ぶりきの心臓

目覚めのない夕暮れ」の続きです。

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「もしも世界と大切な人を天秤にかけたとき、君が選ぶのは果たしてどっちだい?」 


 まずコノワタケーゴの話をする必要がある。

  俺にとっての世界はまず家(俺の、反吐の出るような、最悪の家)があり、そのあと九年分の学校生活を挟んだあとで、店を中心として会社と客という軸によって完成された。つもりだった。会社と客がいる生活は楽で、そこからは無駄なもの、俺にとって無駄だと思えるものは徐々に消えていき、具体的に言えば恋人と二回別れた。人間関係はなんとなく会社の地続きで、俺はコンビニ店員として優秀な成績をおさめていればある程度俺の「世界」は保証されたので、二回目の失敗(別れることになった原因は俺のミスだと女たちは言った、ちなみに恋人と呼べる相手を通算で数えるなら四人目だった)のあと、俺には人間関係と呼べるものはそれ以上必要ないのだと思った。思った、思おうとした、思うべきだと思った。

  定義づけできないほかの要素についてはいまは説明を省く。コノワタケーゴの話をしようと思う。

 ある日俺のもとに一通の手紙が届いた。それはとある学校に俺を招待する手紙だった。文化祭のようなもの、そこに招待された客はたった三人、ある種の慈善事業。小さな携帯ストラップをバザーでふたつ、買った。そのときは、それを帰って、渡すつもりでいた。

  学校が「なに」であったのか、俺がきちんと理解したのはしばらくあとになってから、繰り返し、その異常に触れることが、俺の新しい仕事になって以降のことだった。俺はあのとき、クニヨシくんのことを考えていた。俺の目の前に現れた、もうひとりの俺、のようにしか、思えない相手について、俺は、考えていて、それ以外のことは、わからなかった。

  そこには三人の男が招待されていて、一人はタカナシという名前の警官だった。彼は日常に帰還した。彼がその後どうしているのか俺はしらない、幸福に暮らしていてほしいと思う。俺はタカナシさんのことが、嫌いではなかった。

  コノワタケーゴに対する感情は「好きではない」に傾いたのとは反対に。

  けれど俺はタカナシさんが帰っていくのを見送り、コノワタケーゴについていくことを選んだ。というより、選ばざるを得なかった。

  登場人物が多すぎる。クニヨシくんと俺のあいだに起こったことについて、というか、俺がクニヨシくんについてほとんど一方的に考えていることについてはまた別に書かなくてはいけないと思う。

  世界についての話だ。俺の認識する世界というのは会社とそれに付随するもの、それから学校とそれに付随するもの、それには全然関係ないもの、それだけで構成されていて、でもコノワタケーゴにおける世界というのは「全世界」のことなのだった、たぶん、たぶんそうだと思う、「全人類」とか、そういうことなのだった。そこまで大きなサイズではないかもしれないけれど、少なくともそれは俺が認識できるサイズをはるかに超えたものだった。そして出会ったばかりの頃のコノワタは俺に、そしてタカナシさんやクニヨシくんに、そのサイズを理解することを求めていた、求めていたというより、理解することがあたりまえのことだと思っていた。

  そのようにして俺の「世界」は崩壊した。 


 目を覚ます。

  体がひどく重い。時計を確認して、数時間寝たことを確認する。寝たから大丈夫だと思う。キッチンに立つ。たいていパンを焼いてハムエッグを焼く。野菜を煮てスープを作る。寝室がふたつある、自分が寝ているほうではない扉をノックする。クニヨシくんはたいてい食事のことを忘れている。読みかけの本を置くとき、いつも彼は少し苛立っていることを俺は感じる。俺は彼の苛立ちと自分の苛立ちの区別をつけることができない。俺は苛立っているのだと思う。何に? 朝食をとらなくてはならないことに? 生きなくてはならないことに? 勉強をいくらやっても追いつける気がしないことに? 追いつく? 何に? 

 コノワタケーゴに?

