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熱いハートと、人と人とのつながり。 CTB / 栗原 由太

真っ直ぐな熱いハートで、ずっとラグビーに向き合ってきた。要所要所で怪我にも見舞われてきたが、そこで色々な人の支えで成り立っていることを感じ取り、壁を乗り越えてきた。"ONE for ALL,ALL for ONE"のラグビー精神を体現するにふさわしい仲間とも出会ってきた。ラグビーっていいスポーツだなあと改めて感じさせる話を、このインタビューでたくさん聞かせてもらった。栗原 由太選手のこれまでの道のりを辿ってみよう。

仲良しの子のお父さんに誘われて、ラグビースクールに入る

4歳の時、幼稚園で仲の良かった子が藤沢ラグビースクールに入っていて、その父親から、是非一緒にやらないかと誘われて、栗原はラグビーを始めた。

「そんなに確かな記憶は無いのですが、あんまり積極的ではなくて、行きたくて行っていたわけではなかった気がします。僕の記憶では、最初はやっぱり連れられて行っていたと思います」

スクールは、土日のどちらか一日で行われていた。

「面白くなりだしたのは、小学生になった頃からじゃないですかね。友達もいっぱいできました。僕たちの代では、30人弱ぐらいいました」

ヘッドキャップとマウスピースをつけて、コンタクト有り。試合もやった。当時、栗原は周りと比べて体が大きい方だったので、トライを多く獲ることができ、自分を活かせることが楽しかった。ただ他に、野球と水泳もやっていた。

「実は悩んだんです。小学校2年生で野球を始めて6年生までやっていたんですけど、野球も好きになって、かなりはまってました」

ラグビーを続けるのか、野球を続けるのか、中学生になる時にどちらかを選ばなければいけないことになり、一度は両親にラグビーを辞めたいと伝えた。だが、両親やいろんな人から絶対ラグビーを続けた方がいいと言われて、ラグビーを続けることにした。

そうして中学では、ラグビー部に入った。公立の中学校で、ラグビー部があるのは珍しかった。推薦枠もあって、関東大会に出場することができて、ベスト8ぐらいまで進むことができた。

「中学生の頃は、将来本格的にラグビー選手になりたいとかはまだ意識してなかったですね。まだこの頃は普通に部活としてやっていました。ただ兄(※栗原 大介氏。現レッドハリケーンズ大阪所属選手)がもうその時、慶應のラグビー部で副将とかやっていて、早慶戦で勝ったりとか、全国大学選手権の準決勝を国立競技場でやっていたりするのを見ていたので、そこを目指したいなとはちょっと思ったりもしました」

左が兄の大介氏

兄の大介氏は、当時慶應義塾體育會蹴球部で寮生活をしており、たまに実家に帰った際にはラグビーの相談に乗ったり、アドバイスを送ったりしていた。

桐蔭学園高校入学

「推薦で入りました。普通に受験して文武両道をしようと思っていて、最初は程よくラグビーも強く学業のレベルも高い県立横須賀に行きたいと考えていたんですけど、桐蔭学園の藤原先生から声を掛けていただいて、どうせなら強いところでラグビーをやりたいと考えて桐蔭に決めました」
 
桐蔭学園ラグビー部のレベルは、想像以上に高かった。栗原自身は、スクールでも中学でも全国大会は経験してなかったので、全国トップレベルの選手たちが揃っていた桐蔭学園のレベルに最初は戸惑った。またちょうど栗原がが1年の時の3年生たちは、黄金世代と呼ばれていた世代だった。

「それが良かったですね。この人たちについていけばいいと思って必死にやっていました」
 
1年生の6月に関東大会があって、その時に初めてメンバーに入ることができた。ポジションはスタンドオフ。
 
「スタンドオフは、高2までです。3年生の頭からバックロー、主にNo.8になりました。中学から10番をやっていたので、パスとかキックとか一応できたし、高校でも10番をやっていたんですけど、僕のラグビースタイルは、もともとあんまり10番という感じではなくて、僕自身10番はあんまり好きではなかったんです」

