非営利組織の経営の本質②:非営利組織=ボランティアというイメージはどこから生まれてきたのか?
前回の記事で、ドラッカーの『非営利組織の経営』の日本語版の冒頭の「日本語版へのまえがき」にあるドラッカーのこんな言葉を紹介しました。
このまえがきをもっと読んでいて、とても興味深いのは、ドラッカーがアメリカの非営利組織の特殊性について、「ボランティアが支えていること」だと言っていることです。引用します。
この文章は日本語版へのまえがきで、2007年に刊行された本のもの。その時代認識に立ったうえで、最後、ドラッカーはこの文章をこう締めくくっています。
ドラッカーがアメリカの非営利組織の特殊性を、ボランティア・コミュニティによる運営だと思っていることはわかりました。では、日本は…といえば、実態の研究はされているのかどうか、よくわかりませんし、ドラッカーのように自信満々に語れる論客も居ないようです。この文章を読んでいるあなた(おそらく日本人)の持っているイメージはどうでしょうか?
結論から先に書くと、前回の記事では「非営利組織は事業でお金を稼いでもいいんだよ」ということを書きました。そういう意味では今回は、「非営利組織は別にボランティアの組織とイコールじゃないんだよ」という記事になります。
ということで、視線を一旦、ヨーロッパの方に向けてみましょう。登石優子先生の「日本とヨーロッパにおける市民社会組織の位置付け : 法制度の比較から」(国際交流研究 : 国際交流学部紀要 / フェリス女学院大学国際交流学部紀要委員会 編 (14):2012.3)という論文を発見しましたので、こちらで書かれている内容を紹介します。
カンタンに言うと、ヨーロッパでは非営利組織の概念はもっと広いよ、ということが書かれています。文章中に「ボランタリー組織」という言葉もありますが、これは一部であって全部ではない、と。
ここで気になるのが「社会的経済」という言葉。この文章ではこれ以上の説明がないので、ググってみたら、2012年 4 月17日に農林中金総合研究所主催で行われた国際協同組合年記念シンポジウム「社会的経済・協同組合とリレーショナル・スキル」の資料の要約部分がめちゃめちゃわかりやすかったので、紹介しておきます。
もうちょっと詳しいことも書いています。
目を引くのは最初のぽち。
・個人と社会の目的の資本への優位性
そして6つめの、
・ 自律的マネジメントと公的権威からの独立
ですね。
逆を言えば、「非営利ではない営利組織」は、「資本」が「個人や社会の目的」より優位性を持ちやすい、ということを言っているかと思います。
公的権威からの独立、というところもポイントで、どこの国とは言いませんが、政府はどうしても税金をたくさん納めてくれるような、他にもお金をいっぱい使ってくれるようなお友達の大企業を優遇してしまいがちです。それは政治家が選挙のことを考えたり、大企業からの出向者が官僚の仕事の下請けをしていたりという構造を考えると、無理もありません。人間だもの。どこの国とは言いませんが。
であれば、公的権威から独立して自律したマネジメントを行い、資本の論理よりも「個人や社会の目的」にコミットする組織に社会的な機能の部分を担ってもらうことができれば、バランスが取れるのではないか、と、そんな視座が読み取れるかと思います。
さて、話を戻しましょう。なぜ、ボランティア中心組織がアメリカ型のNPOになっているのか。
いろいろ見ていきますと、イギリスのチャリティもフランスやドイツの市民活動もそうですが、いずれもキリスト教の宗教改革からの市民革命の影響が多分にあるように思います。市民が勝ち得た自由と平等、そして民主主義。歴史的土着宗教がないアメリカにも、政教分離している日本にも、こういう伝統的に社会にとって「良いこと」を訴え続ける組織のあるセクターが無い。
いや、日本には神社やお寺があるじゃないか、という話もありますが、神社には教えがありませんし、お寺も個人主義の宗教で、社会を語る思想がありません。(とりあえず、ここでは言い切っておきます。)
アメリカの良いところは、歴史や伝統が無い代わりに、他国や異文化の良いところを抽象化して本質を見抜き、それを取り入れる柔軟性を持っているところです。おそらく、アメリカでは、社会に良いことを取り戻そう、という市民活動として、ボランティアによるコミュニティ活動が推奨されるようになったのではないか、と推察しています。
