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家を出て行った父親と娘の往復書簡

最近、大学を卒業して社会に出た娘と文通をはじめました。


家を出た私と二人の娘の話を少々

私は51歳で、娘は24歳と23歳になります。
彼女らが高校生の時に、離婚をして家を出ていて、5年ほど会っていませんでした。だから、彼女らの大学時代というのは全く知らなくて、5年ぶりに会ったら、化粧なんてしているので驚きました。

離婚した理由ですか?違う世界を見たかったんです。まぁ、詳しいことはいずれ。

5年ぶりに会ったのは、大学の4年(長女は一浪)で、就職も決まっていたので、普通の家なら子育てが終わったということになるんでしょうか。親はなくても子は育つというのは、親があれこれ言わなくてもという意味で、本当に親がいないと子どもは育つのが大変でしょう。娘を育ててくれた彼女らの母親には感謝しなければなりません。

ただ気がかりなことは、彼女らの就職先が学習塾だったことでした。会社は違いましたが、両方とも大手で経営は安定しています。世の中、働き方改革で制度なんかは整っていますが、厳しい職場だというのは知っていました。

私はフリーのコンサルタントの仕事をしていて、学習塾にも出入りをしていたので、夜が遅いことと(夕方から授業ですから)、若手は慣れるまで仕事終わりの予習と復習で寝る時間がないことを見ていました。

もう、家族でもない身なので、考え直せとも言えず、「がんばれよ」と言いました。

5年ぶりに会ってから、たまにLINEでやりとりができるようになりました。しかし、彼女らの母親は私に会わせたくないようだったので、内緒にしていたようですし、頻繁なやりとりもありませんでした。

仕事どう?
がんばっている。

というようなやりとりです。

社会人1年目の年末に長女からメッセージが来て、「会社をやめる」と伝えられました。すでに次の就職先も決めているようで、かつてパニック発作を起こしていた姿はなく、強くなったと感心しました。パニック発作の主たる原因は僕で、勉強のことや将来にことを厳しく言っていたことはプレッシャーになっていたようです。新しい仕事はアパレルで、こちらも給料などを考えればどうなんだろうかと思いましたが、報酬を優先するのは私の趣向でしょう。

好きな仕事をするという選択肢もあるのです。


二人の娘が精神科に通うということ

長女のパニック発作は、数年間続いたようで、残された家族は大変だったと後で聞きました。

とはいえ、今は元気になっていますし、こちらとしては遠くから見守るしかありません。見守るとなんて言うと立派な感じに聞こえますが、実際のところ、私は離婚後、彼女を作っては別れるということを繰り返していたので、正直なところ、娘のことを考えていたわけではありません。

よほどひどいことをしたのでしょう。S N Sで私がやった仕打ちを暴露されるなど、人格者とは程遠い生活をしていました。フリーランスでもあるので、仕事の浮き沈みも激しく、お金のことばかり考えていたように思います。

そんな時に、何がきっかけだったか忘れてしまいましたが、次女と食事をすることになりました。彼女は頭のいい子で、一度だけ私立中学の授業参観に行ったことがあります。担任の先生から「どうすればこんなにいい子が育つんですか?」と言われたことを覚えています。周りはお母さんばかりで(母親は長女の参観に言っていました)、気恥ずかしい気がしつつも、誇らしい気持ちになりました。しかし、その時、彼女が教室でひどいいじめにあっていたことは先生すらも知りませんでした。もちろん、私がそんなことに気づくはずもなく、彼女は3年間、一人で耐えていたのです。そんなことを知ったのも食事の席でした。

家にいた時から、娘との距離感がわかりませんでした。まぁ、思春期の娘と父親なんて、そんなもんかと思っていましたが、どうやら私の関心が仕事ばかりで(もっといえばお金)、彼女らに向いていなかったことが原因だったと思います。

ですから、次女と二人で食事をするのははじめてのことでした。

次女は小説が好きなので本のことを話しながら時間は過ぎましたが、彼女は思い詰めたように「仕事辞めたらダメかな?」と切り出しました。

私は家にいる頃、はじめことをやめることを「ケツを割る」と言っていたので、次女は、私から厳しい言葉が返ってくると予想したのでしょう。

私があっさりと「別にええんとちゃう?」と言ったので、娘のほっとした顔は忘れません。

実際、仕事を辞めたところで人生どうとでもなることは自分の経験からわかっています。フリーで仕事を始めてから、履歴書なんて書いたことはありません。私のクライアントは、私の学歴や職歴を知りません。彼女の顔を見ながら、昔の私はなんと融通の効かない人間だったのかと思いました。

