ばーす・でい

 スマイルください。
 真夜中のコンビニで、すだれみたいに前髪を垂らした、怪しい女にそう頼まれた。は? 自分が店員だということ、相手が客だということを忘れて、俺は、つい、は? と声をもらしてしまった。それも、二回。
 女は、なんだかしらないが、ポケットからひびわれた手を拳のままにしてとりだし、それをぱっとひろげた。レジカウンターにチャリン、と五百円玉が落ちた。それが、俺の「スマイル」の値段らしい。安いのか、高いのか、わからなかった。
「あのー、ここマックとかじゃないんで。マックでもいまどき、そんなことしないんで」
 女に五百円を渡す。しかし女は俺の腕をがしり、と握り自分の元へひきよせ、てのひらに五百円玉を握らせる。
「……くださらないの? スマイルを」
 いや、といって俺は笑った。スマイルをあげるための笑いではなかったけど、あまりのばかばかしさに笑ってしまった。女はすだれみたいな前髪の隙間から充血した目をぎょろっとひからせて、よだれを拭った。「おいしい」。
 怖かった。女は、ふふふ、と喜びで肩をふるわせて、コンビニからでていった。
 すぐに休憩室にいる、副店長を呼ぶ。
「スマイルをねだる女? かわいいねぇ、そんな子いたの?」と、副店長は現場をみていないから、かわいい女子高生のいたずらかなんかだと思っている。ちがう。
「いや、ちがうんすよ。なんつーか、こう、全身から不幸オーラを漂わせている女がレジにきてですね」
「スマイルなんて、いくらでもあげりゃあいいじゃない。どうせ、減るもんじゃないでしょ」
 そうだけど。でも、なにか気味悪いのは確かだ。俺のスマイルを得て、女はどうするのか? それで栄養をとるとか? まさか。でもありえないこともない。
「彰くんはさぁ、そういう女に縁があるようだね」
 副店長は、鼻毛を鼻穴に押しやりながら、いう。そういう女、すか。そうそう、前の子もそうじゃなかった? ほら、ネットカフェで声かけられて、つきあった子。あぁ、と俺はやっと思いだした。思いだして、思いだしたくなかったと思った。
 つい最近まで、俺には彼女がいた。彼女はいわゆる、サイコパスだった。
 ネットカフェで声をかけられた。他人から声をかけられる場所ではない、空間だが、彼女は声をかけてきた。それも、「首筋に浮きでている血管、超セクシーですね」というのが、初めてかけられた言葉だった。
 そういうところに魅力を感じる女の子がいるんだなってことは、これまでの女関係からしっていたし、別にそれほど驚くことではない。驚くことではなかったが、タイミングがよくなかった。俺が、ちょうど、エロマンガを手にとった瞬間に、彼女は声をかけてきた。
 首筋に浮きでている血管、超セクシーですね。
 はぁ。
 それ、これから読むマンガですか?
 はぁ。
 私も一緒に読んでいいですか?
 いや、だめっす。
 俺は、急いで自分の個室のブースに入っていった。ところが、彼女は俺の個室の扉前でずっと待っていた。ときおり、上からのぞきこんだりしていた。やばい女。俺は個室からでると、「マジでやめてください」と真剣にいったら、「あ、邪魔をしちゃいましたね。私ったら、いけない」と舌をだしてそそくさと、自分の個室に入っていった。
 なぜ、そんな女とつきあったのか、今でも説明しようがない。でも、人生において、説明しようがないことはいくらでもある。なぜなら、人間は完全に合理的に行動しているとは限らないからだ。ちょっとより道しよっかな、という気持ち。この深い森に入ったらきっと抜けだせないかもしれないけど、ちょっと入ってみようかな、という気持ち。なんだかわけわからない女だけど、つきあったらいい子かもしれないな、という気持ち。
 そういうのと、同じだった。
 ちょうど、女に飢えていたのもある。
 俺はいっちゃうと、そこそこモテるんだけど、長続きはしない。ふられる側も、ふる側も、両方同じくらい経験する。まともな子とつきあったら、愛想つかされてふられる。そうじゃない子とつきあったら、自分が壊れかけるのでふる。そのときは、まともな子とつきあったあとで、愛に飢えていた。けっこう、真剣に好きだったから、その子がいなくなったら、俺はネットカフェにこもってエロマンガを読んで空洞を埋めることしかできなかった。
 そして、菜々子は(ネカフェで出会ったヤバイ女は菜々子という)、話してみたら、優しかった。
