「純文学」の定義はなんだと思いますか?
「純文学雑誌に載っている以外のもので、とのことですので、そのような定義として、個人的な見解を述べたいと思います。
先日、ちょっとろくでもない経緯で、「文学」という言葉が話題になった件がありましたが(あえてリンクは貼りませんが)、その件およびその周辺の話題を見ていて思ったのは、
「文学とはそもそも、小説である必要も、文章で書かれたものである必要も、ないのではないか」
ということです。
たとえばわたしは「青年の行き場のない懊悩」のある種の形態を指して「文学」と呼びます。わたしのなかで文学とは小説である必要はなく、詩歌を含んだテキスト作品である必要もなく、フィクションである必要もなく、ただ「文学をやっている」という種類のものです。
わたしが「文学」と呼ぶものは、たとえばひとつの懊悩に対してあるいは真剣に向き合い、あるいは逃げまどいながらも向き合わざるを得ず、固定観念や作劇の「王道」や、常識やカテゴライズと戦ったりそれから目を背けきれずに逃げたり向き合おうとあがいたりするその冒険の経緯を「文学」と呼んでいます。それは内容が懊悩であるということではなく、文体でも、作風でも、挑戦と冒険が含まれていれば何でも構いません。
しりあがり寿はわたしにとって文学ですし、アニメおそ松さんも(特に一松くんが)文学でした。古典芸能にはあまり文学を感じないのですが、古典芸能の世界で新しいことをしようとしている人の姿勢にはしばしば文学を感じます。
それの、特にその方向に特化したもの、挑戦と冒険に特化することが目的で、作劇としての安定感やキャラクターの魅力よりそちらを優先している作品を、純文学として認識しています。
これとはまた別に「詩(ポエジー)」を感じる、あるいは「芸術」を感じる、という側面もあるのですが、その話はまた別個で。
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