  こっちに来て数か月のホテル暮らしの間、俺はみるみるうちに食事を取ることができなくなって、自分でも驚いた。物心ついてからずっと油が回り切ったコンビニ弁当を食って生きてきた人間に、飯が食えないという反応ができることが、自分でも少し面白かった。家が落ち着いてからは、確実に食えるものを家に常備することを覚えた。自分が料理をするようになるなんて思わなかった。でも食いたい飯がなくて寝込むのも誰かが作った飯を食わされるのもどちらも嫌だった。大丈夫ですと俺は言う。大丈夫ですと言っている。飯は食っているので大丈夫です。自分で作っているので大丈夫です。

  軽い仕事を任せられていて、それをするのが俺でなくてもいいことはわかっているけれど、「俺でなくても構わない」ということにどうやら自分が傷ついているらしいということに俺は驚いている。だってそれはあたりまえのことじゃないか。べつにこれまでしてきた仕事だって、お前じゃなくても誰でもできることだって、思ってたんじゃなかったか? 

 違う。

  多分。

  違う。

  考えるのをやめる。掃除をして洗濯をして料理をしてそれから少し寝る。細切れの睡眠の合間に考えることはひどくあいまいで、誰かに勉強をするように言われたような気がする。考えておきます、と俺は言う。多い。考えるべきことが多い。子供が家にやってくる。一緒に食事をするというので食事を用意する。子供はコノワタさんによく似た風貌をしていて、どうしてなのか少し考えたあとで、俺は、彼が、コノワタさんと関わりのある出自の特殊児童であることと、「彼ら」を救うためにコノワタさんはカズトと名付けられたこの子とやはり特殊児童のひとりであるクニヨシくんを連れてアメリカに来たことと、俺はコノワタさんのそのプランに必要な要素ではないことと、そして、もうひとつ、思い出す。

 俺と同じ顔をした小さな子供も、あの「学校」にはひとり、いて、それが目の前にいて、俺はそれを連れていかなかった。

  人権を守られることのない存在、生まれては死んでゆく特殊児童たちを「すべて」救うことはコノワタさんにはできなかった。コノワタさんを咎めているわけではない。ただ俺は俺の顔をした子供を見捨てて置いてきたのだということを、時々思い出す。都度べったりと粘度の高い何かを心臓に塗りつけられたような気分になって足がすくむ。おそらく自分は全部間違った選択をしたのではないかと思う。救うべき相手を救わず、いるべき場所を離れ、間違った場所で間違ったように生きているのではないかと思う。子供が言っている。

「生きるってどういうことだかこの間話したでしょう?」

  うん、と俺は答える。

「この本、こないだ話したようなことが書いてあって、面白かったよ」

 そう、と俺は答える。本を受け取る。子供が帰っていったリビングで、本を開く。一ページ読み終わったところで、何を読んだのか理解できていないことに気づく。一行目に戻る。読める言語だ、と思う。読める言語だ。

 じゃあおかしいのは―― 


「家族という言葉を使ったのは不適切でした」

 ホテル暮らしを数か月。家を見つけて数か月。不適切な出来事に対処するために引っ越しをして数か月、もう一度引っ越しをして数か月。日本語で喋るより英語を使うことのほうが増えて、ややこしい語彙が増えて、不適切、依存、人権、日本にいたころ使ったことがなかった語彙が増えた。

 人権団体ヒノホシ。コノワタケーゴが特殊児童を救うために設立し、俺が末端に籍を置くことになった組織の名前に含まれる意味のひとつにはやはり世界という意味が含まれていた。世界。世界。世界。俺の世界はどこにあるのかわからない。

 「……謝って」

 俺より背が高いな、とぼんやり思う。いつもそう思う。俺より背の高い男を見るといつもそう思う。「すいません」と言う。隣の家に住んでいる男はコノワタケーゴの妻で(あるいは夫で)、「隣に住んでいる上司」に対して「家族のような」という言葉を使ったことに対してものすごくイラついていて、それは男同士の恋愛という繊細な問題に俺が土足で立ち入ったからなのだということは俺にはわかっていて、俺はものすごく冷えた気持ちで隣の家のリビングでうつむいて腰かけて頭を下げる。

「すみませんでした」

 まただ、と思う。

 何に怯えているのかわからない。でも自分は怯えているのだろうと思う。目の前の男は年上で俺より体がでかい。幼い顔立ちで何を考えているのかわからないし何も考えていないように見えるけどそうではないこともわかっている。怖い、と思う。腹がどんどん冷えていって、怖い、と思う。

