見出し画像

遠くから聞こえる音

 夕暮れになるとどこからか鐘の音が鳴り響くような気がする。ミレーの絵画のように、持っているすべてを地面に置いて、こうべをたれて目をつむりたい。祈りとは、なんだろう。今日を生きのびた感謝だろうか。誰かの幸せを願っているのだろうか。明確な答えもなく、容赦なく橙色に染まる世界にひれ伏してしまう。当然の幸せに満たされるていく。あらがいもできずに。

 塔矢は、疲弊していた。夕方には、もう許容範囲を超えてしまう。身の回りに溢れる音の渦に思考も感情も擦り切れるようであった。
「助けてくれ。」
そう呟きながら、大学構内に逃げ場所を探していた。

 1年前、不慮の事故により鼓膜が破断した。ヴァイオリン奏者を目指していた塔矢にとって、生命よりも大切な聴覚が失われようとした。最先端の技術をもとめ病院を転々とし、人工鼓膜技術と出会った。それにより、絶対音感をしのぐ繊細な周波数をも感知できる能力が得られる。音楽家としてそれが良い作用をもたらすか、悪い作用をもたらすかわからなかった。失われた聴覚を取り戻すためとはいえ、新たな境地がひらける可能性への賭けでもあった。

 しかし、日常生活において高性能な聴力に耐えるのは、至難であった。

 ドアがきしむ音、電車が走るのレールの音、ひずんだアナウンス、甲高く笑う声。そのすべてが、不協和音となって頭につきささる。病院でリハビリをした後大学に戻ったものの、学舎に鳴り響く音で神経がすり減っていった。

 束になって襲ってくる音から逃げるように学内をさまよっていると、にぶい音が聞こえた。近寄っていくと、セロを練習している部屋にたどり着いた。

「すごい下手くそだ。なんだこのピッチの外れたバッハは。」

 ぷぷ、と笑うと、セロを弾いていた人がこちらにきづいて、手を止めた。

「だれ?」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?