駅の老舗チェーンのかけそば
とにかく俺は疲れていたし、腹を立てていたし、疲れていたし、疲れていた。胃薬も飲んだし、こういうとき常に飲む漢方薬も飲んだ。効果は覿面で俺はその電話に冷静に出ることができた。「よう十八歳」と彼は言った。畜生。
特別問題のある親子関係だったとは俺自身は思っていないのだが、母子家庭で育ってさほど親子の縁が密接ではない場合、こんなものではないだろうか。縁が密接ではないとはいえ母の友人の紹介でその店で働き始めたとき女のあしらいがうまいとは言われた。それはまあ家族に女がひとりいるだけなら女のあしらいに長けるのは当たり前だろう。
そういう俺の自分語りのすべてを、この男は全部まとめて「だから論拠があるって言いたいわけ?」とへらへら笑って片づける。
わかってほしいとまでは言わないが、情報共有はされてしかるべきなんじゃないのかというのが俺の意見だ。彼がそう思わないのは知っている。かくして俺は裏取引をして彼の情報を拾い集めることになる。先輩は言った。「アガサ・クリスティを読みなさい」
一応読んだ、と報告すると、ハイハイエライネ犬かよと言って彼は俺の頭を撫でた。あのさあ。あのさあと言いたいのはこっちだったが彼のほうが先に言った。
「そういうのはさあ、秘密にしとけよおまえさあ、あのさあ、情緒ってものがない、情緒がない、もののあはれってやつが、おまえにはない、文学部だろうが」
「やってたのは語学ですよ」
「でもアレだっておまえとおなじゼミじゃん?」
これだよ。
彼の言うこの、アレ、という指示語は固有名詞で、それを俺は心底嫌っているが、その固有名詞のさすものに関してはその限りではなかった。俺はけっきょく「ソレ」にすがらないでは彼との関係ひとつうまく維持できないし「ソレ」は俺の雑なふるまいに(いつもながら)真正面からカウンターをはじき返して――
「……今先輩、どこにいるんですか」
先輩は目の前の男の幼馴染で、俺の大学時代のゼミのふたつ年上の先輩だ。がちがちに固まっているほかの同期とは違って高校からアルバイトをしていた俺はもう飲みなれていて、アルハラですよとかなんとか生意気な口を叩いたのだと思う。正直そのあとに起こったことが衝撃すぎて俺はあまり前後のことを覚えていない。この男は全然同窓生ではないのだがというか大学なんか行ったことないし学校で何かを学んだかどうかすら怪しいのだが、とにかくそのなかにしれっと混ざっていて、俺に向かってにっこり笑って言った。「おまえかわいいねえ」
半分くらい、黙って飲めという意味だったのだということはわかる。
その後起こったことについては深く触れないでいただきたい。若さゆえの暴走、不覚の致すところだし、朝帰りになろうが唐突に昼に捕まるとわかって午後の講義を全部捨てようが俺はひとつも単位を落とさなかったし勤め先だって上場企業だ。ていうか、日本語教師になって東南アジアとかで悠々自適に社会貢献とかしたい、みたいな俺の夢は、この男の微笑みひとつで全部ぶっ壊れた。第一に東南アジアにこの男はついてきてくれないだろうということが大学一年生のうちに理解できた。第二にこの男は日本にいてすら俺の願い通りの行動はとらないだろうということが二年生のうちに理解できた。第三に、この男を俺は全力で忘れるべきだということが、三年生のはじめ、全力でわかった。
というわけで俺はそこから猛烈に努力をした。
生まれてはじめて彼女もできた。
全員、「マジメだね」と笑って言って、「マジメだね」と泣いて終わった。
「最近先輩にあだ名を奉られたそうじゃないですか。うらやましい」
「おまえもたぶんつけられてると思うよ」
「そっちじゃない。俺もあんたにあだ名をつけたい」
「つければいいじゃん」
「つけたから何だっていうんですか」
「呼べばいいじゃん。十八歳、お茶おかわり」
「あ、はい」
返してから、俺が十八歳でバイト先ではないのだということを思い出したがもう受け取ってしまっていた。俺がバイトしていたころから働いていたパートさんに手を振る。俺は母親というものに母性をあまり感じないし、食事というものは適当なものをコンビニで選んできたらそれでいいという母の意見に全面的に賛成していた。十八歳の時デブだった体重を落としたら価値が下がるだろうかそれともそんなことにこだわるのはいわゆるめめしいというやつだろうかと俺がさんざん懊悩したことをこの男はおそらく知っている。
知っていたから何だと思うが絶対知っている。
何の話だ。
ここの飯は俺にとって母以上におふくろの味であって、いつもにぎやかな店内も、古臭くさいけど親しみやすい店内のようすも、そして客前では絶対に明るく笑うパートさんたちもみんな、俺は好きだったし、だから、俺は、俺の、俺の好きなこの店を、あんたがな、あんたが、クソ、畜生。
「おまえの選ぶ飯は昔から文化程度が高いよね」
かけそばを大事そうに食べている丸まった背を振り返ったとたん俺はもうだめだった。かろうじて言った。
「皮肉ですか」
「だからなんでそういうこと言うわけ? こっち戻ることあったらこれ食おうと思ってたんだよ、おれここのそばがそばんなかで一番好き」
「べ……っつに、普通でしょ」
「好き」
馬鹿野郎。
「知ってる?」
「知るか」
「どしたの不機嫌だね、あのさあ、ここの社長令嬢がアレのかーちゃんの高校の同窓生でさあ」
知るか!!
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