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コツコツと、弛まず、流されず。 SH / 髙橋 敏也

本人によれば、『自分は、高校日本代表とか各年代カテゴリー日本代表とかに一度も選ばれたことがない目立たない選手だった』ということだ。だが、ラグビーを始めた幼い頃から目標としていた、トップリーガー選手になることを叶えた。周りがどんな環境であろうとも流されず、心に決めた思いを持ち続け、コツコツと弛まぬ努力を続けてきた賜物であろう。

もう一つ掲げてきた日本代表選手として試合に出るという目標までも、もう少しで手が届くところまで近づいた。

レフティの大型スクラムハーフ、髙橋 敏也のラグビーを巡る歩みを辿ってみよう。

家には、ラグビーボールが転がっていた

髙橋の父親は、大学時代や社会人までラグビーをやっていた。そのため、幼い頃から家にラグビーボールがあり、ラグビーは身近な存在だった。小学校1年生になると、その父親に横浜ラグビースクールに連れていってもらってラグビーを始めた。周りでラグビーやっていたのは髙橋だけだった。

「スクールは1学年で20人ぐらいいました。当時のスクール生とは今でもすごいつながりがあって、僕の試合とか見に来てくれるし、定期的に集まって旅行に行ったりもしています。いい仲間ができました。最初から普通にコンタクト有りでした。最初は5人制で、それから7人制、9人制に変わっていきました。中学校からは12人制になりました」

「ラグビースクールは週末だけでしたが、日曜日にみんなと会ってラグビーをすることが、すごく楽しかったです」

小学校の頃はセンターをやっており、ボール持って抜きに行くこともタックルも好きだったと言う。

「家に帰ると、平日は家で父と毎日のように練習していました。あと小学校に通う時に足に重りを付けて行ったりだとか、重いラグビーボールを使ってボール蹴ったりパスしたりだとか、公園に走りに行ったりもしていました。楽しくやっていて、怒られたというような厳しさは無かったですけど、結構いろんなトレーニングをやってました。母親もすごく自分をサポートしてくれていたので、両親には本当に感謝しています」

小学校の頃からトップリーグの試合をよく見ていたので、トップリーグの選手になりたい、日本代表になりたいという憧れはこの頃から持っていた。

そして、ラグビー名門の國學院久我山中学に進む

通っていたラグビースクールには中学生の部もあったが、活動は週末だけだった。髙橋は、中学校に入ったら平日も部活でラグビーをやりたいという思いを持っていたが、近隣の公立中学にはラグビー部が無かった。だからラグビー名門校として名高い、私立の國學院久我山中学に受験して入った。家は川崎だったので、学校のある東京都杉並区の久我山まで通うのに、片道1時間半ぐらいかかった。

「僕らの時代には全国大会っていうのは無くて、東日本大会っていうのが一番大きいラグビー大会でした。最後にはそれにも優勝しました。中学時代も結構強かったと思います。でも、久我山中学には僕みたいに小学校からやっていた経験者は僕の代では3人しかいなくて、他の同期生は初心者でした」

中学では最初センターをやっていた。当時の先生が、1年生の途中でスクラムハーフにポジションを変えてくれて、それからはずっとスクラムハーフとなった。

「取り敢えずハーフで一回やってみろって感じでやり始めたのですが、後から聞くと、ボールに多く触らせようとしてポジション変更を考えてくれたのと、僕は足が左利きなんですが、左足でキックを蹴れるスクラムハーフがいいと思ってくれて、それも大きな理由だったらしいです。左利きという部分は、今でも他の選手とは違う自分の武器になっているかなと思います」

小学校の時は背が高い方だったが、中学ではみんなにどんどん抜かれていって、男子で中ぐらいの背丈になっていた。今は182cmあるが、再び身長が急激に伸びたのは高校に入ってからだった。高校から身長が一気に伸びて、気付いたら大型スクラムハーフと言われるようになっていた。

スクラムハーフの面白さに気づいたのは中学2、3年の頃だったが、相変わらずボールを持ってアタックすることも好きだった。

高校も同じく久我山へ

國學院久我山高校は、髙橋が入学する頃も花園には20年以上連続出場していた。

高校はスポーツ推薦制度ももあり、久我山中学のラグビー部出身者の他にスポーツ推薦の選手が十数人くらい入ってきていた。ちなみに、去年横浜キヤノンイーグルスから移籍してきた田中真一選手は1個下の学年で、高校からスポーツ推薦で入ってきた。部員は全学年合わせて100人ぐらいいた。

「花園には2年と3年の時に出ていたんですけど、2年がベスト8で3年がベスト16です。日本一を目指してやっていたので、悔しい終わり方だったです。もうちょっと上へ行けたら、もっと満足感とかあったと思うんですけど。でも、みんなでやっていた時間はすごい楽しかったです」
 