「ショーゴさんは寂しいの?」

  目の前にいる男のことを俺はコノワタケーゴの「妻」として認識していて、そのことを考えるのが俺は怖いのだった。

「……アヤメさんは、ご両親はご健在ですか」

「うん」 

「仲いいですか」 

「まあ、そうだな、うん」 

「俺は親がいないんですよ」

  喉が渇く。


  タケル。


  俺はあらゆる人間に、親に関しては嘘をついてきた。中卒でも仕事にはどうにかありつけたし、仕事が忙しいので顔を出さないだけだと言って切り抜けてきた。それで切り抜けることができていたのかどうかは知らない。わかっているのはあらゆる人間が俺のその嘘に口出しをしなかったということで、だから俺は当たり前の親がいる人間であるという設定を貫くことができた、できている、できていたと思う。思う。思わなくてはならない。

  「家」がある。

 ごくありふれた、そこそこ広い分譲マンションの一室に、十八歳まで住んでいた。どう考えてもひとりぶんではない空間に、父親が帰ってきていたのはたしか六歳まで、母親はもしかしたら今でも戻ってくることはあるのかもしれない。父親は酒と暴力、母親は仕事と不在。六歳までは殴られて暮らしていた。意識が遠のくまで殴られると、あとから老女がやってきて俺に手当てをした。あれはたぶん祖母だったのだと思う。

 父親が両親から買い与えられたマンションで、父親は最初母親を殴り、母親は殴られる代わりに俺を置いて部屋をたびたびあけるようになったので、六歳までは殴られて過ごした。六歳、小学校に入るための手続きは老女が取って、父親は俺のランドセルを眺めて酒を飲んで、結果的には俺は三日学校を休んだ。父親を見たのはそれが最後だった。

 そのあとからだんだん俺は知恵がつくようになったから学校からもらったおたよりをダイニングテーブルに放置しておけばたいていのことは済むようになった。母親はおたよりの整理はちゃんとやっていた。あるいは老女がやっていた。どっちだか俺は知らない。俺はだれもいない家に住んでいた。それが当たり前のことだと思っていた。殴られなくなったのは嬉しかった。人がいない方が殴られなくて済んでいいと思った。 

 十五歳で中学校を卒業して、進学はしなかった。そのころには、生活するための金はほとんど父親の実家から出ていることも、母親がそれにほとんど手を付けていないことも、薄々知っていた。久しぶりに顔を合わせた母親が、ぽつりと、「あんた生まれてこなきゃよかったのに」と言ったことを覚えている。そうですか、と俺は思った。何を感じなくてはならないのかわからなかった。何かを感じるべきなのだろうとは思った。何を感じるべきなのかはわからなかった。 

 コンビニでバイト実績を積んで、不動産屋を言いくるめて部屋を借りて、ようやく家を出て、「自分の家」でシャワーを浴びて、そうしてようやく、自分の体に塗りつけられた汚物をようやく洗い流したと思った。洗い流したはずだった。 


  タケル。


  断片的な眠りの中に、夕暮れの部屋がある。俺の部屋だ。「自分の家」だ。タケルが大学生になったから、引っ越した。タケル。タケルとは「何者の名」なのか、わからない。コンビニの客が、仕事上がりを待って一緒に帰るようになった。家に来るようになって、たぶん「友達」になった。タケルは高校生から大学生になって、大学生になるタイミングで「同居人」になった。そうして俺はタケルに連絡を取ることから目を閉じて耳をふさいで口を噤んで、アメリカに行った。

  考える。 

 夕暮れの部屋に帰っていくタケルを、誰かが出迎えればいいと思う。

  それが、俺ではなければいいと思う。

  タケルは高校生で、バスケ部のエースで、頭が良くて、東大に行って、法律の勉強をして、政治家になるのだと言って、俺は、怖い、と思った、タケルが俺のことを好きなのが、怖い、と思った、タケルが俺のことを好きで、俺のことをなにか素晴らしいもののように扱っていることが怖いと思う。 

 断片的な夢の中で俺は階段を登っていく。生まれ育った「家」はエレベーターだった。だからこれはそこじゃない。俺はエレベーターのある家にあれから住んだことは一度もない。俺は鍵をあける。扉をあける。俺は小さな子供になっている。 

