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10歳のサルは50間近で犬になった~小中学時代の恩師を思い出す~

※写真は昨年5月。いまや“廃校”となった旧・城山小学校に闖入した際のもの。この中庭にはプレハブがあり、小学3、4年をそこで過ごした


 向田邦子さんの「鹿児島感傷旅行」(『眠る盃』所収)、木内昇さんの「シンカン先生」(『みちくさ道中』所収)を偶然にも立て続けに読んだ。両巨匠とも「同窓会」や「学生時代の先生」について書かれており、ふやけた記憶の回路が大いに刺激を受けた。わが青春時代が一気に頭の中を駆け巡る。といっても、生来の出不精で薄情者。世の人々のように、嬉々として同窓会に出かけて行ったり、お世話になった先生方と連絡を取り合ったりなどということを全くしてこなかった。高校のクラスメートには何度かそういう場に誘われたものの、どうしても仕事が邪魔をして、ついぞ1度も顔を出すことがなく、今に至る。

 現在も佐賀県民のままである。現住地が小田原で出身が佐賀と思っている方は案外多いだろうが、佐賀は女房の実家のある場所で、私が生活したのは『ワールド・ボクシング』を辞めてからのわずか4年弱のこと。現在は妻と高校3年の長女、妻の両親や姉妹がおり、長男は岐阜、次男は佐賀県内の別の場所で生活している。

 実は埼玉出身なのである。生まれたのは上福岡、育ったのは坂戸市の、しかも西のはずれの西坂戸というところ。ここに3歳から大学2年で家を出るまでの17年住んだ。最寄り駅は「川角」(かわかど)。これはお隣の毛呂山町にある。徒歩20分、自転車で7、8分。東武越生線(おごせせん)で坂戸まで出て、東武東上線に乗り換えて遠出をするという暮らしを続けたのだった。

当時有名だった城山小学校の「108つの階段」
いまは緑が生い茂っていて、下まで見ることができなかった

 坂戸市立城山小学校、城山中学校。ずいぶんといろいろな先生にお世話になったものだ。小学1、2年の担任だった藤澤美保先生(『がんばれ元気』の芦川先生のように優しかった)、3年のときの新井先生(算盤が苦手で、しょっちゅう算盤でぶん殴られた。鬼のように怖かった)……。おそらく、自分たちが「手を上げられた最後の代」だったような気がする。でも、小学時代は教師が生徒をひっぱたくなんてことは当たり前。親も今のように目を光らせたりしなかったし、子どもたちも親に「殴られた」なんていちいち報告しなかった。昭和53年から59年、1978年から1984年の頃の話だ。そういえば、中学に入ってからはなぜか急に先生に叩かれることがパッタリとなくなった。ちょうど『ツッパリ』が社会問題となっていて、先生方も「お礼参り」に戦々恐々としていたからかもしれない。あとは『金八先生』の影響か。「情熱を持って話せばわかる」みたいな時代。オレら、話されても全然理解できなかったけど。ホント、アホだったから。

 小5のときなんて、クラス全員(もちろん女子も)横1列に並ばされて、新任教師だった田中勝先生に頬を張られたものだ。なんでそんなことになったのか、すっかり忘れてしまったが、間違いなくオレたちが悪かった。そういえばマサル(みんなそう呼んでた)、泣きながらビンタしてたっけ。
 先生を恨むなどという不届き者は当然ひとりもおらず、むしろそれ以降、マサル株はもっと上がった憶えがある。でも、翌年もそのまま担任だったマサルが手を上げることは2度となかった。今のように大問題となって校長や教育委員会に叱責されたなどではなく、本人がいろいろと思うことがあったんだろう、と。あの涙は、相当な覚悟があったからなのだと、今では何となく理解できる。

 休日になると、隣の日高町(といってもチャリンコで30分くらい)に住むマサルの部屋にしょっちゅう遊びに行った。そのときはマサルも独身だったから。今思えば、休みの日にクラスの生徒、しかも野郎どもが押しかけて来るなんて鬱陶しすぎる。でもマサルは本当に嬉しそうに迎え入れてくれた。心の広い先生だった。
 数年後、オレたちが中学生になったとき、マサルの結婚式にみんなで出席したのは感動した。「あのマサルがついに嫁さんをもらうなんて」と。心底幸せになってほしいと願った。アホはアホなりに、感激する感覚を持っていたのだった。