その日は、それで別れて、その後、連絡が来て、「辞めずに、もう少しがんばってみる」とのことでした。

心配した私は、彼女の就職先を探していました。と言っても、知り合いの会社に求人はない?と裏口就職を斡旋してもらおうと考えていたのです。

その時から半月後に母親から連絡がありました。いい知らせのわけがありません。

次女が適応障害で会社に行けず、休職しているとのことです。またしても、心が壊れるまで一人でがんばってしまったんですね。

誰にも内緒で心療内科に通っていたそうです。誰にも言えなかったのは、長女も次女も心療内科にお世話になっているのは、母親に申し訳ないと思っていたのだそうです。母親の子育てを否定したくはなかったのでしょう。

私が、家にいる時「心を病む人間は弱い人間だ」と言って憚らなかったことも原因でしょう。

親は子どものことを何も分かっていないですね。

またしても、一人でがんばらせてしまいました。


娘との文通

私は、次女と文通を始めることにしました。会って話をするよりも効果的だと考えたからです。文通と言ってもやりとりはメールです。
Wordで手紙を書き、添付してメールで送り、返信を書き、またメールで送るというものです。
毎回A4に2〜3枚ほどの手紙を3〜4日ごとにやりとりをしています。

次女は小説家志望なので、一緒に何かを書けないかと思ったことがきっかけです。私も本を数冊出版させていただいているので、文章を書くことは苦手ではありません。

昔に、「冷静と情熱のあいだ」という作品があって、離れた二人が、その間のことがそれぞれの視点で描かれていました。辻仁成さんと江國香織さんがそれぞれの人生を担当していました。というような作品を目指したのですが、あまりにもハードルが高いので断念しました。

そんな時に、三島由紀夫さんの「レター教室」という作品に出会います。

古い作品ですが、手紙のやり取りだけで、小説にするという手法は斬新でした。

そこで、私は次女に往復書簡を持ちかけ、文通がスタートしました。

やってみて思うのは、私と娘にはこのコミュニケーションが合っているということでした。

往復書簡を通して、彼女の考えていること、そして適応障害を克服した後の夢について教えてもらうことができました。


父親に娘との文通をすすめる理由

もし、娘さんとのコミュニケーションに悩んでいる父上がいらしたら、娘さんに手紙を書くことをお勧めします。そして、手紙を読んだ娘さんから手紙で返信をもらうといいでしょう。

手紙の良さは、

・やりとりが平等である
・考えて書く
・相手を想う時間が生まれる

ということなのですが、片方が一方的に話すこともなく、相手の言葉に感情的になっても、頭を冷やす時間があります。

あなたの知らない娘さんがいることがわかるし、娘さんが知らないあなたのことを伝えることもできます。

私がこのようなコンテンツを残そうとしているのは、一人でも多くの人に家族について考えるきっかけになればいいなと考えたからです。


家族であり続けることはできるが、家族であるためには情が必要

家族とはなんでしょうか?

強い絆で結ばれている反面、その絆は紙1枚のものででもあります。紙1枚の署名をすれば、家族になることもできるし、紙1枚に署名をすれば、家族は解散することもできます。

家族には夫婦という関係性と親子という関係性があります。夫婦という関係性を解消した段階で、自動的に親子の関係も解消されます。残るのは情だけです。

情というのは、人間の心の働きで、なんと言えばいいのかうまく説明ができません。

家族を捨てた男として一生恨まれるもの情でしょうし、この世に命を育んでくれた人というのも情でしょう。言えることは、愛とは違うということです。

そして、もうひとつ言えることは、家族は形式ではないのです。家族が家族であることは当たり前ではないのです。

家族になるためには紙1枚に署名をすればいいのです。離婚届という書類に夫婦が署名をしなければ家族でいることはできます。そこにどんな情があるのでしょうか。

夫だから妻に横柄な態度を取る
妻だから権利を主張する
親だから子どもに指図をする
子だから親に反発する

もし、「だから」がなくなったら?

「だから」をなくした時に、残るのは情であり、それが家族であることから、家族になるための絆になると思うのです。

私には「家族だから」というのはありません。

娘との往復書簡は、情のやりとりであり、私にできることは彼女らの味方であり続けるだけなのです。

家族は味方。

奥さんに、息子さんに、娘さんに家族でいてくれることを感謝する。
君たちが娘でいてくれて、私を父親にさせてくれてありがとう。

手紙だったか言えるかもしれません。

愛してるって。


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