がりつつあるなと思っています。ここ数年でいい方向にチームが進んできたと思います」と、チームの変化を実感している。

「今シーズン、トップ4のチームとも僅差の試合をやって、勝てたのになあという試合が多かったので、本当にあとちょっとですね。でも埼玉ワイルドナイツとか見ていると、途中まで負けていても、最後はたとえ1点差であっても結局勝つじゃないですか。決して良くは無くても最後は勝つっていうウィニング・カルチャーが出来上がっている証拠かなと思います。早くその域に行きたいですね。やり続けるしか無いですね」

また、選手層が厚くなってきたことを実感すると同時に、今シーズンはコンディショニングがうまくいったとも感じている。

「試合自体も今シーズンはタイトじゃないですか、6試合連続とか。しかもどのチームも力が拮抗しているとなると、試合の日にどれだけコンディショニングを合わせられるかっていうことが重要になってくると思います。それが昨シーズンよりもうまくいっていると思います」

そして最後に、今後のチームのあるべき姿を展望する。

「試合をして反省して、こうしようああしよう、というのが無くなればもっといいなと思っています。反則が多かったり、FWで云えばスクラムが安定しないとか、ラインアウトが取れないとかなってくると、気持ちの部分に波が出てしまって、どんどん自分たちのやりたいラグビーから離れていってしまうんですね。

そういう細かなちょっとした部分を安定させられれば、自分たちのラグビーができて、どの試合も安定した結果が得られるのかなあと思います。今は浮き沈みがありますが。

もちろんうまくいかない時間帯も出てくると思いますが、そういう安定した状態を80分間出せるのが理想なのかなと思います」

ファンの皆さま、松橋は更に「前へ」進むためにすでに再起動しています。完全復活を成し遂げ、ヴァージョンアップした松橋周平をどうぞ楽しみにしていてください。

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