アメリカというのは面白い国で、ヨーロッパのように歴史的な階級制の名残がないので、国民であれば誰にでも成功するチャンスがあると考え、努力したことに報いたいという文化があり、成功者は財団作って社会に良いことをする、というのがひとつのステータスにようになっています。わかりやすい人生ゲームですね。結果として社会の貧富の差がはげしかったりするのですが、そのバランスを取っているのが、ソーシャルセクターになっているのだと思います。
そういえば、アメリカのファミリードラマなどを見ていると、バザーだのチャリティーだの教会での慈善活動などといった場面やセリフが結構、出てきます。そこに参画するのが当たり前、という文化が形成されているんですかね。チャリティ文化が盛んなのはもともとはイギリスだそうですが、これは貴族文化の名残なのかもしれませんね。アメリカは基本的にイギリス含むヨーロッパの歴史とか伝統とかに憧れてますので、その影響もあるのかもしれません(偏見)。
その流れの中で、ボランティアの中で若者が仕事の仕方を学んだり、コミュニティの中で出会いを発見したりという仕組みが、社会的に成立しているのではないかと思います。金持ちの財団のチャリティのパーティのボランティアなんて、スタッフとして参加したら、お金持ちの目に留まって良い就職先が見つかるかもしれません。これはボランティアでもスタッフやるしかないですねw
では、ひるがえって、日本はどうなんでしょうか? 日本のソーシャルセクターについて、先の論文ではこのように書かれています。
要は、ちっちぇえよ、と(笑。
特にポイントとなりそうなのは、「専門職員が少ない」というところ。これはアメリカ型のボランティアのメンバーが専門性を発揮して団体の活動を支えているのとはまったく違う状況が見て取れます。
アメリカ型を目指すためには、お金持ちが社会貢献したくなるような文化にしていく必要がありますし、そうするためには、富の偏在が必要となって、じゃあ、まずは貧富の差を作るのか、ということになり、それはそれで、意思決定しにくい道のような気もします。
逆にヨーロッパ型を目指すなら、ソーシャルセクターに所属する団体がきちんと専門性のある人材を採用して、組織も大きくし、それぞれの組織がちゃんとした組織としてネットワークし、資本の論理よりも「個人や社会の目的」にコミットする組織に社会的な機能の部分を担う。
個人的には後者の方がオススメですが、それはまた別な機会に語ることとして、今回は、今日のタイトルの問いに戻ってみましょう。「非営利組織=ボランティアというイメージはどこから生まれてきたのか?」です。
ドラッカーのまえがきに戻りますと、こんなことが書かれていました。
PTAに参加している親の方が、それを非営利組織に関わっている、という意識を持たれているかどうか、はわかりません。しかし、もしかしたらアメリカ型の社会システムを前提とした、ボランティアによる貢献活動というものが、日本では理解より先に制度やルールとして、入り込んでしまっているのかもしれません。
日本の社会の文脈でどこまでソーシャルセクターの意義が語られ、共通認識になっているのか、それはわかりません。というよりも、おそらく研究も理解もされていないのではないか、と思います。
にもかかわらず、メディアなどでは、アメリカではーアメリカではーとすぐにアメリカと比較した語りが不用意にされている。もちろん、海外の事例に学ぼうという姿勢は素晴らしいですが、専門知識なしに目の前の現象だけを見て日本はダメだ、と断ずるコメンテーターなどは、国益にとっても社会にとっても、百害あって一利なしのような気もします。専門家というより扇動家ですね。
ということで、今回のタイトルへの仮の答えとしては、もしかしたら、アメリカの特殊事例を見て、それを理想的なものとして語ってるだけじゃね?ということになりますが、これが逆に、日本のソーシャルセクターの成長を阻んでしまい、いつまでたっても日本の社会問題は解決しないし国民の幸福感も上がらない、ということになってるんじゃね?という気がしてしまいます。
日本のソーシャルセクターに、もっとプロ人材を!
と軽く提言しつつ、現場からは以上です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?