悲しみかたを教えて
梅雨が終わると、夏が始まった。
晴れているのは、始めだけだ。あとは、梅雨にだしきれなかった雨が、少しずつ遅れて吐きだされるように、雨の日が続いている。夏の雨は、なぜだか、安心する。とりわけ、夏の夜の雨などは。
からん、とグラスの氷が回る。
私は甘みのない炭酸水を飲みながら、キッチンのへりに寄りかかり、雨の音を聞いていた。ときおり、前髪をさわる。昨日、髪を切ったのだ。首が露わになるくらいの、ショートボブ。切ってしまってから後悔した。ショーウィンドウに映る自分が子どもじみてみえて、困惑した。私は、もう、子どもではないというのに。
水人は、長い髪が好きだった。
髪を、くしゃくしゃにしたくなるんだよね。
そんなふうに、いっていたのを、思いだす。それって、なんだか犬を扱うみたい、と笑っていた私の髪を、水人は指で梳いた。ふれていると、安心するんだ。そして、水人は、目を細めていつもそうやるように、唇の端をきゅっとあげた。それをみると、私は安心した。いや、安心まではいかなくとも、胸にじわりと熱いものが広がる感覚がした。それは、快楽といえるものだったし、私のなかの、なにかの自尊心を守るものでもあった。
でも結局、水人は去ってしまった。
氷を口に含んで、奥歯で噛んだ。ごりごりと音を鳴らして、氷の側面を削っていく。去ってしまった。その事実を、もう一度自分のなかで確かめる。最後の電話。ごめん、という言葉。でも、その声のニュアンスには、なんの罪悪感もこもっていなかったということまで。
それでも、私は、泣けなかった。
ふいに、窓が誰かの拳で叩かれるような音が聞こえて、私は視線をそちらにやった。中途半端に閉めた、カーテンを開けると、誰の影もみえない。暗闇のなかで、黒ぐろとした木々が風に揺れている。一応ベランダ窓を開けて、そこに誰もいないことを確認して、窓を閉めた。カーテンを閉めて、背を向けるとまた、どんどん、と叩きつける音が聞こえる。私は振り返った。
でも誰もいない。
風の音だったのだろう、と私は解釈しようとした。それでも、薄気味悪さは残ったが、私は感情を凍らせておくことができる人間だった。ふつうの人が感じるような、恐怖、怒り、喜び、そして悲しみ……、そういうものを、一瞬で冷凍してしまうことができるのだ。誰かは、それを心の病のせいだ、といった。水人は、それが君の防衛本能なんだね、と哀れんだ。でも、そのどれも違う気がする。私のなかでは、それがふつうなのだった。
どんどん。また、ベランダの窓が強く鳴った。
私は、今度は振り向きもせず、冷蔵庫を開けて、なかからチーズをとりだして、くわえた。冷蔵庫を閉めても、どこからか冷気が洩れているように、ひんやりとした空気が私の露わになったうなじや腕を冷やした。私は何気なく、天井に目をやった。そのとき、どうして天井に目をやったのかは、私にもうまく説明できない。脳のなかで指令をだされたわけでも、そこになにかが存在していると感じたわけでもない。まるで、髪をさわるのと同じ自然の仕草として、天井に目をやっただけだった。
そしてそこには、私の弟がいた。
「やあ、お姉ちゃん」
弟は天井近くで体育座りになって、私に手を振っていた。私はチーズをすべて口のなかに入れた。和くん。呼びかける私の声は声にならなかった。チーズ臭い息が、すっと天井に伸びていくだけだった。
今から十五年前に、弟は亡くなった。
その時、私は十三歳で、ちょうど今みたいなショートボブをしていた。弟の病室では父と母が泣いていたので、私は病院の廊下にでて、リノリウムの床がうす緑色に反射しているのを、ぼんやりと眺めていた。塩素の匂いがどこからかしていた。私は早く帰りたかった。寒かったし、弟が死んだ病院にいるのが怖かった。うなじがすうすうして、手に持っていた赤い毛糸のマフラーを巻いた。
あの頃。そうだ、あの頃に私は感情を凍結することを覚えた。
