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輪郭をなぞる音

「おーい!いよいよ、始まるぞ。VRゴーグルとヘッドホンつけろよ。」
その掛け声で、おのおの席について演奏を待った。ゴーグルを装着すると、外界を遮断する没入感。白い空間に演奏会のタイトルが、粒状に浮き上がっては離散していく映像が映し出されていた。

『輪郭をなぞる音楽会』

演奏者の名前と演目の曲名が表示されている。

「あ、塔矢先輩だ。」

指揮者として記載されている名前に懐かしい気持ちが沸き上がってきた。

開始合図のブザーが鳴ると映像は、暗転した。

拍手とともに開けた映像は、舞台袖からスポットライトのあたる指揮者台にむかう視点だった。
「これは、塔矢先輩が見ている映像なのか。」
観客席に目線がうつされると、わずかな明かりに照らされた客席から期待のまなざしが向けられていた。蛍のような灯りが飛び回っている。VR映像が重ねられているのだ。

 オーケストラに向きをかえると、コンマスに目配せをして、視線が大きく動いた。

 ドボルジャーク「新世界」

 オーケストラの背後に映し出されたのは、点描化された人がまだ踏み入れたことのないかのような生の大地。大音量とともに解像度をあげて姿を現しだす。迫りくる映像に風を感じる。圧倒的迫力に身動きがとれない。
 フレーズごとにメインのパート奏者に視線をうつす。うなずくように、モチーフが奏でられる。曲の骨格をつかむように焦点が絞られる。部分と全体が渾然一体となり、曲が動き出す。
 臨場感を最大限に演出しているのは、音だ。ヘッドホンを通して聞こえるその音は、低音部は右から、高音部は左から。指揮者に向けてなげられた音の数々。これは、塔矢先輩が聞いている音そのものだ。

 高性能人口鼓膜をもつ塔矢先輩は、その聴覚情報を外部出力することができる。聞こえている音を録音して、音声配信しているのだ。

 その聴覚情報に視覚的VR効果を付加したのが、本演奏会の趣旨であった。キース・ジャレットのケルンコンサートや、グレン・グールドの録音業績に匹敵するのではないかという前評判であったが、その期待はいい意味で凌駕されていた。

 まさに、新世界。塔矢先輩は、その第一線をいま疾走しているのだ。
もう、私の知っている先輩ではない。遠い存在に涙が溢れそうになっていると、演奏は第二楽章にうつった。

「遠き山に日は落ちて」

夕暮れの練習室で、先輩と取り留めない話をしていたのを思い出した。
私の先輩だ。私だけのとっておきの思い出だ。

涙がとめどもなく流れていくのがわかった。


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