そして、高校日本代表候補にも選出されたが、正式代表には届かなかった。

青山学院大学へ進学

大学進学先に決めたのは、青山学院大学だった。

「いろんな大学のチームが動き出すずっと前から、青学が一番早く声をかけてくれました。それで、自分自身を必要としてくれているところで頑張るというのがやっぱりモチベーションに繋がると思ったし、青学は僕の頃も対抗戦の下の方っていうポジションだったんですけど、そこからみんなで頑張って上に上がろうっていうようなところに魅力も感じました」

「あと青学には結構自由な部の雰囲気やイメージがありました。オフ・フィールドだけじゃなくて、オン・フィールドも選手が考えながら自主的にやっているという話を聞きました。高校までが監督から言われてやる感じだったので、自分で考えてできるというところにも魅力を感じて青学に決めました」

青学ラグビー部に入っても、髙橋は日本代表になるという目標を捨てずに持っていた。大学でラグビーを終えるつもりも無かった。だから、今いる環境の中で、どうやったらトップリーグのチームに行けるかということも、モチベーションの一つになっていた。

髙橋の時代、青学は大学選手権に一回も出場できていない。だが、トップリーグでやりたいとか日本代表になりたいという思いが消えることは無かったので、監督の教えとプラスして自分で考えて努力することが大学時代に身に付いた。

「大学時代の思い出としては、大学3年の時に、対抗戦とリーグ戦のオールスターゲームのような試合があって出場したんですけど、帝京や明治の選手たちと一緒にやった時に自分の実力がまだ全然足りないなっていうのを感じました。その経験が、もっと上を目指すきっかけになりました」
 
「もうひとつの思い出としては、青学のラグビー部って結構オフが長いので、大学2年の終わりぐらいにオフの時期を使ってニュージーランドに留学したんです。ウェリントンに行って、当時の自分と同世代のウェリントン州代表のアカデミーに入って過ごした二ヶ月ぐらいの経験は、自分の中でかなり大きい財産になってます」
 
アカデミーの上には、プロの世界がある。そこを目指している若い選手と共に過ごし、そのハングリーさや必死さに感じるものが多かった。
 
「日本にいたらすごく居心地のいい環境で言葉も通じるし、大体何をやればいいかわかるけど、ニュージーランドへ行ってみると、何をどうすれば良いかわからない世界に自分が飛び込んだという感覚でした。その中で何かを得ようとすごく必死になっていたので、そこで生活したりラグビーしたりという経験は、自分の人間形成においてすごくプラスになりました」

リコーに入社し、念願のトップリーガーとなる

「僕が大学4年の時に、リコーは入れ替え戦に出場していました。その翌年の入社で、松橋や濱野、中澤さん、吉村、山内と同期です。以前のインタビューで松橋が入部当初のことを話していましたが、僕は青学から来たので、恥ずかしい話ですけど、雰囲気悪いとかは別に感じませんでした」
 
髙橋は、みんなが全力でやっている環境がすごく嬉しいというか頼もしく感じていた。入部したシーズンでは3試合に出場したが、自分自身のレベル自体はまだ足りていないと感じていた。
 
どうやったら試合に出られるかという思いで、自分のことを中心に必死にやっていたので、チームに対してはまだあまり目が向いていなかったのかもしれない。
 
「松橋とか濱野は1年目から結構試合に出ていたので刺激になったし、僕はめちゃくちゃいい同期と巡り会えたなっていうのがあります。他のメンバーとも、みんなすごく仲良くやっていたので。
 
中澤さんとかもそうですが、すごく真面目な同期が多かったので、同期からの刺激は結構ありました。いっしょにメシ食いに行ったりとか飲みに行ったりしていたんですけど、そういう時は、みんなでお互いに厳しいことを言い合ったりしていました。そういう同期に巡り会えたので、良かったです」

自身2度目のウェリントン留学体験

リコーラグビー部に入部して、1年目と2年目は必死にもがいてた。2年目が終わったタイミングで自ら希望して、自分自身2度目となるニュージーランド・ウェリントン留学に行った。

当時、リコーでなんとかして試合に出ないといけないという焦りもあり、そのタイミングでウェリントン留学を経験できたことは、 髙橋にとって得難い経験となった。

「青学時代に行った時は州のアカデミーだったんですけど、リコーの時は、スーパーラグビーのハリケーンズで平日は練習して、週末はクラブチームで試合をするという環境でした。そこで高いレベルに入ることで、自分自身成長できたと思います」
 
「トレーニング自体きつかったですけど、ハリケーンズに入るということで緊張感がもう全然違うので、そういうレベルを経験できたことが大きかったです。その時、オールブラックスにも選ばれて日本のトップリーグでも活躍したスクラムハーフのTJ・ペレナラとか有望な若い選手たちと一緒に練習ができて、学べたことが多かったです」
 
