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自分 の 人生

具合が悪い
何もしたくない
何かしたい
どうにもできない
動けない
一人ではどうにもならない
強がっていきがってみても
「自分の人生」という言葉の意味がわからない。
そもそも「自分」がわかっていない。
右手を切り離したとして、右手ではなく頭がある方が自分だ。
足も手も切り離して胴体と頭があるほうが自分だ。
医学が進歩してくれば頭だけでも生きていけるのかも。
そうしたら、頭と胴が切り離されたら頭が自分だ。きっと。
さらに医学が進んだら、脳だけでも生きていけるのかも。
そしたら、顔はいらない。脳だけが自分だろう。
さらにさらに進んだら。そう考えると、脳の中で意識によって引き起こされる変化が自分ということになる。
一瞬の稲妻みたいなものかも。
仮にその稲妻が自分だとして、そんな不確かな自分を「自分」と名付けられてもいやいやそれはたまたま起きた稲妻だからと言いたくなる。

もっと困るのは「自分の人生」の「の」だ。
この「の」は、所有の「の」で「AのB」という形で使われている。
BはAの所有物であるという意味が付与される「の」だ。
ということは自分が人生を所有していると言わなければ使えない。
所有するということがそもそも違和感がある。何を意味するのだろうか。
所有する。自分のもの。所有していない。他者のもの。
例えば、自分の車を持っているとする。それを所有しているとみんな言っている。しかし、インスタグラムに写ってしまえばそれを自分だけが所有していると言えるだろうか。さらにいいねをもらって、自分が喜んでしまっていたら。そんなことしなくても、そもそもその車で誰かを駅まで送ったら、送られた人にとっての車も現れ出てくる。街中で見られたら、見た人にとっての車も現れ出てくる。所有とはそもそも何を意味するのか。その所有物に対して絶対的な権力のようなものを持っていて、その所有物を壊したりできることを指しているのであろうか。それでは車を廃車にしたとして、その車に乗せてもらった人の記憶は消せない。そもそも所有などということが本当に可能なのだろうか。まして対象が「人生」。曖昧な稲妻のような「自分」がまるで絶対的な権力を持っているかのように所有しているとうそぶいて、死んでもいないのにわかったふりをして「人生」などという対象物を取り扱っている。
「自分の人生」の後にくる言葉はもっと傲慢さが際立つ。
「自分の人生なんだから」
どの口がどうやって、何をわかった気になって言っているのであろうか。
「自分の人生なんだからしっかり考えなさいよ」
ここまでくると意味不明である。この言葉自体をしっかり考えなさいよとしか言えない。

自分も稲妻みたいな不確かなものなの
あんまり無理な言葉は使いたくない

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