聖書研究について
キリスト教の聖書研究とはなにか、チャットGPTに聞いてみました。
この場合の、つまりおそらく一般的な意味でのキリスト教の聖書研究とは、キリスト教が何かということの社会的合意が成立しおわった前提でいろいろ研究したり思索にふけったり教えられたりするものなのですね。予想の百倍ストイックで千倍誠実な世界がそこにありました。
世界史の教科書で見たニケーア公会議とか異端審問とかそういった時代の、キリスト教徒は何かという部分から研究するような行為かと思って勘違いしていました。
でもまあ、実際に自分は聖書研究をやっていると公言している人をネットで探すとカルトっぽい人も多そうですね。こっちは私のイメージに近い。自分にとって都合の良い文章をどこかからかとってくるような蛮族。
上記のストイックなチャットGPTの聖書研究リストをみると「探る」「理解する」「学ぶ」「探求する」「考える」ことをするとありますね。これは単独でする行為なのでしょうか。公に学問や研究や教育としてやる以上、仲間内での議論などがつきものになりそうです。そうすると三位一体説を否定する蛮族どもを拷問して処刑していたような血みどろの会議になりそうです。カルト思想団体の内ゲバ大分裂みたいに。
この点、ブラジリアン柔術ルールは直接コンタクトして参ったと言ったほうが負けだというルールなので、屁理屈論争にはならないのだろうと思います。強い人が正しい。正しく理解した人が正しく実践できて、正しく実践できた人が正しく強い。シンプルでフェアです。あるいみいじめっ子がはばをきかせそうなルールですがどんな人間性の人でも柔術に向き合う姿勢がストイックなら敬意を払うべきだと思っています。それがフェアです。誰かから好かれていたり嫌われたりしていたり屁理屈が得意だったり苦手だったりするだけで正否が分かれるのはアンフェアだと思っています。はみ出し者。
たぶん、柔術道場をやる人は常にうっすらと人間が好きなので一周回って相手の人間性をあまりみないところがあります。インストラクターに勧誘するような場合は別のセンサーが働いて一般的な初心者のおじさんがこのひとと触れ合ってどんな気持ちになるのかと判断したりもしますしできますが、素の状態ではうっすらすきだしうっすらどちらでもいい。
男はうっすらと全ての女性が好きで女はうっすらとすべての男が嫌いだ的な俗説に似ています。静岡県民はうっすらとJR東海が嫌いだ的な。
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