 あ。

  男の腕。


「……触らないでください」 

 心臓がばくばくと音を立てる。頭をなでていく男の腕がある。アヤメヨースケが俺の頭をなでている。俺より大きな男だ。心臓がひどく冷えている。 

「ショーゴさん、じゃあ、俺ら、友達になろうか」 

 アヤメヨースケは、コノワタケーゴの妻(または夫)は、コノワタケーゴと恋愛をしている、恋愛をする能力のある、恋愛をする男だ、アヤメさんがそう言った。友達って何ですか、と俺は言ったかどうかわからない。タケルのことを考えていた。 

  一年前、俺はタケルを置いて逃げた。 

 一年後、タケルはアメリカに本部を置く人権団体ヒノホシにメールを送ってきた。 

 すこしあとにはタケルは、俺より高い地位で、俺の同僚になっていた。 


 ――これまでの話、と、タケルが言う。

  はにかんだ子供のようにタケルが言って、高校二年生のタケルが恋をした話をする。恋がはじまったタケルは、やせたアルバイトの男のシフトを把握し始める。シフトに合わせて毎日のロードを調整する。目が合うようになる。笑いあうようになる。ある日俺が話しかける。そうだ。俺から話しかけたんだ。新商品のサンプルを渡した。そうだ。俺からきっかけの舵を切ったんだ。そうだ。タケルはにこにこ笑いながら「ショーゴさんから俺に話しかけたんですよ」と言う。

  高校二年生のバスケ部員は、毎日シフト通りにコンビニに顔を出すようになる。会話を交わすようになる。シフト上がりに一緒についていく。家に出入りするようになる。「ずっと一緒にいたら、俺のことを大切だって錯覚するでしょう」 

 タケルがそう言う。「ちゃんと錯覚してもらえたら、家族になってほしいって言おうと思ってたんです。俺が一番かっこいいと思ってもらえる瞬間に、省吾さんに錯覚してもらいたかったんですよ」

  タケルが言う。俺は遠くを見るような感情でタケルを見ている。タケルはかわいいな、と思う。タケルは俺より背が低くて、かわいい。学生の頃は頭を坊主に刈っていて、小さな子供みたいに見えた。天使、と俺は考えていた。俺の天使。タケル。そばにいてくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。いつも一緒にいてくれてありがとう。俺の家にいてくれてありがとう。タケル。 おまえの帰る家にいるのが俺じゃなければいいのに。

「でも、省吾さんが逃げたので」 

 ――ずっと、縁を切るタイミングを伺っていた。

  間違ったことだからだ。 

 タケルのようなただひたすらに優秀な人間が俺のそばにいるのは、俺を大切な人間のように扱うのは、壊れやすいもののようにやさしく扱って言うことを聞いてくれてわがままを言わせてくれて、甘やかしてくれるのは、間違ったことで、間違ったことなんだよ、タケルには未来があって、俺には。

  コノワタケーゴの声が聞こえる。 

(君は日本にいたころ、将来のプランを持ったことはあったの) 

 俺が答えている。これはいつか本当にあった問答だ。思い出す。 

(そのうち店長になるつもりでした) 

(それから?) 

(あとは、まあ、本部の意向があるので) 

(それは全くプランなんてものじゃない)

  あっさりとコノワタさんは俺の必死の十年を切り捨てた。そうだね。未来なんかねえよ。使い捨てられるまで本部の意向に沿って働いて、そのうち死ぬだけだよ。女は俺を嘘つきだって言うよ、適当に笑って嘘をつくしかないからっぽな人間だって言う。なあコノワタさん、俺には友達はいたことがないと言ったらそれは思い込みか誤解だと言ったのもあなたでしたか、でも、どうしたらいいんだ、俺はどうしたらいいんだ、じゃあ、どこから直せばよかったんだ、そしたら―― 

「省吾さんは逃げたので。だからもうまどろっこしいことはやめにしました。追いかけることにしました。アメリカだろうがどこだろうがどこだっていいよ、政治家だの官僚だのどうでもいいよ、日本の同性愛に関する施行をどうこうするために働くとか、将来とか全部、どうでもいい、ショーゴさんが落ちりゃなんだっていいんだよ、俺は、ショーゴさんが」