「呼ばれた気がしたから、来たんだけど、なんか歓迎してくれないみたいだね」
やがて弟はフローリングの上に降りてきた。十歳にしては、小さい身体をした弟。青白い顔、私と同じ奥二重の目。幻影だ、と私は自分にいい聞かせた。
マグカップ、と弟はつぶやき、洗ったばかりの白いマグカップを宙に浮かせた。それを手にとると、「僕も喉が乾いたんだ」といった。
消えて、と私の口はいっていた。
弟は眉をひそめて、そして悲しい顔つきになった。
「やっぱり、歓迎してくれないんだね」
そういうと、諦めたように、マグカップを下におろした。
「和くんは、もういないんだよ」
その事実をいっても、弟を傷つけるだけだとわかっていた。いわれた弟は、一瞬だけ色が薄くなり、またふたたび明瞭な色になって現れた。
「でも、お姉ちゃんは僕のことを悲しんでくれなかったよね」
心臓が、ごろり、と動いた。
とっさに私はグラスを弟のほうに投げた。弟の幻は消えて、フローリングの床には、ぱりん、と割れたグラスの欠片が散らばった。ふいに、夏の蒸し暑さを感じた。そして、我に返った。弟などいない、現実に戻った。
きっと、それが君の防衛反応なんだね。傷つかないための、方法。
いなくなってしまった、水人は感情をださない私を、そう解釈していた。違う、とその都度いいたかった。でも、ほんとうは、水人のいっていたとおりなのかもしれなかった。どちらがただしいのか、私にもよくわからない。ただ、悲しみかたや、喜びかたを、忘れてしまったようにうまく振る舞えない自分になってしまったのは、事実だ。
私は、弟が亡くなったとき、泣けなかった。
ううん、それはただしくない。
ほんとうは泣かない、と決めたのだった。
お父さんや、お母さんが、悲しんでいるから、私だけは泣かないでいよう、と決めた。殊勝な気持ちになっていたのかもしれない。私が、しっかりしなければ、と。
でも、それから、私は悲しみを葬った。
やめよう、と思ってやめられるものではない。でも、私には、それができてしまった。弟の死を悲しむことを、やめることが、できてしまった。
考えないことだ。ふりかえり、その方法を思う。
想像しないことだ。弟がどんな顔をして笑っていたのか、父と母がどんな気持ちで病床に伏している弟を支えていたのかを、想像しないこと。
そして、私が弟を好きだったことを、思いださないことだ。
思考をゼロにする。想像をやめる。十三歳のとき、一生懸命練習していたら、私は自然とそういう人間になっていた。
結局それが、私の生きていく方法だったのかもしれない。
小さなほうきでグラスの欠片を集めたあと、私は体育座りになって、フローリングの上に座った。目の奥が、じんわりと痛い。雨はあがっている。もう、夜中だ。私は、疲れているんだ、きっと。弟の幻をみるなんて、疲れているんだ。
水人のことも、もう考えるのはやめよう。
ゼロにするんだ、記憶を。代わりに新しい記憶を入れよう。毎日を、忙しく過ごして。たくさんの、情報を呑みこんで。そうすれば、私は悲しまない。いつも通り、泣くこともない。
――ちゃんと、悲しんでよ。お姉ちゃん。
耳の近くの骨あたりで、いないはずの弟の声が響く。
――悲しんで。感情を殺さないで。そうしないと、お姉ちゃん、だんだん自分のこころがわからなくなっちゃうよ。
お節介だ、と私は思い、なぜだか笑った。
なら、悲しみかたを、教えてよ。
小さくいった声は、蝉の声にかき消された。ベランダ窓の向こう、着実に命を燃やしている蝉たちに。
試しに泣いてみようか、と思った。悲しい事実や記憶たちを、思いだして、感情をかき集めようとしたけど、うまくできなかった。泣けなかった、今度はほんとうに。
ごめんね。
つぶやいた声は、誰に対してでもなかった。
あえていうならば、感情を殺して生きることに決めた、哀れな十三歳の自分に対してだった。
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