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【雑談】わたしはなぜ小説を読むのか?

気分が落ちる(わたしの場合は、もっと病的なことですが)と、よく「小説を読む理由」について考えたりします。人によっては、退屈な話(ナンセンス)に思えるかもしれませんが、わたしにとっては小説を通しての体験が人生において濃厚だったので、理由について考えずにはいられないのです。

そして今夜も、気分が落ちています。

結論から言えば、わたしが「小説を読む理由」はひとつしかありません。それは"人間を知る”ため。たとえば、わたしが本を、とりわけ小説を読むようになったのは、東野圭吾さんの「白夜行」がきっかけでした。「白夜行」の内容を知っている人はわかるかもしれませんが、犯人であるふたり(共謀しているふたり)のやりとり、接触にはふれず、物語が進行していきます。最後まで読み終えたあと、彼らがなぜ犯罪をおかすようになったのかが明らかになる――そういう話だったと記憶しています。

それまでは、なぜ人が罪をおかすのか、ニュースに流れてくる犯人にどのような背景があるのか。そんなことには関心がありませんでした。自分の人生の苦しさでいっぱいで。でも、「白夜行」を読み終えたとき、"悪人”とされている人の背景を想像するようになったのです。

ただ、この想像は犯罪を正当化するわけではありません。悪人もひとりの人間なのだとわたしは物語を通して、おぼろげながら理解したのです。そこから、わたしは読書の世界、小説の世界に溺れていくことになります。

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次に出会ったのは、太宰治の「人間失格」でした。あの頃、大学生の頃に、この小説に出会ったのは、ほとんど運命的だとわたしは感じています。なぜなら、その頃のわたし(青年期)が抱えている苦悩を、太宰治は物語にして精緻に表現していたからです。文豪の悩みを自分ごとととるのはおこがましい? では、なぜ多くの人はこの作品に共感を寄せたのでしょう。「まるで自分のことのようだ」と衝撃を受けたのでしょう。

道化として自分を偽り、そして本当の自分を、卑しい自分を誰にも知られたくない。この自意識の高さ、自己愛の高さによる臆病さ――。この作品が誰にも真似できないのは、作者がこの問題に真摯に(ときには嫌気や自死の念に襲われながら)向き合い、そしてそこから逃げようと思ったからなのではないでしょうか。(作者の心理を代弁するなど、つまらないことをしてしまいました。

太宰治の「人間失格」を読んだとき、それまでわたしの表面化されなかった、心の奥深い苦悩を、混沌とした苦悩を、彼が精緻に言語化している――わたしが言いたかったことを、大弁してくれている、そう感じました。そして、それは同時に"痛み”を覚えるものでした。

それからわたしは依存するように、太宰治の作品のほとんどに目を通そうとしました。彼の作品を読めば、自分の知りたかったこと(本当の自分)が暴かれるような気がしたからです。

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それから時間を経て、わたしは奇妙な作品のとりこになります。村上春樹作品の存在です。彼の作品は何を読んでも、わたしの理解に追いつきませんでした。ただ、彼がたやすく編み出す無数の比喩、会話の合間に差しはさまれる教養的な話、答えられない哲学的な問い――、これらに自分の知性が刺激されていきました。とはいえ、わたしは無知でしたから、まったくの更地に建てられていくのは輪郭のない知識です。子どもが標本を喜んで楽しむような感じで、村上春樹の作品に没頭しました。

村上春樹作品のなかに登場する世界文学作品にも興味を持ち、海外の古典にも目を通していきました。ほとんどおぼろげな理解で、ストーリーを正確に掴めないものも多々ありました。しかし、感受性に引っかかるもの、理解できなくとも印象に残る断片的な文章が頭のなかに入ってきました。そういう体験を経て、わたしは自分の世界が拡張されていく感覚をとらえたのです。

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それから江國香織さんからは人間の繊細な感受性を、川上弘美さんは関係性、心のあわい、揺れ動きの感覚を学びました。でも、小説を読んで人間関係がよくなる、処世術がうまくなるなんてことはありません。しかし、これらの蓄積は自分の内面を知ること、他者の内面を想像すること、そして人間の多様性を解釈すること――に、役立ちました。役立つ、なんて芸術家肌の読書家のみなさんに叱られてしまうかもしれませんね。

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小説を読んで、たやすく悩みが解消することもありません。しかし、小説と対話するように読んでいくと、人の深み、複雑性、矛盾を楽しめるようになります。それは、「わたしは本当は人が好きなのかもしれない」という気づきにもなります。あるいは、わたしは錯覚しているのかもしれません。本当は人と関わりたくないくらい嫌いなのに、小説の人物たちがあまりにも魅力的だから欺かれているのだと。

それはそれでいいと思います。世界や、自分の歪みを正しく認識できている人間が、どこにいるでしょうか。わたしの錯覚は、きっと「生きる喜び」を与えてくれるのです。まとめれば、「小説の世界を通して人の内面を知るのがとてもおもしろい」ということです。

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一気に吐き出して、すっきりしました。小説を読む理由は、それぞれあると思います。憧れの気持ち、知性を刺激させられる、あるいは学術的に読む、今いる世界から離れる。

今回の雑談では「わたしの場合の理由」を書きました。読書歴15年?くらいで、ようやく頭に留めていた、抽象的だったものを言葉に落とせた気がします。そしてまた、読書歴が重なれば、小説を読む理由も変わってくるかもしれません。

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