高校に入った頃には、身長は今とあまり変わらない178cmぐらいになっていた。2年の時には花園に行けなかったが、3年の時は花園で準優勝した。
 
「僕たちの代は、そもそも弱いって言われていたんです。それをみんなバネに替えて、3年生の花園まで1年間死ぬほど練習してきたんです。新3年生として迎えた最初の試合出場メンバーには、僕らの代は3人ぐらいしか入っていなかったんですけど、結局最後は8人ぐらいがメンバーに入りました。そういうこともあって、僕ら3年生は花園に出場することを目標にして、めっちゃ気合い入れてやってきたんですけど、僕は県予選の準決勝で前十字靭帯を切ってしまったんです。それはやっぱりめちゃくちゃショックでしたね」

県大会の決勝戦、栗原は見守ることしかできなかった。しかしそこから全力でリハビリを行い、完璧な状態ではなかったが、なんとか花園では出場することができた。

「その時にいろいろな人に支えてもらって、それこそ兄もすぐ病院を取ってくれたりとか、今まで当たり前に思っていた環境もみんながいるからこそ成り立っていたんだということがわかりました。
 
本当にいろんな人の支えがあって、もう一回、自分がそこの舞台に立てたっていうことを、自分としては改めて考えさせられる機会になりました。やっぱり自分一人で成り立ってないなってことを、すごく改めて感じました」

慶應義塾體育會蹴球部での4年間

「やはり兄もいましたので、大学はほぼ慶應しか考えていなかったですね」
 
中学から高校に上がる時よりも、高校から大学に上がった時の方が、レベルの違いを大きく感じた。高校生からすると、大学生はやっぱり大人で体の大きさも全然違った。
 
「桐蔭学園も練習はまあ相当きつかったので、きついことには慣れていると思っていましたが、それでもきつかったです。今、日本代表のS&Cコーチをやっている太田さん(太田千尋氏)が、ちょうど僕が3年生の時までぐらいはほぼフルでついてくれていたのですが、マジできつかったですね(苦笑)」
 
2年の時からAチームに入って試合に出られるようになった。ポジションは、センター。
 
「僕、1年目がもう丸1年全部リハビリに費やしたので、その間にFWかBKか、どっちをやろうかなとずっと考えていました。もろもろ考えてバックスの方が今後生きていきやすいというか、卒業後も生きやすいかなと考えました。それで監督に相談してセンターをやらせてもらうようになりました。
 
 3年生の時の大学選手権で準々決勝敗退。早稲田に負けた。

「早稲田に対する意識というのは、僕は特別無かったのですが、負けたことはめちゃくちゃ悔しかったですね。僕が3年生の時の4年生の代がめちゃくちゃ好きで、本当にラグビーに対して熱くて真っ直ぐな方が多かったので、すごいリスペクトしていました。最初の11月の早慶戦で負けちゃったんですが、まだ手応えはあったというか、全然いけると思っていたんです。
 
それで次やったら勝てる自信もあったし、それだけの練習もしてきたんですが、本当に最後の最後、ラストワンプレーで掴みかけた勝利をこぼした感じで。
 
ラストワンプレーで、マイボールスクラムだったんですよ。そこでペナルティー取られて相手ボールラインアウトになったんですが、モールは耐えたんですよ。モールを耐えて、もう何十フェーズか攻撃されて、最後は外を突かれてトライを獲られてしまいました。それが印象に残りまくっています。悔しかったです。 

早稲田に負けたことはもちろん悔しいですけど、その4年生たちともうラグビーができないっていうことと、勝たせられなかったっていうことに、めちゃめちゃ責任感じたというか、悔しかったですね。
 
4年の時は主将をやりました。主将は、めちゃくちゃ難しかったです。こういう場所で上に立つのって、本当にもうこんなにも難しいんだと思いましたね。
 
意識の高い人もいれば、そうでも無い人もいて。しかもみんな学生じゃないですか。そこが本当に難しくて。
 
当時もいろいろ考えていたんですけど、その厳しさを感じましたね」

栗原は、4年生に上がる時に化膿性関節炎という、関節が膿んでしまう病気にかかってしまった。前十字靭帯の手術をした時に、何か雑菌のようなものが入ってしまったのだろう。それがこのタイミングで化膿してしまって、結局半年ぐらいリハビリに費やすことになった。それで復帰したと思ったら、今度は足首を怪我してしまった。
 