 ネットカフェの帰りにばったりと、菜々子に出会って(ヤツはばったりを装ったにちがいない)、一緒に途中まで帰ることになった(というかついてきた)。そのとき、思わず、前につきあった彼女のことをいってしまった。菜々子が、隣で優しい顔で聞いている。俺は、俺の気持ちをいっても、こいつはなにも否定せずに聞いてくれるんだと、なんとなく感じた。なんとなく感じたら、ぼろぼろと、菓子パンの屑がこぼれるように、思い出が口から落ちてきた。ぼろぼろは、思い出だけじゃなかった。涙も、情けないことに、とめどなく落ちてきた。
「すごく優しいひとだったんだね」
 菜々子は、俺の肩を抱いた。菜々子の、髪の匂いが香って、それが、元カノの匂いと似ていて、ますます涙がでた。
「優しいだけじゃなかったよ。……俺、マジで」
 好きだった。これは、言葉にならなかったことだ。元カノの前で、最後にいいたかったのに、言葉にならなかったことだ。俺は菜々子の身体にしがみついた。女の子の、匂いを必死にかいだ。ネカフェの空気と入れ替えて、それで肺をいっぱいにしたかった。
 頭がなでられた。初対面の、菜々子に、俺、なでられている。捨てられた犬にあげる慈悲みたいだ。そう頭のなかで表現したら、ますます惨めになってくる。
 ひゅー、リア充!
 傍を通るガキがそう冷やかす。リア充じゃねぇよ。傷心中なんだよ。心で訴えたが、次第にどうでもよくなった。菜々子の胸や、腰回りの柔らかさに、俺は癒されていった。
 で、つきあうようになった。
「でさ、なんで別れたんだっけ?」
 鼻毛をしまい込んだ副店長が、俺に聞く。聞かないでくれ。悪夢のような日々が走馬燈のように巡る。
「……、刺されたんすよ。ここ、さくーっと」
 今でも痕が残っている腕をみせてやった。副店長が、やっと思いだした、というふうに、あー、そうだったね。と笑う。いや、笑えないだろ。
 菜々子は、優しかった。でもそれは、菜々子を覆っている表面だけしかみえていなかったからだ。菜々子という人間を切り分けて、中身を探ってみると、びっくりするような、どす黒い汁があふれていたのだ。
 ……彰くん、しんでくれる?
 ……は?
 ……私、マジつらいんだ。彰くんといると。うれしいことも、楽しいことも、あるけど、マジ……しんどい。
 そして、いきなり俺は刺された。
「唐突だね。浮気してたの?」
「してないっすよ!! 俺、潔白ですよ!! なのに、アイツいかれてるからここブッ刺したんですよ?!」
 それでも副店長は俺を疑っている。「それでも僕はやっていない」と、俺は冤罪にかけられた被告人みたいな気持ちになりながら、否定し続けた。
 菜々子が「しんどい」と訴えた問題は、女関係じゃなかった。俺が、定職につかず夢も持たず、大志も抱かず、バイトがない日は一日中菜々子の部屋にいて、スマホのゲームばっかりやって、菜々子の会話にもつきあわなかったこととか。あとは、菜々子がしんどいときに、「あー、ね」「あるある」という言葉で済ましたこととか(その時もゲームをやっていた)。菜々子が仕事を辞めるといったとき、上から目線で社会の厳しさをとうとうと弁舌したこととか。あとは、菜々子を抱きしめて、元カノの名前を呼んだこととか。
 人生、いろいろだ。
「彰くんさ。君は俺からみても好青年だけど、なにか足らないよね」
「なにかってなにっすか」
「うーん、うまくいえないけどね。その不足部分がどうにかなれば、きっと人生ももう少し変わるはずだよ」
 なにそれ。俺への、だめだし?
 コンビニのガラス窓の向こうが明るみだした頃、俺は陳列棚をてきとうに整理していた。整理する必要もないくらい、きれいだったけど、なにか考え事をしたいから、そうしていた。コンビニの時計の針が六時ちょうどを指した頃、やっとなにかを思いだした。そのなにかは、けっこう重大なことだった。
 あ、俺、今日で三十路だわ。
 十代の頃、二十歳の頃、俺はこんなふうに、三十路を迎えるなんて、思っていただろうか。しかも、三十路に達した俺が、こんなにもなにも持っていなかったことも、想像できただろうか。
 時計の針は刻々と時をきざむ。
(こうやってひとは年を食っていくんだな)
 そのとき、客が入ってきた。ボーイッシュでかわいい女の子だ。俺は軽やかにレジに回って、「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶をする。このまま、どこへ俺は流れるんだろう。いつまで経っても、女関係で悩むんだろうか。それでも、まあいいや。自分の人生だし。
 女の子は、カップスープを手にとって、レジへ向かった。この子から「スマイルください」といわれたら、喜んであげちゃうな、と思っていたのに、女の子は俺の目もみずに、会計を済ますとでていった。

 

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