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僕と母と小鳥とピアノ 1 方治

 僕は楽屋の片隅に座って、リハーサルで対面したピアノを思い出していた。やはりスタインウェイはすばらしい。ライトに照らされた彼に近づくとゆっくりと、世界が広がっていくようだった。僕の指を吸い付くように鍵盤が呼応する。転がる音をまざまざと撫でまわしたあの触感。また味わいたい。迫るコンクールの一次予選が待ち遠しかった。彼が僕を待っているようだった。

 舞台袖にあがると、演奏を終えた人が泣きじゃくっていたり、卒倒して演奏できずに搬送されている人がいた。ああ、ここは戦場だ。あの向こうに僕の愛しい人がいる。

 おずおずとステージにあがると、リハーサルとは違う空気に違和感を感じた。足音だ。観客のいなかったリハーサルの時と音の響き方が違う。カツカツと響いた足音が重くどんよりしている。湿度が高いのか。ピアノの前に立って客席を見た。2階席の右手の出入り口。人が滞留して、立ってみている人がいる。音がよどんでいる。あそこに音を運ぼう。

 椅子に座ってゆっくりと鍵盤に指をおいた。課題曲はショパンのプレリュードだ。深く深く沈もう。重く響く音をさらに重く弾く。落ち葉が積もった土に雨水がゆっくりと染み入るように。

 このスタインウェイは、こんなピアニッシモにも揺らぎながら響かせるのか。

 ぞくぞくしながら、音を探る。
 一瞬のひらめき。
 葉にたたえた雫がこぼれるように響く。

 とらえた!

 一斉に鈴が鳴り出すように、山野が動き出した。

 次曲のポロネーズでは、世界が祝福に溢れていた。喜びの雨が鳴りやまない。歓喜のまま演奏を終えて立ち上がると、圧倒的な拍手に包まれた。これは、僕への称賛じゃない、聞いてくれた誰もが持つ美しい世界への感動だ。ゆっくりと礼をすると笑みがこぼれた。

 演奏が終わると、急に不安になった。先生が一番嫌う演奏をしてしまったからだ。いつも言われていた。作家の意図を無視してはいけないと。僕は、またしても独りよがりな演奏をしてしまった。ざわざわとする。郷里のブドウ畑がよぎる。僕は、僕を育ててくれたあのブドウ畑を演奏していたのだ。そう気づくと、無性に母の声を聴きたくなった。

 カバンから、小鳥をとりだした。それは、家をでて音楽の道に進むときに母がくれたトイボットだ。モフモフした小動物が好きな母らしい贈り物だ。トイボットに話しかけると、母に接続する。年老いた母の安否確認だから、といって笑って僕に渡してくれた。

「母さん、母さん」

呼びかけると、グルッポウ、グルッポウといって、応答を待つ。いつもなら、2,3回で接続するのだが、今日はおかしい。まったく接続しない。晩になっても、接続しない。これは、なにかおかしい。母の携帯に電話をした。電話にでたのは男の声だった。

「ほ、方治か?」
「あ、はい、母は、、、母の携帯では?どなたですか?」
「おれだ、おじきの誠二だ。」
「え、誠二おじさん?」
「ちょっと、まて、かけなおす。」

 そういって、一方的に電話を切られた。不安で目の前が真っ暗になる。母になにかあったに違いない。

 しばらくして、すぐに電話が鳴った。
「ほうちゃんか?」
懐かしい声、誰だかすぐにわかった。
「たけ兄!」
誠二おじさんの息子。従兄のたけし兄ちゃんだ。
「ほうちゃん、今コンクールじゃないのか?」
「うん、さっき一次予選が終わって、二日後に結果が出るんだ。」
「そうか、」
僕は、重い空気を感じながら聞いた。
「たけ兄、母さんは?」
「清美おばちゃんな、今朝、息をひきとったんだ。」


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