目覚めのない夕暮れ

「あんた生まれてこなかったらよかったのに」

 そうですか。


 問題です。目の前で行われている行為を黙認すれば目の前にいる子供以外の全てが救われる。そして目の前で行われている行為を黙認しなかったところで目の前にいる子供が救われるかどうかはわからない。なにを行ったところで、目の前にいる子供は救われるかどうかわからない。どちらを選びますか?

 追記。そもそも自分は救われることはないと思って生きてきた人間は救われようとして行動しない。救われようとして行動していない人間に対して救いと呼ばれるものを与えることは正義か。

 問題は俺の場合、目の前にいる子供が自分自身のようにしか見えなかったということだった。

 その後「ヒノホシ」と名乗る組織によって「特殊児童」と呼称されることになる存在が関連した、日本国家全土を震撼させる大きさのその猟奇的事件に関して、俺が言えることはそれほど多くはない。俺にとってその事件はただただサイズが大きすぎた。そのとき俺にわかったのは、目の前にいる男が母親を殺そうとしているということだけだった。母親を殺すことによってしか、生きることができないと考えているということだけだった。

 俺はそしてその瞬間、目の前に自分自身を見ている、と、思った。

「母親を殺したいという感情はあなたの個人的な感情で、それによって誰も救われないということはわかっていますか」

 俺は尋ねる。彼は肯定する。

「わかっています」

「……そうですか。わかりました」

 部屋には五人の人間がいる。

 男は声を荒らげている。青年は怒っているようにも諦めているようにも見える。女は考えを放棄してしまったように見える。声を荒らげている男は革命が必要だと言う。

 青年は背を向けて帰っていく。考えを放棄してしまった女はそこに留まる。俺と革命家は小さな子供を連れて、母殺しの部屋をあとにする。異常に明るい夕焼けを見た。異常に明るいと感じたのはけれど、たぶん、錯覚だったのだろう。

 俺は小さな子供の手を握っている。彼は俺より背が高く、ダークグレーのスーツを着ていて、俺よりずっと立派な大人に見えるのに、うつろな目がただ革命家をすがるように見ている。俺は彼の手を握る。俺はそして自分が死んだのだということを理解する。革命家が電話を受けている。革命家は少し笑う。

 革命家は死んではいないかもしれない。でも俺はいま、死んだのだ。

 母殺しの部屋で俺は言う。

「そうですか。わかりました。それなら俺はあなたを見捨てることはできない。ついて行って、手伝います」

 母殺しを。

 革命家は死んでいない。青年は生きて帰った。俺は死んだ。おそろしく赤い夕焼けだった。


 人間と縁の薄い人生だった、と思っていた。でもそれは間違いだったのだと、あとになって気づく。一緒に暮らしていた男の子のことをときどき考える。ときどき旅行に一緒に行った先輩のことも。よくしてくれた上司のことも。彼らのなかで自分が死んでいればいいなと思う。そう思うのは君のエゴだと革命家は言う。俺はきかなかったフリをする。

 俺は生まれてからずっとへらへら笑って生きていて、それだけでどうにか人生をやり過ごしていて、嫌なことはないほうがいいなとぼんやり思っていて、家族が嫌いで、ひとりで食っていけるようにコンビニで働き始めて、役に立つ良い奴だと言われて、そうして唐突に、死んだ。

 現実には俺の肉体は死んでいなくて、俺たちは遠い土地にいる。革命家は革命をしている。小さな子供はいつまでも小さな子供のままのように見える。母殺しが終わらないことに戸惑っているように見える。俺は遠い土地にいて、最近は通訳みたいなことをやっていて、小さな子供と一緒に暮らしている。小さな子供は優秀な人間だけれど、不安そうな顔をする。俺は食事を作るようになった。そうして家族みたいなふりをして、俺たちはたぶんとても不安だ。母殺しが終わらないので、とても不安だ。革命家は革命を続けている。

「気持ちが悪いことを言うけど」

 俺は、いつまでも小さな子供のようにしか見えない相手に向かって、いま同居人として一緒に暮らしている相手に向かって、言う。

「俺のことを殺したくなったら殺していいよ」

 なぜ、と彼は尋ねる。

「俺いま、おまえの母親のつもりでいるから」

 おまえが母殺しをどうにかして、終わらせたくなった時のために、俺はまだここにいる。


 とある夜、帰ってきた俺の同居人は、俺がいつまでも戻らない部屋で、不安な夜を過ごしただろう。

 彼の不安な夜は、もう終わったろうか。

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