読書の秋

書きたいという「執着」

 地元駅前の、マックに寄って、ファンタジュースを飲みながら、自分は小説を書きたいのではなく、小説を書くということに執着しているのではないだろうか、と思った。
 たとえば、わたしは、ほんとうに生きていて小説を必要だと思っているのか、感じているのか……、そんなことを、ちょっと考えてみた。実際、小説を読まなくたって生きていけるひとがいるのは、自明のことであり、それでも小説を読み、さらには書こうとする、そのおおもとの気持ち、というのはなんだろう、と。
 遡ると、子どもの頃は、小説というものを求めてはいなかった。ただしくいえば、小説というものではないけれど、漫画や映画やドラマなどの、媒体が違うあらゆる「物語」のほうは、強く求めていた。

 自分で物語をつくるのも好きだった。
 空想癖が強いのは、自分の病気の特性でもあると思う。
 夏の日に、プールの見学時間まるまる、冬に降る雪をつかって、大きなかまくらをつくり、そこにキッチンやらテーブルやらを設置して、楽しく過ごしたい、なんていう想像を費やして、気がついたら、プールの時間が終わっていたこともある。
 また、子どもの頃、塾というものに憧れていたので、家から帰ったら、塾に通っている想像をして、家でする勉強のスケジュールを組んだりしていた。
 友だちも、二人か三人くらい、想像上でつくって、小学校の退屈で苦痛な日々を過ごしていた。
 子どもの頃、つらいことがあったら、その友だちがいてくれてたし、夜に好きなドラマを見る楽しみを頼りに、いろんな時間を耐え抜いた。
 物語、というのは、現実のつらいことから、離れられるひとつの居場所となっていた。物語のなかにいれば、わたしは、安全だと思えた。まるで割れないシャボン玉のなかにいるみたいな、そんな居心地。


 それで、最終的にわたしは、物語を表現する方法として、「小説」を選んだ。過去に漫画も描いていたけれど、絵よりも言葉のほうが自由度が高いし(そのぶん、作者の意図せぬ解釈もされがちではあるが、その解釈の自由度もこめて)、自分にしっくりきたのだと思う。
 それで、小説家になろう、と思った。そのことを、かんたんに、決意してしまった。物を書いていくお仕事として、いちばんやりたいのが、小説だったせいもあるけど、なかなか成りがたい職業だとは、頭の上でわかっていたけど、深く、考えず、深く、そこに命をこめず、小説家になろう、と思った。

 今でも、そのときの軽く決めた思いを、ずっと持ち続けている。
 それは、小説を書く喜びや、小説を読んでくれる喜び、また、小説に対する純粋な感情とは少し違う。執着だ、と思う。
 わたしは、ひとに対する執着も強いほうなのだと思う。自分が書いた小説の主人公みたいな極端な執着はしないけど、それでも、あのときの、あのひと、あの子との記憶や、その場に発生した感情を、いつまでも保持していたい、という気持ちはある。
 喧嘩して、突き放しても、突き放されても、思い出はぐるぐるとわたしの日々に忍び込んでくるし、夢のなかには、たびたび、そのひとたちがでてくる。自分の人生の主要な人物リストから、なかなか外せない。


 その、執着を手放す、ことができないせいで、苦しむことはよくある。でも。小説に対する、「執着」は、いつまでも手放したくない。
 これに苦しむことはあるだろう、悔しく思うことはあるだろう。でも、それは、わたしにとって、物を書くに必要な「資質」だと思うのだ。 
 

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