ウェリントン留学から戻って3年目のシーズン、最初はリザーブでの出場だったが、アウェーでのパナソニック戦で久しぶりにスタメン出場して勝利をつかむことができた。

「その試合が、自分で自信を掴めた一つのきっかけになりました」

28歳でプロ契約ラグビー選手となる

「今シーズンでプロ3年目になるので、プロになったのは28歳の時ですね」

リコー入社以来の社員選手時代、髙橋にとって不満の無い職場環境であり、会社の人たちの熱い応援もありがたかった。ただ、自分がずっとやってきたラグビーがどこまで高いレベルで通用して、最後にどこまで行けるのか本気で追い求めたい気持ちが消えなかった。
 
「社員選手時代にも今と変わらず努力はしてたんですけど、どこまでできるかチャレンジしたいという思いが強かったです」

プロでやっていくことに対しては、不安はそんなに無かったと言う。

「モチベーションの部分とかは、社員選手時代とプロ契約になってからでも別段変わらないし、やることも変わらないです。やっぱりコツコツと一歩ずつ成長するというやり方は、ブレずに変わりません」

幼い頃からの夢だった日本代表に近づく

2022年6月には、日本代表に追加招集され、9月にも候補に選出された。
 
「僕は、下のカテゴリーでも代表になったことがないので、日本代表の選手には知り合いが誰もいませんでした。誰も知らないところに行くので、馴染めるかどうか心配だったんですけど、本当にみんながコミュニケーションを取ってくれて、思っていた以上に素晴らしい環境でした」

「一人一人のリーダーシップというか、自分自身に対しての意識の高さもありましたが、やっぱり自分の考えを周りに伝えていったりだとか、目指しているのも、求められてるのも高いレベルなので、そこに対しての全員の必死さみたいなものをすごく感じました。また、周りに対してのコミュニケーションレベルも高いなと思いました」
 
日本代表スタッフのトニー・ブラウンコーチからは、他のスクラムハーフの選手と違うところとして、フィジカルの強さや左足のキック、それとパスやその他のスキルの部分も評価してもらっていた。

スクラムハーフとしての自分の特性

「スクラムハーフとして自分は大型の方だと思いますので、そのメリットを生かして、他のポジションの選手とあまり遜色なくディフェンスでもできるところが強みだと思っています。あと、仕掛けた時に簡単に倒されずにボールを繋いだりとか、そういうフィジカル的なところは、他のスクラムハーフの選手とは違う特性かなと思います」

「ただ、スクラムハーフに求められているものは、それぞれのチームで異なるので、それに対して自分の特性だけで頑なに勝負しようと思っていたら、試合出場メンバーには選ばれないと思います。そのチームからスクラムハーフとして求められているものをまずしっかりやった上で、プラスして自分なりの特性を出せればいいという考え方です」

2022-23シーズンを振り返って

「その前のシーズンが結構厳しいシーズンだったので、そこを考えたらちょっとは良くなったのかなと思います。ですが、接戦の試合を勝ち切れなかったところが最終的な順位につながってしまったし、来シーズンにトップ4や優勝を意識するなら、接戦を勝ち切っているチームがやっぱり上に行くので、どこを見直せばいいのかをみんなで考える必要があると思います」
 
「このレベルになると、やっぱり大差で負けることも勝つこともあまり無いじゃないですか。接戦になって終盤に僅差で勝っている時に、自分達で焦ってしまった時もあったんです。点差が詰まってくると、『やばい、やばい』って変に自分たち自身でプレッシャーをかけちゃっていました。80分間どんな時間帯でもやるべきことをやるという習慣を身に付けないと、結局接戦で勝てないので」

強豪チーム相手にも接戦の試合を多く経験できたシーズンを終え、プレッシャーがかかった状態で何をすればいいかということがわかったので、それを来シーズンに繋げていきたいと語る。

来シーズンに向けて

「毎年成りたい選手像は変わらなくて、やっぱり9番で試合に出続けて目の前の相手に勝つこと。それを積み重ねることで、日本代表に選ばれて日本代表の試合で戦うこと。その目標は去年もそうだったし、その前の年もそうでした。そこにどうやってアプローチするかっていうのは、その年によって違いますけど」
 
このオフ期間中に、スキルの部分、特にパスの部分を見直そうと試みている。今は自分のパスフォームの中に無駄な部分があると感じているので、そこをいかにスムーズにできるか、武川正敏コーチと一緒に微修正を重ねている。
 
「それはずっとシーズン中からマッティー(※マット・ルーカスコーチ)と一緒にやってきたことなんですけど。1ヶ月や2ヶ月で、そんなに簡単に癖は直らないので、オフシーズンも継続しながらやって次のシーズンからそこを意識せずにできるようにしたいと思っています。来シーズンは、自分の速いパス捌きに注目してください」

髙橋 敏也は、これからも地道にコツコツと自分の描く道に向かって進んで行くことだろう。どうぞ、その弛まない歩みを見続けて応援してください。

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