 独身といえば、中学のときの技術教師、長田(通称オサダッチ)先生のことを思い出した。事の始まりは、とある日の学校。「オサダッチ、エロビデオ持ってるらしいぜ」って誰かが聞きつけてきた。当時は「レンタルビデオ」がようやく世に出始めた頃。といっても、田舎町にはもちろんなく、電車で1時間超の池袋まで行かないとお店はなかったし、もちろん中学生がAVを借りることなんてできなかった。家の裏山に落ちてる、雨に濡れそぼったエロ本(『プレイボーイ』とか『スコラ』)を丹念に拾い集め、部屋にドライヤーなんて持って行ったら親にバレるから、必死にフーフーなんて息を吹きかけたり手をパタパタやって乾かそうとしたり。そうして、ベッド下の引き出し奥に、大切に隠し持っていたような時代だ(たぶん、おふくろにはバレてたんだろうけど)。
 そんな時代のアダルトビデオは、ド田舎のサルどもにとっては、1億円ぐらいの価値があった。だから、やはり隣町(鶴ヶ島)に住む、教師になりたてのオサダッチの部屋に、休日に何人かですっ飛んでいった。目を血走らせながら、チャリンコ立ち漕ぎで。鶴ヶ島は日高より断然遠かった。1時間近くかかったんじゃなかろうか。でも、そんな労苦は露とも思わなかった。

「先生、喉乾いたから何か買ってきて!」が、サルどもの作戦だった。オサダッチを外に追いやり、鍵をかけて家探しをし、すぐに発見。バリバリの“裏”だったから衝撃が強すぎて、誰も言葉を発することができず、ただただ口をあんぐりと開けて見入っていた。そんな折、戻ってきたオサダッチ、すぐにオレたちの目的を察したらしく、「おい!開けろ!!」って断末魔の叫び。今でもあの声は鮮明に記憶してる。
「もうおまえら来んなよ!」ってオサダッチは顔を真っ赤にして猛り狂ってた。さすがに殴られはしなかったけど。「こんなの普段見てるってバレたから恥ずかしかったんだろうなぁ」って当時は考えていたが、今思えば、きっと、オレたちが先生を慕って遊びに来たんじゃなく、「AV目当て」だったのがショックだったのだろう。でも、好きじゃない先生のところへなんて、オレたちも行くはずがない。いくらAV見たさでも。

「ほんま~、頼むよ~」って、毎度落ち着きなく授業妨害をするオレに泣きついてきたミヤセンこと宮崎先生。中学1、3年の担任で、5歳上の姉の担任もしていた先生だ。姉貴の時はバリバリに怖かったそうだが、やはり“時代”の変わり目だったのだろう。先生には本当に迷惑をかけたと思う。体育教師のまついっっぁんこと松井先生は、迫力があったけど、おもしろかった。授業中、平気で思いっきり放屁して、女子生徒は「キャ~」なんて叫んでたけれど、すっきりした顔で満足そうにニヤニヤしてた。オレたちもつられてゲラゲラ笑い転げてた。今じゃこれもセクハラになるのかね。安心してへもこけないなんて、まったくギスギスした世の中になっちまったもんだ。

 国語の中山美奈子先生、保健の大久保馨(かおるちゃん)先生は、飢えたサルの標的だった。いや、何もできなかったけど。ただただ“憧れ”ていただけ。あの頃は本当に純粋だった。サルだったけど狼ではなかった。
 自分でも不思議だが、女性教師だけ、下の名前をしっかり漢字までも憶えてる。これは特技といってよいのだろうか。それが生かされたことは1度も思い当たらないのだけれども。

城西大学下の高麗川から、小学校を望む。
昔からこの風景が好きで、30年経った現在もこの光景は変わらなかった

 去年の5月、なぜかわからないが、急に坂戸に行きたくなった。「編集室点描」(『ボクシング・マガジン』の人気コーナー)の熱心な読者ならご存じだろうが、キーを紛失したわが家の車は放置状態。なので、意を決してレンタカーをぶっ飛ばした。

 すでに“わが家”は存在しない。いや、厳密に言うと他人の手に渡った。定年退職した父が小田原の企業に雇用された関係で、実家が引っ越したというわけである。売りに出していた家がようやく売れたのは、父が他界してから。その契約のために行って以来だから、20数年ぶりとなる。まるで『ニューシネマ・パラダイス』の気分だった。

 小学校は2015年に中学校の敷地内に移転となり、私が通った学校は、姿かたちだけ残して“廃校”状態となっていた。
 門もしっかりと閉ざされており、その前を動物園の白熊のごとく、何度も何度も行ったり来たりしていたのだが、近所の人たちの奇異の眼差しが痛かったから、意を決して門を飛び越えた。

 もちろん、校舎内には入らなかった。それでは完全に不法侵入になってしまうし、ガラスを破るような乱暴なことは、この年になってはやはりできない。だから、下からずっと眺めるだけ。それでも、様々な想いはよみがえってきた。
 自分が来た印を何か残したいと思い、雑草が生い茂る一角で思いきり放尿した。10歳だったサルが、49歳で犬になった瞬間だった。

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