きれいな手

 きれいな手をしていますね。
 そういうのと同時に、後藤くんは何気なく、私の手をさわった。(あれ、このひとふつうにさわってる)と、私は心のなかで思い、さりげなく手を引っ込め、「親からの遺伝なんだ」といったら、後藤くんは、顔を真顔にして、「すばらしい」といった。
 お母さんの遺伝ですか? それともお父さん? もしかしたらおじいさまか、おばあさまですか?
 後藤くんは、しつこく誰の「遺伝」なのか、しりたがっていた。私は、また心のなかで、(そんな重要なことなのか?)とぶつぶつといっていた。えぇ、まあ、父だね。そういうふうにいうと、また後藤くんは「すばらしい」と繰り返した。
 ちょっと変わっているな、このひと。
 そう思いながらも、後藤くんは、私に関わってきた。
 講義が終わって、駐輪場で自転車にまたごうとしたら、後藤くんがどこからともなく現れて、「一緒に帰りません?」。私は、多少面くらいながら、うん、とうなずいた。
 後藤くんとは、初級英語の講義でしりあった。
 定員二十名の、超少数クラス。みんなたどたどしい英語を持ち寄り、自己紹介をした。カチカチの発音でしゃべる後藤くんの自己紹介でしったことは、彼が工学部ということ、そして英語は苦手なこと、好きなアイドルは欅坂だということ。そして、好きな映画は、「カッコーの巣の上で」。後藤くんをはじめてみたとき、私が思ったことは(なんてきれいな一重まぶたなんだろう)だった。
 きれいな一重まぶたは、私にとって価値あることだった。だから、最初後藤くんから声をかけられたとき、素直にうれしかったし、多少、(このひと空気よめないな)と思うような場面にでくわしても、それはそれで流していた。
 しかし。あのとき、かんたんに女の子の手をさわる後藤くんをしって、やはり(この子、なんかちがう)と思うようになった。

「相川さんって、何型なんですか?」
 後ろで自転車をこいでいる後藤くんは、大きな声で私に質問する。いつもの「分析」が始まったようだ。
「A型ー」
 めんどうくさそうに答える私に、
「部屋の整理は得意ですか?」
 とさらに質問する。
「べつにー」
 これもまためんどうくさく答える。後藤くんは、後ろでA型の特性について、ネットで調べてきたことを語り、さらに自分はO型であることを告白して、A型とO型の相性について熱く語った。
 途中で、(うぜぇ)と思った。
 横断歩道で、私と後藤くんは横並びになった。
「相川さんって飴を最後まで舐めるほうですか? それとも途中でかみ砕くほうですか?」
 とこれまた、非常に無意味な質問に思えることを聞かれ、私はうんざりし、
「なに? そんなことしって、なにになるの?」
「え? 相川さんのこと、しれるじゃないですか」
「ばっかじゃないの。それとも私のこと好きなの?」
 といい放ったら、後藤くんが口を閉ざして無言になった。信号が青に変わる。私は後藤くんを、おいて自転車のペダルを踏んでこぎだした。後藤くんは、あとからついてきたようだった。
 相川さーん。後藤くんの、間延びした声が響く。
「俺、あまり深く考えたことなかったけど、相川さんのこと、少し好きかもしれない」
 そういって、私はふりむいた。
 