キャプテンをやりつつも、かなりの時間グラウンドにいることができなかったので、4年生の時は悩みが尽きなかった。その4年の時には、慶應は大学選手権に出場することができなかった。

リコーブラックラムズ入団

「同期で、日向(HO 武井日向)や大五(PR 笹川大五)や大輔(WTB 西川大輔)や知也(WTB 山村知也)が入ることになっていて、めちゃくちゃいいな、ここから上がっていくチームに絶対なるし、その当事者になりたいと思って入部を決めました。チームカラーもいいなと思っていました」
 
実際入ってみると、チームの雰囲気も良かった。上昇曲線に乗ってきたチームの醸し出すいい雰囲気があった。

「ほんとにベテランの昌太さん(SH 山本昌太)とか、マサさん(SH 中村正寿)とかがいて、そこに意識の高い松さん(No.8 松橋周平)や濱野さん(CTB 濱野大輔)たちもいて、僕たち若手にも元々リーダーをやっていた選手が多くて、そういうのが今色々混ざってきて更により良くなっていっているところなのかなと思います」
 
「雰囲気はホントめちゃくちゃいいなと思っています。みんな本当にフラットで、みんな筋が通っていて、言う時は言う、楽しむ時は楽しむみたいな」
 
入団当初、フィジカルの面では苦労したという。

「いや、今も苦労してますね。でも自分の売りは、やっぱりハードワークとかそういうところにあるので。もちろんフィジカル面も改善しつつ、上を目指しています。リコーのDNAには泥臭さということがありますし、ハードワークの精度を上げていくっていう部分で、それを体現したいなと思ってます」
 
2020年の4月にリコーに入社して、2020-21シーズン終盤4月4日に公式戦デビューした。

2022年、プロ契約選手となる

「元々プロになるつもりはなかったんですけど、ただこの世界に入って、プロになって自分の限界に挑戦したいっていう気持ちが芽生えました。あとはラグビーキャリアを終えたら、僕自身で何かをしようと思っていたので、プロ選手契約にさせてもらいました」

来シーズンに向けて

「この3年間で、試合の質的なところ、内容の部分でもすごく分かってきているのかなと思います。上位のチームと比較的普通に試合できるようになってきているし、特別さも感じなくなりました。そういったところでも、いい成長を続けられていることを感じます」

「個人的には、やっぱりフィジカルの部分と、ディフェンスは年々継続していい感じになってきているので更にフォーカスしてやっていきたいと思っています。アタックは、ボールを持った時の仕掛け方ですかね」
 
「チームとしては、規律の部分とかラグビーのゲーム理解とかを高めていければと思います」

ラグビーの面白さ

「最大の矛盾に挑むところですかね(笑)」
 
「でもラグビーの魅力は、やっぱり人と人とのつながりじゃないですか。チーム内でもラグビーやっている人同士でも、やっぱりラグビーって特別だと思うんですよ。サッカーは11人いますけど、ラグビーほどコネクションが必要じゃないと思うし。

サッカーだと例えばメッシみたいなすごい選手がいれば一人で3人ぐらい交わしてゴールしちゃったりしますけど、やっぱりラグビーの場合は、一人だけではどうしようもできないじゃないですか。逆に1個の綻びで大きな傷になったりとかすることもありますし。
 
そういうところは、すごく面白いスポーツだと思いますね。そういった意味で、人と人との繋がりを凄く大事にしているスポーツなんだなあと思います。
 
それにラグビーはファンとの繋がりも近いし、めちゃくちゃ強いじゃないですか。それも含めて僕は好きですし、すごく素敵なところだと思います」

栗原は、今日も熱いハートでまっすぐラグビーに向き合っていく。皆さま、どうぞ栗原 由太選手に大きな声援を送ってください!!

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