憎悪の取り扱いのこと

 人生にはいろいろなことがありまして、わたしは2016年から有料で小説技法の講座をはじめました。そこで口を酸っぱくして言うんですが、「いつものこと」と「いつもどおりではないこと」の差分を認識する能力をまず鍛える必要がある。物語とは「いま、いつものことだと思っていること」から「何かしらのいつも通りではないこと」へ移動することです。それさえ描かれていればAからBへ移動するまでもなくAからAダッシュにほんの少し移動するだけで物語というものは成り立つ。

 さて、物語の構造とはそういうものなんだけども、この「いつも通りの出来事」と「いつも通りではない出来事」を認識することは結構いろいろなことに役立ちます。というわけで憎悪の話。

 「いつも通りの出来事」はなにをしたらいいのかわかっていることなので、刺激がありません。対して「いつも通りではない出来事」は「いつも通りではない」という刺激があります。刺激を受けるとなにかを感じる。

その感じることが悪い方に振れることが「ストレスを感じてつらい」状態です。仕事でもアニメでも友達と遊ぶんでも、刺激を受けることがつらい状態なら、楽しいことでも悲しいことでも一律にストレス。

 刺激を与えられてそれに対する反応がマイナスに振れるときの感情を「嫌悪」とした場合、これが蓄積して思考のパターンとして「この刺激は憎むに足るものである」と判断を下し始めることを「憎悪」と、ここでは呼びます。

「思考のパターン化」を「思考停止」と言います。でもわたしたちは日常的に思考停止しながら生きています。「いつも通りの出来事」とは「思考停止状態で生活できること」です。思考停止は一概に悪いことではありません。朝起きる、朝ごはんを食べる、歯磨きをする、おなじ電車に乗る、ルーチンワークとしてこなせている人はたくさんいると思うし、そこに「わたしはなぜ仕事に行かなくてはならないのか?」という思考が入り始めたらそれは仕事をすることが非日常になりつつあるということだと判断していい。突き詰めるとそれは仕事が今の自分に適していないという判断につながるかもしれません。

 思考停止していられるのは幸福で円満なことです。

 でも問題は、思考停止をしているために、ほかの誰かのストレスになっていないか、ということです。望んでそれをするのは一つの選択ではあるし、あらゆる人が円満に日常を行うことは多分不可能なんですが、でも、思考停止をやめること、「これは憎むに足るものである」という判断をただそういうパターンだからというだけの理由で取り扱い続けること自体を疑ってみる、思考をしてみる、ことによって、あるいはもっと円満な解決はあり得るかもしれません。憎悪を取り扱うということは、それが本当に憎悪するに足るものなのかということをチェックし続けるということでもあります。

 刺激の話に戻ります。マイナスの刺激に対する反応のいきつくところが憎悪であるという話はしました。大事なのはここで、「刺激を受ける」ということは「ストレスである」ということと「快楽である」ということの両方として成り立ちます。快楽である以上、それは当然、依存性があります。とくに憎悪は自発的に感情の振れ幅を調整することができるために、「過剰な刺激」を自発的に作り出すことが可能で、それを快楽として受け止めるなら「簡単に手に入って、効果が大きい」、とても効率のよい快楽である、ということになります。

 憎むこと自体が目的になり、エスカレートしていった結果として、自分も、またその憎悪に巻き込まれた人も、欲望についていく体力がなくなって疲弊する、ということは往々にしてあります。刺激的な生活は疲れるものです。疲れた結果「何も考えなくていい快適な生活」がまるごと全部なくなる、ということもありえます。

 憎悪は思考停止です。思考停止自体は「快適な生活」のためになくてはならないものです。でもそれが「快適な生活」を飲み込んでめちゃくちゃにしてしまうような種類の思考停止だった場合、ほかならぬ自分の生活を守るために、「これを憎んでいるのは、何がきっかけだっただろう」「その刺激を受けたくないと拒むことはできるか」「できないなら、拒むためにどう行動したらいいのか」というところから、積み上げなおしてみるのも大事かもしれません。


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