 「タケル」

  なあ、世界の、どこからどこまでを、俺は理解しないといけないの。 

「おまえ気持ち悪いよ。……タケル。好きだよ」 

 それを先に言ったのも、俺のほうだったんだよ。 


「友達って」 

 俺の声が震えていると自分でもわかる。笑っていないこともわかる。アヤメヨースケが俺の前にいて、「別にショーゴさんのことは嫌いだけど、友達ってことにしよう」と言う。何を言われているのかわからない、と思う。友達って何だ。 昔は知っていたような気がする。今はもうわからない。だってタケルは俺の友達だと思っていた。タケルは俺の友達だと思っていたから、俺は人間を好きになってもいいんだと思っていた。タケルは俺の友達ではなかった。

 友達って何だ。

「友達って何するんですか」 

「酒を飲みに行くとか?」 

「……酒は。ちょっと」 

「あー。ああそうか。じゃあ、昼飯行くか」 

「昼飯」 

 前を歩く男のうしろを歩いていく。飯を食っている。どうでもいい話をしている。唐突に気づく。俺はここにいたくないのだと思う。ここというのはでも、たぶんアヤメヨースケの前にいることではない。アヤメさんのことが俺はわりと好きだ、と思う。コノワタさんのことが俺はわりと好きだ、と思う。そういう問題じゃないんだ。タケルのことが好きです。でもそういう問題じゃねえんだ。ここにいたくない。 俺に価値がないからだ。 

 日本に帰れば? 

 帰りません。 

 →クニヨシくんのことが心配だからです。 

 →カズトのことが心配だからです。 

 →コノワタさんのことが心配だからです。 

 → 

 → 

 → 


 帰ってなにするんですか? 

 誰に連絡が取れるんですか? 

 誰がいるんですか? 

 俺に誰がいるんですか? 

 俺はどこに帰るんですか? 


  俺はどこに帰るんだ。


  知らない国だ、と思う。ここが、じゃない。この世界は、知らない国だ。俺の知らない国だ。

 とある知らない国のとある知らない朝に、タケルが俺の家にやってくる。

 奇妙なラジオ番組に出演していた夜が、本当のものだったのかただの夢だったのか、俺にはわからない。寝て起きたら枕元に置かれていたメッセージカードに書かれていた質問。たぶん全部悪い夢なのかもしれないなと思う。俺に価値がないこと、俺に価値がないとしか俺には思えないこと、俺に価値がないと口に出して言ったら叱られること。なあタケル、と俺は思う。俺に価値がないかどうかを決めていいのは俺だけなんだよ、そうじゃないか?

 「タケル」

  タケルが泣きわめいて「絶対に別れない」と言う。俺は笑って答える。

「なあ、地球が爆発するかタケルが死ぬか、選べって言われたら俺は、……考えたんだけどさ」 

「うん」 

「おまえは地球がなくなってもやっていけると思うんだよ」 

「……はあ」 

「あのね、そういうことなんだよ。おまえとはさよならしたほうがいいと思うのは、そういうことなんだよ。それでさ、おれは」

  俺はコノワタさんにたぶんなにかひとつ褒めてもらいたかったんだな。できることがあったのかな。何か。

  帰れって言われて、帰ればよかったのか。

  そうか。そうだね。 

「おまえをヒノホシに呼べてよかったと思ってるよ」 

 だってこの人たち有益な人間を集めて、有益な世界を救うんだからさ。 


 「あ、出た。どこいんの?」 

「あ、ええと、それは秘密です」 

「へーそうなんだ。元気?」 

「わかりません」 

「飯は? 食ってる?」 

「昨日は食いました」 

「今日は食ったん」 

「今日は食ってません」 

「もしかして金ない?」 

「ああ、はい。ないですね」 

「マジかよ。大丈夫? 飯困ったら連絡しなよ」

 「えーと、菖蒲さん、それは、連絡すると思ってますか、それとも、連絡してほしいって話ですか」 

「あー。連絡してほしい、かな。でもそれって連絡しないって意味か。えー。頑張って。つってもう頑張ってるか。死ないように頑張って」 

「死ぬプランは一応ないです」 

「マジかよ。じゃあ、頑張って」 

「はい」 


 上司と友達ともうひとりの俺と子供と元同居人に、手紙を書く。通帳とカードは置いていく。靴を履く。鍵をかける。鍵を隣の家のポストに手紙とともに入れる。エレベーターの扉が閉じる。目を閉じる。下降。 

「――愛と海のあるところ」

 黄泉の国を出る。 

 心臓を探しに行く。

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