 後藤くんと、私は駅の駐輪場に自転車をとめて、駅ビルのなかにあるスタバに入った。後藤くんは、カフェモカを注文し、私はキャラメルラテを頼んだ。
 ガラス窓に面している、カウンター席にふたり並んで座り、それをこくこくと飲んだ。後藤くんは、またさりげなく、私の手をさわってくる。
「やめなさい。それセクハラだから」
「あ、すみません。でもきれいな手だなーって」
 そして後藤くんは、自分の手をひろげた。ところどころ、あかぎれみたいに小さな傷がある。バイトで皿洗ってたら、こうなっちゃって。相川さんみたいな手ってうらやましいよ。そして、後藤くんはひとつ息を吐いた。
「相川さんは、なにかバイトやってるんすか?」
「なにもしてない」
 というと、後藤くんは、はーっと息を吐いた。なにをそんなに驚くことなのか、と思っていたら、
「授業料とかどうしてるんです?」
 切実な目をして聞いてきた。
 親が払っているんだ、というと、また、はーっと息を吐いた。なんかバカにされている気がした。
「やっぱり相川さんって違いますね」
 なにが「やっぱり」なのだろうか。私は、親が払っているのが、ふつうだと思っていたから、変わっている後藤くんに「違いますね」といわれたのが、少し不服だった。
「なんつーか、いいな。俺、相川さんみたいな家に生まれたかったな」
 それもやはり、どこか見下しているような感じに思えた。甘ったれた子供だと、どこかで思っているような。
「うちの家もいろいろあるんだよ。少し富んでいるからといって幸せなわけじゃないよ」 
 父は浮気性だし、母は変なものに凝り性だし、弟は最近ひきこもりだしたし。後藤くんに、いくつか列挙してみた。ふんふん、と後藤くんはうなずき、俺んとこも、ひどいんすよ、と例をあげた。
「父さんの会社が倒産しちゃって、今バイトしながら求職活動してるけどなかなかみつからなくって。そんななか、母さんが腎臓結石で入院しちゃって」
 とかく、金に困っているという話だった。
「俺、ほんとに大学にいていいのかなーっていつも思う」
 後藤くんは、うつむいて、また顔をあげた。窓ガラスの向こうに、女子大生が何人かきらきらとした洋服をまとって、歩いていた。いいなー、と彼はつぶやく。俺も、あんな女子大生になれたら、楽しいだろうな、と。
「他人をうらやんでも」仕方ないじゃない、といいかけた。後藤くんは、一重まぶたの目をぱちっとあけて、いいかけた私の言葉の先をくみとり、そうなんですよ! と同調した。
「誰かをうらやんでも、どうしようもない。これは格言ですね」
 格言なのだろうか。私は少し考えた。後藤くんが、そう思っているなら、格言かもしれない。
 後藤くんは、私の手をもう一度ひろい、さわる。
「でも、この手はうらやましいなー」
 ふつうの男がやったら、変態だと思うけど、後藤くんの場合、ほんとうに純粋にそう思ってやっていることだと、なんだか信じられるので、私はもう手をひっこめなかった。
 それから、後藤くんとは、何度かデートをした。
 デートをして、わかったこと。後藤くんの周りには女の影がいくつもある。初めて後藤くんのアパートに行ったとき、後藤くんのチェストのうえにつけまつげがおいてあった。(しかも使用済みつけまつげだ)と私はそのつけまつげをしげしげと眺めた。後藤くんがトイレに行っている間に。それを後藤くんに言及したことはない。外でデートしているとき、ときおり入ってくる電話(おそらく女)にも、深く追及しない。たぶん、後藤くんは、私の手をさわったあのときのように、他の女の子の手や髪や頬をさわって、純粋に感動するようなひとなのだろう、となんとなくだが、後藤くんをしったからである。
 そんな後藤くんをしって、私は(この男から身をひくべきだな)と思い、別れを告げた。
「なんで」と後藤くんは、悲しそうな顔をしていたけど、身をひくべき事情をしらないこともないだろう、と私は冷静に思ったりした。だから、「なんで」の返答の代わりに、
「後藤くんって女の子とつきあうことをどう思っているの?」と聞いた。
 ぱちくり、と一重まぶたで瞬きをして、後藤くんは、
「一緒に楽しむことなんじゃん?」
 と答えた。
 あ、うん、そうだね。
 後藤くんの考えは間違っていない。でも、後藤くんにはある種の「慎重さ」というものが欠けている。私の父みたいだ、と思った。
 きれいな手ですね。
 そういってさわった後藤くんの手の温度を思いだす。
 ひやりとしていた。後藤くんは、そのひやりとした手で、女の子のやわらかい肌を、またなにげなくさわるのかな、そんなことを思った。別に、憤りはしない。身を引いたから? 自分でもよくわからない。
 後藤くんは、まだ皿洗いのバイトを続けている。
 あかぎれの手、私はけっこう気に入っていたな。
 そんなふうに思い、苦労していない自分の手に、はあっと息を吹きかけた。

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