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自分の頭が悪いと思っていた、あるいは絵を描き続けた話その2

 確定申告を終えたんですが、いくらなんでも今年度の所得が完全に冷え込んでいるので、冷え込んでいるのは働いていないからだということもわかっているので、手帳を見返したところ去年の1月は16回ゼミをやっていた(※萩ゼミという名前で勉強会と相談窓口とフードのないバーをごっちゃにしたようなおしゃべりの時間をやっています)し、アクセサリーも作っていたし、文章もたくさん書いていたし、めちゃくちゃ活動をしていたことがわかり、めちゃくちゃ元気だったらしく、手帳にも四重丸くらいして「愛」とか書いてあるし、元気だったんだなと思うんですが、そう、そうです、今年の冬は全然元気ではなかった。

 書かないといけない原稿がいくつかあり、それはべつに締め切りがあるとかいう種類のものではなく個人的に書くと決めているだけの文章なのですが、アニメの感想とかプロットの書き方とかゼミでお話したことのまとめとかを描こうとして紙とペンを用意して、そして硬直している、ということが本当に毎日毎日続いていました。

 2015年にアニメの感想を書いたことでいわゆる炎上をして(アニメの感想を書いたことで炎上したの、いまだに釈然としないのですが)、いやなこともたくさんありましたがたくさん読まれたことでいいこともたくさんあり、生活できるくらいの収入につながり、それはよかったし、そのまま今年もアニメの感想を書くつもりでした。で、じっさい書いていて、そして途中になっていて本当に申し訳ないです。

 アニメの感想、アニメの感想なんですけど、アニメの感想を「読まれている」ということ自体がもうストレス、という反応が出るとは思っていなかった。2015年は「あなたが言っていることはわたしが思ったことと違う」とたくさん言われた年でした。「あなたが言っていることはそのままわたしのことだ」ともたくさん言われた年でした。リアクションがいただけたこと自体はうれしかったけど残念ながらどちらのリアクションもわたしの本意ではなかった。

 2017年冬はその頃のことをひたすら思い出していました。

 過去のいやだったことやつらかったことが追いかけてくる日常からひたすら逃げる方法を探していました。全力で遊んで、アルバイトも始めた。そして何も書けず人に誰かを与えたり教えたりすることがぜんぜんできなくなり、ひたすら絵を描いていました。

 ひたすら絵を描いていた話の続きの話をしようと思って書き始めた文章だったのです、今書いているこれは。


 自分のことを頭の悪い人間だと思っていました。

 でもブログを書いたりTwitterにいろんなことを書くようになって、「考える能力がある」という趣旨で褒めていただくことが増えて、結果として「考える能力」を金銭収入に結び付けるかたちで二年くらいどうにかすることができていたわけです。それは相当特殊なことだし、そういうのを「でもわたしは頭が悪い」の一言で済ませるのはなにか、なにに対してなのかはうまく言えないけどなにかに対して礼を欠いているのではないかという気はしていたんですよね。

 「わたしは頭が悪い」という漠然とした認識を具体化すると、「新規に把握しなくてはならない細かい情報を認識することが困難」ということっぽい。「勉強」を「細かいことを覚えること」だとするなら、わたしは「勉強ができない」のです。わたしは「勉強ができる」ようになりたかったので、いろいろな「勉強」にチャレンジしては敗北を重ねてきたのでした。

 なので絵の練習を始めた時は「勉強」はしませんでした。なにしろペンを持って文章を書くことがしんどいという状況だったので、ペンを持って紙に向かって何かを描くことからはじめた。効率の悪い始め方をした。効率の悪い始め方をすることがわたしには必要だった。

 で、たぶん、わたしに必要だったのは、絵を描くことそれ自体じゃなくて(それ自体の意味もあるんですけども)「そのやりかたじゃだめだ」とは絶対に言わせない、わたしはいま、まちがえたいんだ、わたしはまちがえるぞ、とはっきり自分に言い聞かせる時間だった、と、思う。

 たぶんわたしに限らず、精神のバランスを崩しがちで社会生活を送るのが下手ないろんな人がそうだと思うんだけど、失敗するのは怖い、失敗して怒られるのも怖い、自分が何をしたらいいのかわからないので怖い、何をしたらいいのかわからないのは怖い。わたしは長い間「何をしたらいいのかわからないので怖い、間違ったことをするのが怖い」と思っていたらしい。たぶんそれは子供の頃から「教わったことを把握できない、把握するための時間がもらえない」ので「把握していないことを怒られる」ことが多すぎたからではないかと思うんですが……。

 絵を描くのはよかったです。

 そもそもが絵に関するすべての記憶を忘れていたので、「今日できなかったことを明日はできるようになるかもしれない」は現時点の絵に関しては気休めではなくて本当のことだし、手を動かしたら動かした分だけ何かはできるようになるし、描いている間は絵のことだけを考えていればいい(というか絵のこと以外考える余裕は今のところない)し、描けなかったら何枚でも練習したり下絵を描いたりしたらいい、ということを、わたしは四か月かけてじわじわ学んだのだと思う。失敗はしてもいい。したほうがいい。


 自己肯定能力が低かったんだな~と思います。今でもまあまあ低い。認知の歪み~。

 去年の1月、すごく元気だったときでさえ、日記にこういうことが描いてあり、たしかにそうだけどこれを日記にわざわざ書いたということはわかっていなかったから書いたわけで……。

「たぶん、愛するというのは、自分を犠牲にして、とか、人のためになることを、とかいうことでは『なくて』どっぷりと浸かって自分が幸せで、自分にとって大切なこと、自分がやるべきだと思うこと、やりたいこと、だれのためにならなくてもそうしたいことなんだなーと思った、自分がやりたいことをやるというのが愛」

 好きなことをしな、失敗するとしても、間違っているとしても、っていうのが、去年少しわかって、去年ずっとゆっくり少しわかっていって、ゲームを通じてもう少しわかって、絵を描いてもう少しわかって、っていうのを少しずつ少しずつ育んでいて、それが自己肯定能力を高めるということなんだろうと思うんだけど、まあ、ゆっくりやるしかないですね、と思います。


 こういう文章が書けるようになってきたので、わたしの硬直した冬もようやく終わりつつあるのだと思いたい。プロットについて書きたい。物語を作る話をしたい。それはそうとゲームの話もしたい。そして絵を描く話もしたい。いろんな話がしたい。

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