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身体性をともなう


前回、前々回の記事では、SF小説のプロットとして、断片的にシーンをおこした。


 人工鼓膜を持つ音楽家が、高性能聴覚能力に葛藤しながら、技術とともに成長していき、指揮者として聞こえている音を配信していく物語を創作した。

 現在、聴覚障害の方のため人工内耳技術が進んでいる。それは、体外受信装置から発せられる電気信号が蝸牛に伝達され、聴神経を経て脳に到達するものだ。大変なリハビリが必要だと聞く。
 今回小説で描いた人工鼓膜は私の完全な創作である。人口鼓膜から受信された情報を外部出力するというのはフィクションであるが、現実に実施されている人工内耳技術も意識しなければいけないだろうと留意している。障害を技術によって健常者と同様な能力に補完するだけでなく、技術によって広がる世界があってもいいのではないかと考えている。

 また、情報技術の身体性というテーマも描けたらと考えていた。前回記事で、キース・ジャレットのケルンコンサートとグレン・グールドの録音業績について、わずかに触れた。どちらも素晴らしい作品で、作中に登場させて比較するのはおこがましいとためらった。しかし、数多あるライブ音源の中でも、とりわけ演奏者の身体性が伝わってくる名盤だと思うと、つたないながら物語で奏でられている音楽を表現するのに必要だと考えた。キースの息遣いとともに緊張感あふれる即興演奏。グールドの羽ばたくような超絶技巧やためいきのようなアダージョ。呼吸を感じる。何度も繰り返して聞くことのできる喜び。試行錯誤して発展してきた情報技術の恩恵だ。

 グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲の音源は3つある。
一つ目は、LPデビュー盤(1955年)。これは、モノラル音源であった。
二つ目は、グールドが生涯を閉じる直前に録音された(1981年)デジタル録音。
そして、三つ目は、グールドの没25周年記念盤として録音された(2006年)ゼンフ・リパフォーマンスだ。

 前2作品の芸術性の高さは言うまでもないが、とりわけ意識したのは三つ目のゼンフ・リパフォーマンス版だ。

 ゼンフとは、コンピューターソフト名である。リパフォーマンスとは、ゼンフを使って、1955年に録音されたゴールドベルグを解析し自動演奏したものだ。内部のハンマー一つ一つに駆動させる装置を取り付けた自動演奏ピアノは、表面上演奏者がいないのに勝手に鍵盤が動くように見える魔法のような技術だ。駆動させるプログラムはデジタルではあるが、音源として出力されたものはアナログである。モノラル音源だった1955年版が高音質で聴ける画期的な取り組みであった。

 全曲30分程度の演奏だが、2パターン収録されている。
一つは、通常のステレオ音声。やはり1chのモノラル音声より左右が独立している2chのステレオ音源は、深みがある。
もう一つは、バイノーラル録音だ。自動演奏するピアノの前にダミー人形を置いて、ヘッドホン型のマイクで録音したものだ。

 初めてバイノーラル録音をイヤホンで聴いた時の衝撃をどう表現したらよいか。目の前に鍵盤が浮かび上がって、今まさにグールドが演奏しているかのような音響。その感動。

 私は、仕事で建築設計に携わり、2次元CAD、3次元パース、VR(バーチャルリアリティ)に慣れ親しんでいる。映画マトリックスは大好きだし、趣味がこうじてSF小説を書き始めている。その私のVR体験の原点はなにかと聞かれたら、ゼンフ・リパフォーマンス版と答えたい。

小さい私が、ピアノに夢中だったあの頃の私が、
グールドの膝の上にのって、彼の演奏に魅入っている。
そんな幻想をいだいてしまう。

それが、身体性をともなう情報であるとしたら、2006年ゼンフ・リパフォーマンス版のゴールドベルグは、これからの技術に必要な感性を教えてくれるように思う。
 

 ビッグデータをもとに発達するシステムがあるように、個人をより深く解析して発展する技術にも大きな可能性がある。プログラム記述がより使用しやすくなり、個人が自分自身でカスタマイズしていくようになるのだろうか?

未来を想像するのは、やはり楽しい。


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