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模倣から始まる

前の記事にも書いたかもしれないけど、子どもの頃は作文が嫌いだった。作文が嫌いだったし、むろん、うまい文章が書けるわけがなく、学校の新聞に掲載されたり、褒められたり……ということとは無縁だった。

今となっては、こうして小説を書いたり、お仕事でWEB記事の作成に携わっているものの、文章を書くのに抵抗のあった時代からようやくここまで来れたな……と、自分で自分に妙な感心をしてしまう。でも文章をまともに書けるようになるまで、相当の時間を要したことは事実だ。

文章をろくに書けないのに、小説家になろう、と軽く決意したわたしが最初にやったのは、好きな作家の模倣だった。ゼロから自分の文体を作り上げるという発想は、わたしの中で皆無に等しく、誰かの模倣をしながらでしか文章を書けなかった。最初に真似をしたのが、村上春樹、そのあと川上弘美、川上未映子、江国香織……。彼らの文体に「似せて」書きながら、わたしは自分の文体を探していた。

今の文体が「自分の文体」だと言えるくらい確立されているかどうかは、わからない。けれど、次第に彼らの文体を意識せずに、書くようになれている……と自分では思っている。

模倣は文学(ひいては芸術)において、けしからん、とされている。でも、すべてのものに無から有が生じるだろうか? とわたしは疑問に思う。物語の発想は、模倣しようがなくオリジナルだけど、文体に関してはいろんな作家の影響を受けて、作り上げていくものなのではないか? というのが今のところのわたしの意見。

けれどあまりに文体が、既存の作家を彷彿させるようなものだと、公募の審査でマイナスに響く。影響を受けるのはいいけど、それに味付けしたり調理したりして「これがわたしの文体です」と自信を持って、差し出せるようになることが理想かもしれない。

過去作とかを読み返すと「ひゃー!」と叫びたくなるくらい、好きな作家の影響をバシバシ受けているので恥ずかしい。とくに江国香織のあのおしゃれな雰囲気に憧れて書いたものが、データにたんまり残ってしまっている。黒歴史。

逆に言うと「真似したい」と思わせるような文って、それくらい魅力をまとっているということでもあるな、とも思う。 

憧れは憧れのままで。いつかは「真似したい」と思ってくれるような素敵な文を、自分で書けるようになれたらいい。


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