しけった煙草

 路上で、男を拾った。薄汚い男である。よくよくみれば、きれいな顔立ちをしているともいえるかもしれない。けれど、私には男に対する美醜がよくわからないので、かもしれない、という曖昧ないいかたしかできない。男を拾った日は、一日中雨が降っていて、路上に座ってしけった煙草を吸っている男も、雨に濡れていた。しけった煙草を持つ指先が寒さでふるえ、先端の火が消えないように片手で煙草を覆っていた。その覆っている手もカタカタとふるえていた。
 汚らわしいものをみてはいけません。不審なひとについていってもいけません。帰りはおうちに続く道だけをみて、まっすぐ、まっすぐ帰りましょう。
 そうママから教えてもらったことを思い出していたのにも関わらず私は、
「寒くないんですか?」
 と、男に声をかけていたのだった。
 
 ○

 男は片足が不自由だった。
「仕事でやられたんだ。足場から降りようとしたらそのしたにでかい釘があった」
 不自由なほうの、破れているスニーカーを男は脱いだ。靴下を履いている足は、ガーゼにくるまれているせいで盛り上がっていて、私はもうそれだけでいい、とさらに靴下を脱ごうとしている男をとめた。
 私は男を支えながら、バスに乗り込んだ。寄りかかってくる男からは、埃っぽい、そして少し酸味がかった臭いがした。男の靴のなかをかいでいるような、そんな感じの臭い。私たちの後ろに座っていたおば様は、鼻をおさえながら席を立って運転席の近くに座り直した。男は気にもとめていないふうだった。
 私のアパートにたどりつくと、私は男にシャワーを浴びるように促した。はじめは、男はめんどうくさそうにリビングの隅に座りこんだままだったが、やがて「大家さんのいうとおりにするよ」といって渋々、浴室へと歩いていった。大家さんとは、私のことらしかった。
 男がシャワーを浴びているあいだ、私はリビングを掃除していた。シャワーからあがってきた男に差し出すタオルとスウェットの準備をして、浴室の前にある洗濯機のうえに置いてやった。ひととりやりおえると、薬缶に水をいれてコンロのうえに置いた。男は、薬缶が沸騰するまえに、浴室からでてきた。
「腹が減った」
 身の丈にあわない私のスウェットを着た男は薬缶と私を交互にみて、そういった。部屋にいれてあげたのに礼儀がなっていない。そう思いながら、私は冷蔵庫にあったサンドイッチをとりだした。賞味期限が切れていたが、一日のずれなので問題はないだろう、そう私は判断をして、念のため期限がかかれてあるフィルムをはがして、皿の上に乗せて男にだした。男はそれにかぶりつき、ハムスターのように頬を膨らませながら丹念に咀嚼していた。
「どうしてあんなところで座っていたの」
「名前はなんていうの」
「お仕事は今も続けているの」
 男が黙っているので、私はやたらに質問を重ねた。重ねれば重ねるほど、男は私にうんざりとした態度を示した。
「お嬢さんだろう、お前は」
 意味がわからず、私は黙った。お嬢さん。私はお金持ちではなかったので、ちがう、といった。
「ちがわない。なんにもしらない、お嬢さん」
 私はまた黙った。男はだされたコーヒーを音をたててすすると、げっぷをした。
「今夜、泊まってもいいよ」
 そう提案した私を、男は笑う。ばかか、お前は。そういって、男は立ち上がり、不自由な片足を少しびっこをひいいて歩き、部屋の隅に固められた自分の服からくしゃくしゃになった煙草の箱を拾いあげた。火が灯るまで、しばし時間がかかった。男は私にかまわず煙草を吸う。
 男はベランダ窓まで歩み寄ると、
「俺は、掃き溜めのなかの屑」
 と私に背を向けてぽつりと呟いた。
 男はベランダ窓を開けた。冷たい雨が吹き込んできて、フローリングを濡らした。煙草を吸いにいくのだろう、と思ってそのままにしていた。男がベランダにでると、こちらからは男の姿を捉えることができなくなった。暗闇が、雨夜の暗がりが、窓を染めていた。
 私は待っていた。男がベランダからでてくるのを、待つつもりだった。さあさあさあという雨の音が外で鳴り響いているのを、聞いていたらいつの間にか私に眠気が被さってきていた。
 どれくらいかかったのだろう。目が覚めたとき、窓の外は静かだった。私はベランダにでて男がいないことを確認すると、部屋のなかを探した。どこにもいない。そういえば、部屋の隅に固められた男の服もなくなっていた。 
 盗まれたのは、わずか一万五千円。通帳には手をふれていないようだった。他にもなくなったものはなかったか、探したけれど、金目のものは財布に入っていた一万五千円だけ。それと、ゴミ出しの日にだそうと思っていた古本の束が崩れていて、そこからミステリ小説が何冊かなくなっているだけだった。
 私はアパートからでて、男を探した。盗まれた一万五千円のためではなく、男の安否を確認したいため。ばかか、お前は。そう笑った男の声が、頭で残響した。あたりはまだ暗く、ひとの通りも少ない。夜道を歩くのは危険です。そういったママの言葉を思い出した。変なひとにでくわすかもしれません。狼があなたを襲うかもしれません。ママの言葉はいつもただしかった。
 四つ辻のところで、私は歩みをとめた。どの道を選んだって、男には会えない。私はようやく、希望を手放した。みっともない、希望。私は男をどうしてやりたかったのだろう。哀れみをかけてやりたかったのだろうか。そんなことさえ、わからなかった。
 私は背を向けて、自分のアパートへと引き返した。アパートへと続く、暗い道を歩いていくうちに、私は、ママにいわれたとおりにしてきた「私」に、戻っていく、そんな気がした。

                       (了)

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